序章

2/3
前へ
/154ページ
次へ
 彼らの視線はぐるりと大きく円を描くように作られた竹檻の中にいる、やつれた初老の男の姿に注がれていた。  男の名は(とう)(しん)。歳は四十半ばほどだろうか。かつては精悍(せいかん)な顔立ちと思われたが蓄積された疲労と身に纏う襤褸(ぼろ)(ほこり)や土で汚れた白髪混じり髪のせいで実年齢より十ほど老いて見えた。  董家といえば瑞国では並ぶものなしと言われた名家である。董沈自身も名門という家名に相応しく、二十六歳という若さで瑞王(ずいおう)から正一品にあたる太鳴(たいめい)(じょ)された男であり、打ち立てた業績は数知れず。誰よりも瑞国に貢献してきたであろうそんな男が宴席で瑞王に毒杯を飲ませたとしたとして五馬分屍(ごばぶんし)、いわゆる車裂きの刑を求刑されたのは人々の記憶に新しい。  瑞王のかつての右腕である男が死ぬ様を一眼見ようとする人々の奇異の眼差しに董沈は気付かないようだ。生気を失った顔で、刑吏(けいり)の先導のまま広場の中央へ進んでいたが急に足を止めると顔を上げた。 「ふざけるなッ!!」  董沈の口から発せられた怒声が空気を震わして人々の耳に届いた。 「春州への清国の侵略を防ぎ、冬州を取り戻せたもの我らの毒があってこそ!! お前達、愚存の民では到底達することが出来ぬ偉業を成し遂げたというのに、この扱いはなんだ?!」  続いて董沈は並ぶ軒車の中でも最も豪奢で真紅に塗られた軒車を見つけると、喉笛を食いちぎらんとする勢いで唇を持ち上げ、牙を見せる。 「愚鈍なる瑞王よ!」  人々はその一言でその軒車の中にいる人物が誰であったかを知る。大半の視線が董沈から軒車へ移り変わった。 「我らの毒があったからこそ、このような小さき国が、強国の中で生き残れたのを忘れたのかッ!」  慌てた刑吏がその口を閉ざそうと縄を引っ張るが董沈は体勢を崩す前に伸ばされた腕に思いっきり噛み付いた。  噛まれた刑吏と野次馬の中から悲鳴があがり、端で控えていた刑吏達が長柄を手に駆け寄ってきた。 「我が毒は短期で薄れるような微弱なものではない!!」  腕を噛まれた刑吏が苦しそうに腕を掻きむしり始める。瞬く間に顔色が土気色へと変わり、呼吸が乱れはじめ——数秒後、地面に伏して動かなくなった。指先一つ動かない様子に、刑吏の死を悟ったのだろう。何人かが気持ち悪そうに口元を押さえたり、早足でその場を離れていく。 「お前は我が一族、全員を捕らえたと思っているだろうがそれは違う!」  口を血で汚してもなお董沈は叫ぶのをやめない。胸の内を晒さんとする勢いで言葉を重ねた。 「私には雪玲(せつれい)がいる! 我が最愛の娘こそ、我が一族きっての毒の名手である!!」  悲鳴の嵐が巻き起こる中、真紅の軒車の窓が少し開き、そこから女のように白い手が伸ばされた。微かに覗く紅蓮の袖には緻密な刺繍が施されている。 「雪玲が必ずや我らの雪辱を果たしてくれることだろう!! 我ら一族を侮辱したことを後悔す——」  その先の言葉を聞きたくないとでもいいたげに手は下へと振り下ろされ、それを合図に董沈の首は刑吏によって切り落とされた。董沈の首は群衆の見守る中、断面から血を撒き散らしながら大地を転がった。
/154ページ

最初のコメントを投稿しよう!

57人が本棚に入れています
本棚に追加