瑞王と宦官

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「では、もうあの山には近づかないでくださいませ。あなたは敵と覚えられたでしょうから、あなたが近づくと鴆達が怒り、近づくことができません」  唇に笑みを浮かべた春燕は微かに怒りが宿る瞳で白暘を見つつつ、「それに」と続けた。父母に嗜められても口をつぐむという選択は彼女の中にはないようだ。 「やっと私に慣れてきてくれたのに振り出しに戻っては困りますもの。今回は運が良かったから生きていますが次はないと考え——」  最後の言葉は秀麗が彼女の帯を引っ張ったことで掻き消えた。代わりに「ぐえっ」と潰れた蛙のような声が春燕の可愛らしい唇から漏れる。  秀麗が泣きそうな顔で春燕を叱りつけようとするのを白暘は「大丈夫です」と制した。 「今回の事態は私の知識不足が招いたことですから……。春燕殿の忠告通り気をつけます」  眉尻を下げ、困った顔を作ると不満そうな春燕を盗み見る。春燕は眉間に皺を寄せながら腹部を擦っていた。帯を引っ張られたのが痛かったのか夜空の瞳にはうっすらと涙の膜が張っている。 (賢いが、生きづらそうな(ひと)だな)  白暘の目には春燕が生き急いでいる風に見えた。彼女にはなにかがあり、その目的を達成するために躍起(やっき)になっているのか、聡明な彼女らしからぬ行動をする。 (なにをそんなに焦っているんだか……)  雲を素手で掴むような、薄氷(うすらい)を素足で渡るような危うさだ。  だが、嫌いではない。こうやって素をさらけ出す姿はに似ていて、好感が持てた。  別れ惜しいが、迎えを待たせるわけにはいかない。ちらりと背後を振り返れば御者(ぎょしゃ)が申し訳無さそうな顔で軒車(けんしゃ)の隣に立ち尽くしている。きっと主人から早く連れ帰るように命じられたのだろう。これ以上、帰城を遅らせれば主人が機嫌を損ね、その犠牲に御者も付き合わせることになる。 「では、また後日」  そう言い残して迎えにきた軒車に乗り込んだ。  御者が扉を閉める前に床に広がる黄裙(こうくん)を見て、白暘は咄嗟に(ひざまづ)こうとするが、 「いい」  黄裙の主——瑞王、翔鵬(しょうほう)が片手で制した。 (なぜ、翔鵬様が……)  こんな田舎邑に似つかわしくない人物の登場に、白暘は余裕のある表情だが内心、困惑する。入口に掛けられた(すだれ)のおかげで、鳴家の住民にその姿は見えていないため騒ぎにはなっていないのが幸いだった。  主人と同じ軒車に乗るわけにもいかず、白暘が立ち往生していると、翔鵬は不愉快と言いたげに目を細めた。 「早く乗れ。怪しまれる」  翔鵬は自身の前の席を指差すと先程と同様、極限にまで抑えられた声で命じた。  おずおずと白暘が腰を下ろすと同時に扉は完全に閉められ、前に回った御者が出発の合図を馬におくる声が聞こえた。ゆっくりと車輪が滑り、地面を走りだす。
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