雪玲の野望

2/20
前へ
/154ページ
次へ
(お父様が瑞王を殺したなんてあり得ない)  今から八年前、董沈が先代瑞王を暗殺し反旗を(ひるがえ)した『毒羽(どくばね)の乱』が起きた時、雪玲は遠方に住む父の友人宅へ預けられていた。  雪玲は董家随一の毒使いと名高い父の血を引いているが生まれつき身体が弱く、微量の毒血でさえ高熱を出し三日三晩うなされるほどの病弱体質の持ち主で、幼い頃は走り回るよりも寝込んでいる時間が長く、療養の意も込めて自然豊かなこの(むら)に預けられたのだ。そのおかげで毒羽の乱に巻き込まれることなく雪玲は十六の歳を迎えることができた。  董家狩りを行う瑞王の目を掻い潜り、細々と生き延びてきたこともあり、香蘭の気持ちも痛いほどよく分かる。心優しい乳母は平穏な人生を雪玲に歩んで欲しいと願っていることは知っている。 (お父様のおかげで私だけ助かった。けれど)  多くの親族が無惨(むざん)に殺された。生きたいと願い、助けを求めても誰も手を差し伸べてはくれなかった。  そして、董家がいなくなったことで扱えなくなった鴆も多く殺された。  大好きな彼らを奪われて、自分だけ悠々と生きる未来など雪玲は必要としていない。 (もう少しの辛抱(しんぼう)よ)  春になれば秀女選抜が三年ぶりに開催される。そこで残ることができれば雪玲は妃の一員に——自分から全てを奪った男の妻となり直接対話することができる。 (私は美しい。きっとお妃様に選ばれるはず)  後宮に入り、父の呪詛を完遂するつもりではない。  ただ、真実が知りたいだけだ。誰よりも他者を思いやり、国を愛してきた父が瑞王を殺すわけがない。出来損ないの雪玲(じぶん)を愛してくれた父があんな遺言を遺すわけない。きっと何か理由があるはず。  雪玲の心の内を悟ったのか香蘭が強張った声で名を呼んだ。 「お嬢様。お願いですから敵討ちなど考えないでくださいませ。香蘭はお嬢様の幸せを切に願っております」 「分かっています。敵討ちなんて私は考えていません」  雪玲はたおやかに微笑んでみせた。己の心を隠すように、香蘭を安心させるように。 「お嬢様、お願いでございます」 「香蘭は本当に心配症ですね。あなたやお義父(とう)様、鳴家のみなさんに迷惑なんてかけませんよ」 「わたくしは冗談でこのようなことを言っているのではありません!」  香蘭は不安そうに眉尻を下げた。 「旦那様や奥様方は草葉の陰からきっとお嬢様の幸せを願っておいでです」  両手を硬く握りしめた香蘭は雪玲の目をじっと見つめた。  心の内を見透かされそうになり、雪玲は急いで視線をそらす。火鉢に()べられた木炭が割れて、火花が散ったのが見えた。 「……香蘭。火鉢の火が消えそうになっていますよ」  火鉢を指差せば香蘭は「あっ!」と声を荒げた。紅裙(こうくん)をひるがえし駆け寄ると長箸で掴んだ木炭を火鉢に放り入れる。 「香蘭、私はもう寝ることにします。あなたもゆっくりおやすみなさい」  雪玲が声をかけると、香蘭は慌てて立ち上がり居住まいを正した。 「おやすみなさいませ。良い夢を」  それに微笑みで返事を返すと雪玲は続き間となっている臥室(しんしつ)へと向かった。
/154ページ

最初のコメントを投稿しよう!

57人が本棚に入れています
本棚に追加