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世界にいなかったはずの人。(視点:田中)
一定のリズムで繰り返されていた呼吸が、不意に止まった。不安が過ぎる。まさか、急性アルコール中毒で体調が悪くなったのか!? と、心配が過ぎったのも束の間。ぶえっくしょい、とおよそ二十六歳のちゃんとした大人がするとは到底思えないくしゃみを恭子さんがかました。呼吸が止まったわけではなく、くしゃみのために呼気をチャージをしていたらしい。
うぅ~と唸り、手で目元を擦っている。起きたかな。ところで貴女、二年前の沖縄旅行の時、崩れた化粧でホテルを歩きたくないって主張していませんでしたっけ。そんなにゴシゴシしたらチークだかマスカラだかアイシャドウだか知らんが滲みそうだ。酔っ払ってどうでもよくなったのかね。
「……寝ちゃった」
呟きながらも体は起こさない。まだ俺に寄り掛かっている。さて、何と声を掛けたものか。どうせ記憶には残るまいが、第一声は大事な気がする。……気がするのだが、掛ける言葉が見付からない。うむ、このまま黙っているとしよう。
静観していると、あぁ、と大きく息を吐いた。そして、葵ぃ、と俺の太ももを叩く。
「ちょっと、トイレ、行って来る」
どうやら俺を葵さんと勘違いしているらしい。ここで話し掛けると恭子さんが無駄に混乱しそうなので、沈黙を貫いた。自分が寄り掛かっていた相手を見ようともせず、ふらふらとトイレへ向かっている。まあ歩けているなら大丈夫かな。女子トイレへ付き添うわけにもいかないしね。今の内に荷物を纏め、会計ボタンを押す。もうこれ以上、飲みはすまい。あとは帰るだけ。店員さんは、席まで来て金を預かってくれた。そうだ、と思い付きスマホを取り出す。橋本に教えて貰ったアプリを起動すると、確かにタクシーを手配出来た。恭子さんが戻って来たら、すぐに呼ぼう。まだ掛かるのかな。飲食物が口から逆流しているなら、しばらく帰って来ないよな。今の内に、葵さん宛のメッセージをしたためる。家に着いたら連絡をくれとは言っていたが、店を出る際にも一報を入れた方がいいだろう。
『これからタクシーに乗って恭子さんの家へ向かいます。東秋野葉駅近くからの出発です』
あとは送信ボタンを押すだけ。よし、準備完了。さて、のんびり恭子さんを待つとしよう。車内で大惨事を引き起こさないで欲しいもの。
しかし俺と葵さんを誤認したということは、しょっちゅう酔い潰れてもたれかかっているのかな。……随分贅沢な絵面だ。咲が見たら写真に収めるに違いない。そして、それだけ気を許しているし、安心、信頼しているんだ。親友同士だもんね。
だがちょっと待て。今、恭子さんが寄っかかっていたのは俺だ。ただの後輩だぞ。あ、違う。誤認していたのだから恭子さんの中で俺は葵さんだったんだ。まったく、無駄にややこしいな。ん? だが潰れる前に恭子さんが話し掛けていたのは、内容的に確かに俺だった。ええい、恭子さんの認識はどうなっている!? 俺は一体誰なんだ! 俺だ!
勝手に混乱していると、よれよれと帰って来た。自分の席を認識しているか怪しいので、こっちです、と手を振る。
「あらぁ、田中君じゃぁないのぉ」
最早一緒に飲んでいたことすら覚えていないのか。急いでアプリからタクシーを手配する。おっ、ラッキー。十分後に来てくれるのか! 助かった!
一方、恭子さんは戻って来ると、よいしょお、と椅子に腰掛けた。さっきのくしゃみといい、案外恭子さんにもおっさん成分が流れているのかも知れない。酔って表出しちゃいかんでしょ。
「んー……眠い」
目、瞑ってるし。
「でしょうね。帰りますか」
「んー……」
あ、また寝かかっているな。行きますよ、と先に立ち上がり肩を叩く。セクハラだが今だけは勘弁してくれ。
「……んー……」
「ほら、恭子さん! 支払いは済ませたから、行きますよ!」
呼び掛けても、瞼を閉じたままニヤニヤするばかり。仕方ない。自分と恭子さんの鞄を左の肩に掛け、右腕を恭子さんの脇に差し込む。恭子さん、そして咲、ごめんね!
「ほら、立って!」
「んー……あれぇ? 葵、背ぇ伸びた?」
まだ間違えてんのかよ! 俺の声、聞こえてないの!?
「葵さんじゃなくて、俺、田中です」
「……田中君。あぁ、そうか。そうか」
何度も小さく頷いている。やっと今日の正しい記憶を思い出したのか。それでも変わらずぐでんぐでんな恭子さんを支えながら店を後にする。
「仲良しぃ、ねぇぇ~」
「咲に殺されたら末代まで恨みますから」
「だぁいじょぶよほほ」
喋りながら笑うとは器用な酔っ払いだ。ありがとうございました、という店員さんの声を背に外へ出る。時折膝の折れる恭子さんを、主にやましい考えを浮かべないようにという面で必死になりながら待った。やがて一台のタクシーが店の前に止まる。成程、橋本が使っていたアプリは確かに便利だ。
「あー、タクシぃ~。ヘイ!」
のっぺり顔を上げた恭子さんが右手を上げる。俺が呼んだのだが、酔っ払った恭子さんは知ったこっちゃないもんな。何とか乗車させるとそのまま奥の窓ガラスに頭をぶつけた。いてぇ~、と呻いている。ちょっとは酔いが冷めないかね、と思いつつ後に続いた。スマホを取り出し、葵さんが事前に送ってくれた恭子さんの住所を読み上げる。そして大恩人のシートベルトをしっかり締めた。次に俺。そしてタクシーは発車した。
車内には恭子さんの吐息だけが響いている。まあよく飲んだ上にお手本みたいな酔っ払いになっちゃって。とは言え、見慣れた光景でもある。しかし学生時代はもうちょっと節度のある飲み方をしていた気がするんだがな。まったく、困ったお姉さんだ。
そんなこの人を、綿貫は昨日好きになったのか、と不意に頭へ浮かんだ。そして恭子さんも一か月前から綿貫を好き、と。なんだか不思議な感じがするだ。二年前の沖縄旅行で二人は初めて出会った。当時の恭子さんは仕事が忙しくて、事前の顔合わせ会には来られず旅行の当日に初顔合わせとなったっけ。そして、あぁそうだ。笑いが込み上げる。恭子さん、飛行機から降りる時に躓いて、前を歩いていた綿貫にヘッドバッドをかましたんだった。初対面の人間に、まあ豪快なやらかしだよなぁ。ある意味運命の出会いかね。旅行を終えてから今まで、何度も飲みに行った。綿貫の頓珍漢な思考と発言に、恭子さんはしょっちゅう爆笑していた。仲の良い先輩後輩としてずっと過ごして来たと思う。それが、ふとした瞬間に恋心を抱いたのだ。恭子さんは、綿貫がまだ高橋さんを好きって聞いて、初めて自分の気持ちを自覚した。綿貫は、あざとい仕草が決め手になったようだが、その前から多分悪くない感情を抱いていたに違いない。疑似デート、ありがたいってずっと感謝をしていたもの。
元々、互いの存在を知らなかった二人。綿貫健二は秋葉恭子が、秋葉恭子は綿貫健二が、この世にいることすら認識していなかった。中学の頃から俺と橋本とつるんでいた綿貫。教室で喋って、グラウンドで転んで、修学旅行に行った先でバカをやって。休みの日には映画館やファミレスで遊んで。クリスマスやバレンタインには、そんなもん関係ねぇ! と二人で見栄を張りつつ下駄箱を覗き込む時に薄っすら期待をして、結局本当に何も無くてお互い顔を見合わせて。橋本だけが差出人不明のチョコを貰って、嫉妬交じりにからかったところ誰がくれたのかわからないから怖くて食べられないと戸惑っていて、結局三人とも駄目じゃん! なんて笑い合って。そんな俺達の世界に、当たり前だけど恭子さんはいなかった。同じ地球に立っていたはずだけど、俺達は彼女を知らなかった。まだ出会っていなかったから。
俺の世界に恭子さんが現れたのは、二十歳の時。咲と訪れた学園祭のメイド喫茶で、この人は働いていた。えらい美人がキビキビ働いているな、と思っていたら咲が声を掛けたいと言い出した。だけど迷惑かも、と躊躇するので、大丈夫だよと背中を押した。もしあの時、そうだね、やめておこう、と答えていたら俺達と恭子さん、葵さんは擦れ違ったままだった。もし、そんな風に進んでいたとしたら。俺は恭子さんに、咲ちゃんが好きなら告白してこい、と尻を蹴り上げられることも無かった。今でも友達として、田嶋さん、と呼んでいたかも。そして葵さんとややこしい関係にもならなかった。せいぜい構内で擦れ違った時に、おかっぱ頭の痩せた美人だな、くらいの感想を抱くくらいだろう。
『君は咲ちゃんに出会い、彼女を好きになり、カップルになってついに結婚をする。私はそいつを傍らで見守らせて貰った。この世界は、そうやって進んだんだ。』
葵さんの言葉が甦る。俺がやらかしたあの日、彼女はそう言っていた。恭子さんと葵さんにも俺達は出会えた。俺や咲、橋本や綿貫、高橋さんの世界に二人の先輩が現れた。一緒に過ごす時間が始まったんだ。それは、俺と咲も同じだ。ゼミで出会い、田嶋さんっていい人だなぁと感じてしつこく声を掛けた結果、思いがけず超能力者だと判明して、秘密をバラした影響なのか、そこから急速に仲良くなった。友達になり、恋人を経て、今度は家族になる。
俺は、咲と結婚する。
自分の世界にいなかった人と、死ぬまで一緒に添い遂げるのだ。出会わなければ存在しなかったのと同じである相手が、今後の人生においてかけがえのないパートナーになる。
溜息のように、深く息を吐く。やっぱり不思議な感じだな。ただ、この考えだけは揺るがない。大切な婚約者と、親友二人と、友達一人と、先輩二人に出会えて、この世界の俺は恵まれている、と。
恭子さんの顔を覗き込む。無防備な寝顔ですね。綿貫に注意されちゃいますよ。男の前で隙を見せたら危ないですよって。葵さんには、毎度飲み過ぎだ、と怒られそう。咲は留めなかった俺にも飲み過ぎた恭子さんにも呆れそうだ。二人に会った時、何て言われるかな。でも出迎えてくれる辺り、結局面倒見がいいんだよな。そして恭子さんもそれに甘えている、と。うーん、でもやっぱり俺に体を預けて寝てしまうのは如何なものかと思いますよ、先輩。
そして気付いた。始まりの四人だけが集まるのは随分久し振りだな。
「今日~、ありがとぉ~」
眠っていたはずの恭子さんが、唐突にお礼の言葉を述べた。一瞬体が強張る。そうしてまじまじと見詰めてみた。目を瞑り、体はシートに預け切っている。寝言かな。一応、いえ、と応じる。
「頑張るぅ~ねぇ~……」
「……応援しています」
後には再び寝息の音だけが残った。
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