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ダウン・アンド・スリーピング。(視点:田中)
正面に座る恭子さんが俺を手招きした。何スか、と敢えて素っ気なく応じる。
「此処、座って」
そう言って隣の席を叩いた。完全に酒乱じゃないか。
「何で」
「語りたい」
「何を」
「恋バナ」
溜息を吐き、お隣りへ座り直す。仕方ない。恋バナと言われたら応じないわけにはいかないじゃないか。
「咲ちゃん、好き?」
「勿論。結婚するんですよ?」
「葵、好き?」
「その話は無し!」
そうね、と俺の肩に腕を置いた。酒臭いなぁ。一方、長い髪からは甘い匂いが漂って来る。バラの香りだろうか。うーん。うーーーーーん。
「ごめん」
「いえ」
気まずい沈黙が降りるかと思いきや、私はぁ、と先を続けた。
「綿貫君、好き」
「存じております。ありがとうございます」
恭子さんは、むふふ、と笑った。近い近い。
「綿貫君、好き?」
どういう質問だ。
「親友としては大好きです」
「……奪わないでよ」
「気持ち悪いことを言わんでください」
んー、と意味を持たない声が漏れている。大丈夫かね。あと、密着しないでいただきたい。
「綿貫君、何、好き?」
せめてジャンルを絞ってくれ。
「体を動かすことと、面白いことですかね」
「ちがぁう! 食べ物! ……バナナ?」
何故バナナ。どうしてバナナ。
「バナナも好きですが」
「そっかぁ」
今度は何やらふにゃふにゃ言っている。聞き取れないんですけど。
「ね?」
ねって言われても困る。だから曖昧に微笑んで誤魔化したのだが。
「あ、聞いて、無かった?」
こうよ! と右の頬を引っ張られた。だけど全然力が籠っていない。いよいよアカンな。
「だからぁ、私は、……何を言った?」
もう忘れたんかい!
「すみません、聞いていなかったのでわかりません」
「聞いといて、よぉ。私、酔ってんだから」
自覚があるだけマシ、とは言わない。あったところで泥酔している事実は微塵も揺らがない。
「君も、好き?」
何が。
「咲もバナナも好きです」
「あーっはっはっは! なにそれぇ、バナナと同列なんて、咲ちゃんかわいそー!」
胸元をバシバシ叩かれる。今度は結構痛い。ジョッキを倒さないよう手で押さえると、あたしんだから、と急に睨まれた。酒、好き過ぎじゃない? そうして恭子さんは取っ手を握り締め、酒を飲んだ。まだ飲んだ。こんなに酔っ払っているのに飲んだ。止めることは出来ない。きっと絡まれる。つまり俺は既に詰んでいるのだ。酒を飲んだら更に酔っ払って収集がつかなくなる。酒を飲ませなければ、飲ませろこの野郎、と絡まれるに違いない。なにせジョッキを押さえただけで凄まれた。多分、予想に間違いはない。
ふう、と息を吐いた恭子さんは、そんでぇ、と話を続けた。
「クルーズ、カモメかな」
恐らく、クルージングの際にカモメが飛んで来てくれるかな、と言いたいのだろう。いや知らんがな! 鷹匠ならぬカモメ匠でも連れて来なさい!
「来るといいですね」
「ねー! 彼、カモメ、好き? 好きか!」
綿貫本人に訊いてくれ。
「戯れたがっているくらいだから好きだと思います」
「思いますぅ? 頼り、ねぇなぁ」
最早口調まで崩壊している。すみません、と火が燃え広がらないよう早目に謝罪した。
「んでぇ? 映画、何観る?」
「さっき決めたでしょ」
「あー、あれ。あれ……あれぇ?」
駄目だこの酔っ払い。
「念のため、後でメッセージを入れておきます」
「よろし、くぅ」
ありがとぉ~、と頭を下げられた。いえいえ、と無難に応じる。
「でぇ、お酒、飲んで、海、か」
今の恭子さんが海に行ったらうっかり波に攫われて溺死しかねないな。
「そうです」
「……そうか」
遠い目をしていらっしゃる。告白出来っかな、とでも考えているのかね。しばらく沈黙が続いた後。
「頑張る」
ぐっと両の拳を握り締めた。
「応援しています」
ただ、さっきもこの話、したよなぁ。酔ってんなぁ。酔っ払ってんなぁ。
「デート、計画、ありがと」
「恩返しですから」
「頑張る。どうも、ありがと」
深々と下げた頭が今度は俺にぶつかった。そのまま体を預けて来る。ちょっと、と慌てて声を掛けたけど返事は無かった。完全に脱力しているので仕方なく体勢を入れ替え、後ろから抱き止める。既に寝息を立てていた。寄っかかられたのは予想外だけど、まあいずれ潰れるとは思っていた。これだけぐでんぐでんになっていたら想像に難くない。葵さんにもちょこちょこ報告は入れていたし、既読も付いていた。面倒臭いと言いながらも気に掛けてくれているのだと理解する。
スマホを取り出し、自撮りモードにして現状を写真に収めた。しかしまあ、恭子さんってば良い笑顔で寝ているよ。対する俺の顔は完全に引き攣っている。急いで葵さんにメッセージをしたためた。
『恭子さんがやっぱり潰れました。飲み過ぎを止め切れなかった俺に責任があります。そして、これからどうしたらいいですか』
我ながら情けないね。タクシーで家まで送り届けるのがいいとは思うが、なにせ俺にはやらかした実績がある。一人暮らしの女性のお宅へ無断でお邪魔するわけにはいかない。また、すぐに既読が付いた。速攻で電話が掛かって来る。
「もしもし」
「酒乱バカが迷惑を掛けたな」
怒っているかと思いきや、どちらかと言うと呆れが滲み出ていた。それでもこちらは背筋が伸びる。
「いえ、もっとちゃんと止めるべきでした」
「悪いがもう少し様子を見てくれ。潰れても三十分くらいしたら目を覚ますことがある。咲ちゃんには私から状況を伝えておくよ。勿論、写真もね」
怒られるだろうな。それも覚悟した上で送ったのだ。はい、としっかり返事をする。
「その上で、田中君」
「はい」
「おいたはするなよ」
「しませんよ!」
バカかこの人は! そう思いながら、一瞬視線が一か所に向く。
「お前今、恭子の胸元を見ただろ」
げっ、バレてる!
「……何のことやら、さっぱりです」
バーカ、といつもの葵さんの調子に戻った。しかし相変わらずこの人には俺の思考がまるっとお見通しなんだなぁ。ここまで言い当てられると恐ろしくなるね!
「恭子が起きてトイレで用を済ませたら、タクシーでそいつの家へ向かってくれ。到着したら連絡をくれるか? 私も咲ちゃんとすぐに行くからさ」
瞬間移動でお出迎え、ね。
「わかりました」
「よろしく頼む」
ふっ、と葵さんの吐息が聞こえた。あのさ、と切り出される。
「恭子もね、君が相手だから安心して羽目を外したんだと思う。いい迷惑であることには違いないが、信用の証と捉えて勘弁して貰えるかね」
信用、か。こないだ、俺が全部ぶち壊しにしたものじゃないか。
「それはね、葵さん。俺を相手に楽観的過ぎやしませんか」
「そんなことは無い。君は知らないだろうけど、恭子が潰れるのは我々と飲んだ時だけだ。他の席ではいつもちゃんとしているんだぜ」
「だからって俺と二人きりなのに潰れちゃ危ないでしょうが」
「信じているのさ。口ではバカだのアホだの言いながら、君が自分に手を出したりはしないだろうって」
「……俺は貴女に、あんな仕打ちをしたのに?」
「さて、詳しい話は本人に聞いてくれ。私の意見はあくまで推測なんでね」
自分で振っておいて逃げるなんて、本当に自由な先輩だよ。そして恭子さんが話せる状態じゃないのもわかっているくせにさ。
「じゃ、すまんがまた後で」
電話を切られそうになったので、慌てて呼び掛ける。
「あの、そこに咲、いますよね?」
「おう。代わろうか」
「お願いします」
ちゃんと、自分の口で事情を説明しておかなきゃ。少し緊張しながら待っていると、もしもし、と聞き慣れた声が受話器から響いた。
「もしもし。ごめん。恭子さんが潰れて、今、体ごと支える形になっている」
「写真、見たよ」
そう言われて、ごめん、と繰り返す。しかし案外咲は穏やかだった。
「ううん、しょうがないよ。恭子さん、お酒が大好きだから。それとも君が無理矢理飲ませたの? だったら怒る」
とんでもない誤解だ! 違うよ、と即座に否定をする。
「自主的な飲酒です! クリスマスの計画が固まって、テンションが上がって、わーっと飲んだの!」
止めなかったのかよぉ、と遠くからヤジが聞こえた。葵さんめ!
「止めました! 言う事を聞かなかったんです!」
「まあ止まらないよね、恭子さんだもの」
咲の言葉に、そうなんだよ、と必死で相槌を打った。
「潰れちゃったのなら仕方ありません。その代わり、変なことはしないでね」
しないよ、と叫びたいところだが。しちゃったからなぁ、告白。実績がなぁ。
「はい、咲に顔向け出来ないような行動は取りません」
「約束、ね」
「うん、約束」
「じゃあまた後で」
その時、疑問が一つ過ぎった。ごめん、と引き止める。
「ちょっとまた葵さんに代われる?」
すぐに、何じゃ、と代わってくれた。
「一回で用事を済ませられんのか」
「すみません。でも、もし恭子さんが起きなかったらその時はどうすればいいのですか?」
「おんぶしてタクシーに乗せてくれ。その時は移動中にゲロを吐く可能性が高いから、ビニール袋を用意しておくように」
訊いといてなんだが最悪の情報だ。
「持っていないです……じゃあエコバッグを犠牲にします」
「請求は、店代とタクシー代と合わせて後日、本人に頼む」
「そうならないことを祈りますよ」
まったくだ、と葵さんの溜息が聞こえた。
「では改めて、また後程。よろしくお願い致します」
「悪いな。よろしく」
電話が切れた。後に残されたのは呑気に寝息を立てる恭子さんと、それを支える俺の二人だけ。深く考えるのをやめてスマホを取り出した。適当にサイトを眺めながら残った酒とツマミを片付ける。しかし、信頼ねぇ。皆、優しすぎるんだよな。そして恭子さん。もし綿貫がこの状況を目撃したら、またややこしいことになるのですよ。まず俺が咲に隠れて不貞を働いているのかと激高するに違いない。次に、そんな気安く体を預けたりしてはいけません、と貴女に注意をするでしょう。あと、潰れるまで飲むんじゃありません、とも言うに違いない。あいつ、心配性な一面もあるからな。ましてや惚れた相手の貴女のことは、心の底から気に掛けますよ。葵さんは信頼の証って言ったけど、もし綿貫とうまくいったらこういう行動は自粛して下さいね。
こっちの気持ちも露知らず、先輩は薄い笑みを浮かべて眠りこけている。デートの夢でも見ているのかね。恭子さんには綿貫がどう見えているのか、頭の中身を覗いてみたいよ。やれやれ。
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