雪玲の野望

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 高位の宦官ということは瑞王や他の王族の側仕えと考えて良い。そんな男が鴆が住まう山に一人訪れたということは「董雪玲を捕まえてこい」と瑞王に命じられた可能性が高いと考えるのが妥当だ。 「城使えの方でしょう。それも高位の方とお見受けいたします。……私を探しにきたのでしょうか」  雪玲が冗談半分で呟いた言葉に、香蘭は大袈裟な反応を返した。唇をわななかせながら雪玲の手を握り、真剣な眼差しで見つめた。 「お逃げください。今すぐに。わたくしがどうにかしますから……!」 「落ち着いてください。は大丈夫ですよ」 「大丈夫ですって!?」  雪玲は再度「大丈夫です」と繰り返した。  心配性な乳母を安心させるべく、彼女の背に腕を回して抱きしめる。布越しに香蘭の心音が伝わってきた。早鐘のように忙しないその音はきっと恐怖からくるものだろう。気丈に振る舞ってはいるが董家狩りの記憶が蘇っているに違いない。  抱きしめてその背をさすっていると小さな吐息が聞こえた。  その音の出どころは自分でも、香蘭でもない。男が眠る臥台の方からだ。 「……思ったより早かったですね」  男の目覚めがきたと悟った雪玲は長椅子から立ち上がると香蘭に白湯(さゆ)を持ってくるように命じた。香蘭は戸惑いを見せるが雪玲がもう一度お願いすると(くりや)へ向かう。この宦官の男の素性がどうであれ、弱っている人間は放っておけない(たち)なのだ。  残された雪玲は卓の上に用意していた薬を手に取ると男の側に駆け寄った。  男は身動ぎしながら苦しそうに浅く短い呼吸を繰り返していた。意識は戻ったが呼吸が上手くできないようだ。  しばらくして男は落ち着きを取り戻したのか仰向けになった状態で深呼吸をする。 「おはようございます。と言ってももう夜も遅いのでこんばんはの方が正しいですね」  男の額に浮かぶ脂汗を手巾で拭き取りながら雪玲は問いかけた。 「体調はどうですか?」  男は重たそうに瞼を持ち上げると太陽の瞳に雪玲を映した。喋りたくても毒の影響で顔の筋肉が弛緩(しかん)していて上手く話すことは出来ないようで、もごもごと口を動かすと不服そうに眉を寄せる。 「声を発することはできますか? できるなら一回、難しそうなら二回、瞬きをしてください」  この問いに男はゆっくりとだが二回瞬きをして答えた。喋れないとなると顔だけでなく、喉の筋肉も弱っているため無理に薬を飲ませると誤嚥(ごえん)してしまう恐れがある。  できれば早急に薬を飲んで安静にして欲しいのだが無理に飲ませるわけにもいかない。どうしましょう、と雪玲が悩んでいると茶器を盆に乗せた香蘭が戻ってきた。  盆の上に置かれた薬方紙が目に入り、雪玲はほっと胸を撫で下ろす。 「ありがとうございます。海蘿(ふのり)()も持ってきてくれたのですね」  海蘿とは海藻の一種で、それを乾燥させて粉にしたものを海蘿粉と呼ぶ。飲み物や汁物にとろみを付ける際によく使用される代物だ。鳴家では隠居生活を送る先代当主のために厨には常に在庫がある。
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