欠伸。(視点:葵)

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欠伸。(視点:葵)

「魚にはやっぱり焼酎かなぁ。ロックかソーダ割ね。咲ちゃんは?」 「私は日本酒でいただこうかと」 「あら、じゃあ地酒も一緒に買ってくれば良かった」 「また行ってきますよ」 「あー、ずるい! 私も行きたい!」 「もしご希望の品があれば仰って下さい。買って来ますから」 「本当? ありがとう! でも二人で買いに行きましょうよぉ。折角だからさ」  ゆっくりと目を開く。遠くに聞こえていた会話を徐々にはっきりと認識し始める。ん、と自然に声が漏れた。 「あら、起きた?」 「おはようございます、葵さん」  ぼんやりとした視界に親友と後輩を捉える。恭子と咲ちゃんが笑顔で此方を伺っていた。おはよう、と応じる声が掠れる。此処は何処で何をしていたのだったか。靄が掛かった頭を懸命に働かせる。ええと、三人で飯を食いに来て、二人が瞬間移動でノドグロを買いに行き、旅行と皆に思いを馳せていたらどうにも照れ臭くなって、追加の酒を飲みながらぼーっとしていたら寝ちまった、と。スマホで時間を確認する。二十一時十五分。もうそんな時間か。 「おはよう」  二人がほっと息を吐いた。あぁ、そうだ。一応言っておくか。 「のんびりし過ぎだろタコスケども」  途端に揃って顔を引き攣らせる。一時間も待たせやがってと付け加えると、ごめんなさい! と正面と隣から声が響いた。サラウンド方式謝罪、なんてね。 「咲ちゃんは悪くないわ。私がお喋りに付き合わせたの」 「いえ、そのおかげで私のもやもやは晴れたのですが」 「悪いなーとは思ったのよ? 葵を待たせているのはさ」 「本当にすみません、眠ってしまうほどお待たせしてしまって」 「あんたのノドグロ、ただでいいから!」 「お酒も一杯ずつ奢ります!」  矢継ぎ早にフォローが飛んでくる。やれやれ。 「冗談だよ」  恭子と咲ちゃんが固まる。あくびを一つして酒を煽った。寝起きの一杯ってのもおつなもん、でもないな。 「……怒ってない?」 「別に。寝てただけだし」 「寝てしまうほどお待たせしてしまったのですが……」 「本当に怒っていたら家に帰っている。あぁ、でも鍵は渡していたのだったな。家の前で立ち尽くす、が正しいか」  大きく伸びをする。あ、いてて。背中を攣りそう。何故か恭子が溜め息を吐いた。何でだよ。 「葵、優しすぎ」  そう言いながら私の家の鍵を差し出した。くっつけてあるイルカさんのキーホルダーが揺れる。お疲れさん、と受け取りポケットへ仕舞った。 「気にされないと、むしろ申し訳が無くなりますね……」  咲ちゃんまで変なことを言うねぇ。怒られないにこしたことはないじゃないか。 「まあ滅多なことじゃぁ怒らないわな。私にとって怒りはマイナスの感情だ。ダメなものとは捉えていないが、限られた人生、キレているより笑っている方が楽しいだろ。だから多少のやらかし程度じゃ怒らない」  そう伝えると恭子が首を捻った。 「一時間、居酒屋で一人待たされたのを一応やらかしと認識してはいるのね?」 「寂しくはあったよ」  すると咲ちゃんが椅子ごと近寄ってきた。肩に腕を回す。うんうん、幸せだねぇ。 「ところで目的のブツは? 見たところ二人とも手ぶらだが。あ、手ブラって変な意味じゃないぞ?」 「当たり前でしょ!?」  恭子の目が釣り上がった。咲ちゃんは若干体を引く。此方は腕に力を籠める。逃がさねぇよ。 「で、肝心の切り身は何処だ。まさかもう食ったのか」 「そんなわけないじゃない」 「三等分していただいたので、それぞれの自宅の冷蔵庫へ仕舞ってきました。あ、そう言えば恭子さん。おまけでいただいた白魚は一体誰の元へ?」  恭子が反対側へ首を捻る。そして、さあ、と答えた。適当な奴め。では、と咲ちゃんは明るい声を上げた。 「入っていた人はラッキーですね。美味しく食べちゃって良いでしょう」 「そうね。恨みっこなしでよろしくっ」  私に当たっていないといいな。生ものをたくさん貰っても食べ切れるかどうか怪しいから。まあ無理だと思ったら二人を家に呼んで食べて貰おう。瞬間移動ならすぐに集合出来るもんな。  欠伸をかみ殺す。まだちょっと眠い。そう言えば、と咲ちゃんが私を見上げた。 「葵さんが珍しく怒ったことがありましたね」  そうだっけ。全然思い出せない。珍しく? と恭子がまたしても首を傾げる。赤べこかお前は。 「私はこないだ怒られたばっかりけど」 「……そういやそうだったな」  泥酔して深夜二時に我が家へ突撃して来た上に、覚えていなかった挙句反省の色も見られなかったから翌日叱り飛ばしたのだった。ついでにつまみ食いもしたんだっけ。役得役得。 「いやぁ、あの時の葵は怖かったわね」 「流石に許容出来ない範囲もある」 「夜中の二時に酔っ払いが来て叩き起こされたらそりゃキレるわ。あはは、ごめんごめん」  呑気な謝罪に僅かな怒りが頭をもたげる。しかしこいつは昨夜も酔っ払ってうちへやって来た。多分、この先も続くだろう。ぶん殴りたくなる時もあるけど昨日みたいに救われる場合もあるからな。今の半笑いくらいは大目に見ようじゃないか。 「そう言えば盛大に怒られておりました。恭子さん、どうしていつも飲み過ぎてしまうのですか?」  咲ちゃんの素朴だが切れ味の鋭い問いに、何でって、と腕を組んだ。 「そこにお酒があるから」  バカの回答だな。冷ややかな目で見詰める。 「あ、今あんたバカみたいだと思っているでしょ」  口笛を吹いてそっぽを向く。 「ふーんだ。でもあとは、そうね。飲みながらお喋りをするのも好きよ。素面の時には見えない、見せない、相手の顔に出会える。勿論、悪い酒癖は嫌いだけど基本的には楽しむわね」  ふむ、確かに別の一面を拝めることは多いな。しかし今度は咲ちゃんが首を捻る。此処は赤べこの展示場か? 「忘れてしまっては元も子もないのでは」  う、と恭子が言葉に詰まる。今日の咲ちゃんは随分切れ味が鋭いな。 「……いいの、楽しかったって余韻は残るから。ただ迷惑を掛けるのはよろしくないわね。その辺は気を付けようと思う。二人ともごめんね」  だが、改善はされないな、と確信する。八年も一緒にいるとそのくらいは察する。 「そうですか。恭子さんが楽しいのなら私がとやかく口出しすべきではありません。ただ、事故に遭ったりお財布を無くしたりはしないで下さいね。恭子さんの酔い方はなかなか凄いので心配なのです」 「好きって何って泣き叫んだりな。あれを動画に残しておいたらちっとは反省したのかね」  茶々を入れると恭子の顔が赤くなった。やめてよっ、と勢いよく手を振る。 「思い返すと滅茶苦茶恥ずかしいっ」 「思い返すも何も覚えていないだろ」 「そうだけど、咲ちゃんに後から教えて貰ったんだってば」 しかし結局、好きって何なのかわかったのか。そう訊こうとしたのだが。流石にそんな話をするのは気恥ずかしくて胸の内に留めた。それに、恭子はきっと答えを得た。好きが何なのか全部理解は出来ていないかも知れない。だけど、私との関係が掛け値なしの親友に落ち着き、綿貫君へ想いを伝えられるよう全力で頑張るって決めたのだから、何かしらの結論には至ったのだ。そうでなければ走るわけがないからな。 「まあ泥酔はほどほどにしろよ。そんで私が珍しく怒ったって、その時の話かい」  咲ちゃんの顔を覗き込む。いえ、と小さく首を振った。 「二年前、沖縄旅行の予約に際して田中君をこっぴどく叱ったじゃないですか。覚えてらっしゃいますか」  へぇ、と恭子が目を丸くした。あったねぇ、と記憶を呼び起こす。 「田中君と綿貫君がキャンセル不可の割安プランを五名分予約した、あれだろ。橋本君と佳奈ちゃんの予定を確認する前にさ。そんで二人は行けないって判明して、だけどキャンセルも出来ない。だから葵さんと恭子さんが代わりに来て下さいってヘラヘラ頼んで来た、あの時か」  まだ彼らは大学生だったな。 「その節は誠に申し訳ございませんでした」  咲ちゃんが改めて謝ってくれる。そうか、あの時からずっと田中君はバカだったんだな。 「社会人になってから、葵さんが叱った気持ちや理由がよくわかりました。どれだけ背伸びをしても学生と社会人は違うのだと感じるようになりました。あの時の田中君と綿貫君の行動の軽率さ、そして葵さんへの失礼な態度、今なら共感出来ます」  そうかい、と頭を撫でる。 「君も大人になったのだね」 「そりゃそうでしょ。結婚よ、結婚。咲ちゃんは人妻になるの」 「背徳的な香りがするな」  耳元に息を吹きかけてみる。ひゃっ、と身を竦ませた。 「コラコラ、公共の場でセクハラはやめなさい」 「家だったらいいのか」 「だ、駄目ですっ」  やっぱりからかい甲斐があるな。いつまででも愛でていたい。ずっと可愛がっていたいなぁ。 「まあその態度には問題ありだし、旅行へ行くのに徹夜で仕事を片付けさせられたけどさ。おかげで楽しかったわよね、沖縄」 「はい。とても素敵な思い出です」  私は、私は。 「……そうだな。本当にいい旅行だった」 「ねー。だから今度のゲストハウス旅もきっと盛り上がるわ」 「今度は皆でお料理なんかもするのですよね。私、あんまり手際が良くないから足を引っ張ってしまうかも」 「平気平気。料理の出来ない橋本君という底値がいるから安心なさい」 「底値はひどいですね恭子さん」 「まあ荷物持ちくらいはやってもらいましょ」  盛り上がる二人の前で、私は戸惑いを覚えていた。  いい旅行だった。その一言を口にするのに一瞬迷った。楽しかった。間違いなく素敵な思い出だ。そう、思っているのに。私の中で輝いているはずなのに。  引っ掛かりを覚えているのは何故なのか。
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