雪玲の野望

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「あそこには鴆が住んでいるのになぜ登ったのですか?」  途端、白暘が作る表情は崩れ去る。  だが、それも一瞬のこと。一呼吸もしないうちに困り顔を作った。 「道に迷っただけですので、気にしないでください」  この反応は想定内だった雪玲は頬に手を添えて嘆息する。 「気にします。私は鴆を研究するために、通っているのです。本日のあなたの行動で鴆達は人間を警戒するでしょう。そのせいで研究が(とどこお)ってしまいます」 「……鴆を?」  これを口にすれば大抵の人間が雪玲を訝しむ目で見るのに対して、白暘はさして驚かず、どこか納得する様子を見せた。 「ようやく合点がいきました。どうして私が助かったのか疑問だったのです」  恵華山は鴆の住まう山。麓には鴆の生息地と示す看板も建てられているため、地元の人間はもちろんのこと、土地勘のない旅人すら近づかない。そんな危険地帯真っ最中の山中で、鴆毒を浴びてしまえば助けは来ないと誰もが諦めてしまうだろう。  けれど、助けられた。  そのことがずっと気がかりだったと白暘は語る。 「私、鴆毒に少々耐性があるのです」  自慢気に言うと、白暘は驚いた顔を作った。彼の仮面を見破った雪玲には白々しい芝居に見える。 「君ですか?」  、ということは白暘も毒に耐性がある体質なのだろう。 「ええ、胸の病を患っていたため、幼少時、鴆毒で作られた薬を服用していました。そのおかげだと考えています」  胸に手を当てた雪玲は昔を懐かしむように目を細めた。  思い出すのは姉と慕った女性だ。優しく、思慮深い彼女——春燕は生まれつき心臓が弱かった。毎日朝晩に、粉末状にした鴆毒と赤松の樹皮、梓実(しじつ)を配合した薬を服用しなければならず、一日の大半を褥の上で過ごしていた。  幼い雪玲は自分の室を抜け出しては、よく彼女の元を訪ねた。鴆飼いの一族だからと雪玲を怖がったりせず、春燕はいつも優しく笑いながら迎え入れてくれた。 『私、ずっと妹が欲しかったの』  そう言って、建国伝記や異国に伝わる御伽噺を語ってくれた。  しかし、その生活は董家が断絶されたことで一変する。  春燕が服用する薬は鴆毒が必須なのだが、董家が処刑されたことで製造ができなくなった。鳴家が貯蔵していた薬も全て王家に没収され、薬の投与が途絶えた春燕は日に日に弱っていった。元々か細かった体はみるみる肉はなくなり、骨と皮だけとなった。時が過ぎ去るにつれ酷くなる心臓の発作に苦しみ、血を吐きながらも彼女は生きる希望を諦めない。ずっと未来を見据えていたが、 『ねえ、雪玲。この名前と未来をあなたにあげるわ。私の分も生きてちょうだい』  その言葉を遺言に、春燕は五年前、十四歳の若さであっさりとこの世を去っていった。 (ごめんなさい、春燕姉さん。助けることが出来なくて……)  そっとまつげを伏せ、心の中で謝罪する。朗らかな姉は雪玲が生き延びるためにその名前と戸籍をくれた。  けれど、雪玲がこの名を使う時はいつも脳裏に春燕の姿が過ぎるのだ。あの時、静止する乳母の手を振り解いて自分が鴆毒を採取しに行けばよかった。自分のせいで鳴家から彼女を奪ってしまった。自分のせいで大々的に弔ってあげれないことが、いつまでも心の隅に引っかかりとして残っている。
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