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希望
ガヤガヤと居酒屋の中が騒がしくなって、僕は目の前に置かれた焼き立ての鳥串の湯気を眺めた。
ようやくお茶が冷めたのか、彼女は先ほどと同じように湯呑みを両手で持ち上げて、今度はコクリ、コクリと飲みはじめた。
トオルは、彼女にあの日から少しずつ、全てを話したんだと思う。彼女が過ちでできてしまったこと。母親が彼女を置いていくことに、なんの未練もなかったこと。男手一つで育てた彼女が、なによりも大切な存在であったこと。そして、自分の体が病を抱えていたこと。
父親からの言葉全部を受け止めるには、時間がかかっただろう。
「先生、あたしね、お父さんの金物屋を継ぐことに決めた。今はまだ手伝いくらいしか出来ないけど、おじいちゃんとおばあちゃんが元気なうちに色々勉強して、あのお店を守って行けたらいいなって、思ってる」
「……そうか」
「あ、ちゃんと稼げるようになったら、今度はあたしが、先生に美味しいものご馳走させてください」
「……え」
「いつもあたしの話聞いてくれて、支えてくれて、ありがとうございます。次は、幸せな報告ができるように、頑張りますから!」
笑顔と血色のいい顔色を取り戻した彼女は、生き生きと握りたてのしゃけおにぎりを頬張りはじめた。
父親を亡くして悲しみに暮れていた彼女の姿は、ここにはもうないように感じた。きっと、あの歩道橋の上に、置いて来たんだろう。
頼もしい横顔に、僕は微笑む。
次にまた会えた時に掛ける言葉は、「久しぶり」と一緒に「おめでとう」が添えられることを、心から願っている。だから、それまで僕は、もう少しの間、彼女のことを見守りたいと思う。いいよな? トオル。
街の明かりが煌めく方へと駆けていく彼女の後ろ姿はもう悲しみを纏ってはいない。
見上げた空に吐き出した息が、白く滲んだ。
その先で、トオルが微笑んだ。そんな気がした。
─fin
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