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一人の一生
娘が生まれた日、涙を流しながら妻にありがとうと告げた。あの涙も言葉も嘘偽りないものだった。ただ笑顔をたたえて産婦人科のベッドの上で僕を見つめる君を綺麗だと思ったのは事実だ。その時その瞬間、家族で成長していくことを信じていたのも確かだ。
僕がズレていたのか妻がズレていたのか判別はつかないし、改めて掘り返す気もない。ただ僕は家族を育てるために一日の半分以上を仕事に費やし、その生活を何年も続けた。子供の笑顔を見ていれば、いくらでも頑張れる。そう思っていたのすら事実だ。世間一般的に言う過労死ラインを毎月安々と越す労働時間。その中、妻と子供はあちらこちらに足を運んで生活を満喫しているようだった。
家族のためならば死んでいい。今、思い返せば笑ってしまう。僕は死ぬ前提で仕事していたんだ。
「奥さんは何も言わなかったのかい?」
「一回だけ仕事変えたらって言ってきたな」
同僚に飲みに付き合ってくれと言われたが、酒は飲まないと言っても話し相手が欲しいと言われてついてきた。離婚歴のことを聞かれて、つい余計なことを言った。
「なんでそんなに働いてたんだ?」
「今更だけど、元嫁の実家は太くてさ、親父さんも仕事バリバリこなす人で多分、あちら側の人間の圧を避けたかったんだろうな」
「お前は結婚してたときから贅沢一切してないじゃん? 今もそうだろう? 逆玉狙ってた訳でもないだろ?」
「逆玉とか久しぶりに聞いたわ。ああそうだよ。あちらの実家が太かろうが細かろうが僕には関係ない話だった」
「ふうん」
同僚は鼻を鳴らしてからジョッキを呷る。僕の話す内容が他人に理解されるとは思っていない。正直、離婚してからも嫌な言葉は散々かけられてきた。過労死レベルで五年も働きづくめにされたのだから、元嫁から慰謝料もらえとか子供を奪えとか。他人事ならば他人はどこまでも冷たくなれる。
離婚を言い出したのは元嫁のほうだが、彼女と過ごした五年間は決して偽りではないし、彼女を選んだことに後悔もない。もちろん離婚を選んだことに後悔もない。あの生活が続いていれば、現在、僕の命はとっくになかっただろう。
彼女が僕と離婚したいと言った理由は僕の稼ぎが少ないからだと言っていた。恐らくだが実家が裕福なだけに甲斐荘のない僕を落第とする話があったのだろう。
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