小学生レベルの喧嘩と眠りを妨げられたお姉さん。(視点:葵)

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小学生レベルの喧嘩と眠りを妨げられたお姉さん。(視点:葵)

 咲ちゃんの肩に腕を回し、酒を飲む。もう、と田中君は首を振った。 「とにかく、からかうためでもそうでなくても接触はやめて下さいよ葵さん。触る、駄目、絶対」  危ない薬物か。まあ危険ではあるが。 「悪い、調子に乗った。婚約している子達にやっちゃいけない振る舞いだった」 「……まあ、恭子さんをおぶって帰って来た俺が言っても説得力に欠けますが」  そういやそうだ。背中で満喫した奴に諭される筋合いは無いな。だが今のは私が悪い。咲ちゃんにも我慢と気遣いを強いてしまった。 「すまんな、頼りにならない先輩ばっかりで。迷惑を掛ける一方だ」  いいですけど、と呟き田中君はそっぽを向いた。微妙な空気になりかけたが、それで、と彼が話を続けた。 「こっちは無事にプランを立案しましたよ。二人は温泉でリフレッシュ出来たのですか?」  うん、と咲ちゃんは頷いた。 「一緒に入ったの。お風呂」 「そりゃそうでしょ」 「動けなくなっちゃったから、葵さんに助けて貰ったんだ」  え、と田中君の目がまん丸になる。いきなり、動けなくなったの、なんてぶっちゃけられたらそんな顔にもなろうて。 「ちょ、ちょっと。咲、のぼせたの? 大丈夫?」 「多分、全身が完全に弛緩しちゃって、力を入れられなくなっちゃったんだ。葵さんにお湯から引っ張り上げて貰ったんだよ」 「……脱力し過ぎたってこと?」 「うん」 「いやめっちゃ危なかったじゃん! 葵さんがいなかったら溺れていたかも知れないんだよ!? 俺、嫌だよ。婚約者が結婚前に亡くなりました。理由は風呂で脱力し過ぎて溺れたからです、なんてさぁ!」  もぉ~、と唸っている。 「まあいざとなったらサイコキネシスでなんとでもしたけれど」 「そういう問題じゃありません! 温泉を満喫するのはいいよ? でも危ない真似はしちゃ駄目!」  お母さんかお前は。しょうがないじゃん、と咲ちゃんが唇を尖らせる。ふむ、不穏な空気が立ち込めて来たな。 「私だって初めての経験だったもん」 「そんな状態になるまで楽しむんじゃないの」 「折角行ったんだし、好きなお湯だから全力で浸かりたいよ」 「結果、命の危機に瀕しているんじゃ世話ないね」  あ、今の言い方はちょっとひどくない? 案の定、咲ちゃんの眉が吊り上がった。 「そんな言い方、しなくてもいいじゃん」 「いいや、好きなことに対する注意はこのくらい強く言わないと咲には伝わらない」  確かにコスプレの撮影や揚げ餅が絡むと咲ちゃんは著しく知能が下がる。しかし、だからって嫌味全開の言葉を掛けるのもよろしくないだろ。 「現に今も俺の注意を全然聞いてくれないじゃん」 「私にだって主張はあるもの」 「怒らないでよ。俺は心配しただけで」 「心配していたら何を言ってもいいの? 私、凄く嫌な気分になったんだけど」 「それは話を聞いてくれないから!」 「君も聞く耳を持っていない!」 「そんなこと無いもん!」 「ある!」 「無い!」  夫婦喧嘩は犬も食わないと言うが、私はどのタイミングで止めればいいのか。中途半端に仲裁しても、お互い不満を抱えるだけだもんな。それにしても、家主が爆睡している人の家で婚約者同士が長風呂するだのするなだので喧嘩していて、その模様を眺めさせられているって罰ゲームか何かか? 「大体、いつも徹君はそうだよ! 心配している、とか、咲のため、って言い訳にして突っ込んで欲しくないところまで抉るんだから!」 「それだけ咲のことが大事なの!」 「わかっているけれど言葉を選んでよ!」 「だから強く言わないと咲は聞かないでしょ! 言い訳って評さないでよ! 君が心配なだけ!」 「だからわかっているってば! その上で言葉を選んで!」 「聞く耳を持ってよ!」 「持っているってば!」 「じゃあ何で聞き入れてくれないのさ!」 「私にも理由や事情があるからだよ!」 「好きなものに没頭する姿勢は尊敬するけど、限度がある!」 「限度は無い! 全力で楽しむ!」 「ブレーキぐらいかけなさい!」 「嫌だ!」 「おバカ!」 「ひどい! バカって言う方がバカなんだよ!」 「どうせ俺は三バカだもん!」 「そうだよ、徹君のおバカ!」 「咲もバカって言った!」 「君だって言ったもん!」  小学生か? と呆れながら眺めていたところ。 「うぅるっせぇぇぇぇぇ!!!!」  突然、野太くてガラの悪い叫びが響き渡った。三人揃って反射的に身を竦める。声の主は家の主でもあり、今日この場で一番振る舞いがバカだった奴だった。寝かせられた体制そのままに、恭子が口を開く。 「こっちゃぁ、寝てんのよ。騒ぐなら、表出ろ。外で、やれ」  ……そういやあいつ、寝ているのを邪魔されるとキレるんだった。久々に見たが思いがけず学生時代から変わっていないんだな。だがもし仮に、外で酔い潰れた時も同じように振舞ったらお前が危険に晒されるんだがな。そして田中君と咲ちゃんは完全に固まっていた。全員、口を噤んで恭子の様子を伺う。やがて再び寝息を立て始めた。葵さん、と二人が顔を寄せて来る。 「何だよ」 「恭子さんって怒るとあんなに怖いんですか!?」  至近距離なのに聞き取れるかどうか、ギリギリまで声をひそめた田中君だが困惑と怯え、戸惑いの感情がよく伝わってきた。 「そうだよ」 「うるさくしたら怒るのですか!?」  咲ちゃんの目は潤んでいた。真面目で大人しいこの子は怒られた経験自体、少ないんだろうな。 「眠りを妨げられるとキレる。サークルの部室で昼寝をしていた恭子にちょっかいを出した後輩は、胸倉を掴まれていた」  げ、と田中君が零す。 「あと、サークル合宿で起こしてくれた先輩が、無理矢理引き倒された挙句ヘッドロックをかまされていたな。痛いよりも息が出来なかったのがきつかったって半泣きになっていた」  全員の視線が恭子の胸元に集まる。マジで窒息するからな。こないだ、身をもって思い知った私の証言に間違いは無い。 「善意で起こされてもキレるのか……」  呆然と呟く田中君に、理不尽な、と咲ちゃんが相槌をうつ。 「そんなに怖い目に遭うわけないでしょ、と高を括った後輩が別の合宿の時に起こしたら、やっぱり同じようにヘッドロックの餌食になっていた。その子も、息が出来なかったって半泣きになっていた」 「ブレないな、恭子さん……」 「怖いから合宿で恭子を起こす者はいなくなった。自然に起きるか自分の仕掛けたアラームで目覚めるか。このいずれかなら自己責任だから恭子もキレない。故に全会一致で放置に舵を切った。一度、朝飯の時間になっても起きて来なかったことがあった。葵さんなら大丈夫じゃないですか、起こした方がいいですよ、と言われたが私は断固拒否した。寝起きのこいつにそんな判断力が備わっているとは到底思えなかったから」  腹を減らした猛獣のいる檻に飛び込む程、私は間抜けではない。 「バーサーカーじゃん」 「結果、朝飯を逃したが自己責任だからと恭子は文句をつけなかった。アラームを仕掛け忘れたそうだ」 「誰も起こしに来ない理由に心当たりはあるのですね……そして自分に非があれば怒らない、と……」  うん、と頷く。 「ちなみに起こさなかった場合でも、寝ている恭子のいる部屋でお喋りに興じていた後輩達の元には枕がかっ飛んできたそうだ。聞こえた言葉は、うるせぇ、の一言。投げ返したのかと後で聞いてみたら、あまりに高速で投げつけられたからこの人には逆らっちゃいけないと本能的に察してそっと返した、と語ってくれたな」  どれだけ邪魔されたくないのですか、と咲ちゃんが溜息を吐く。 「あれ? 葵さん、何度も恭子さんと旅行に行っているのですよね? 危ない目に遭ったこと、あるんですか!?」  無い、と首を振る。どうして、と二人が目を剥いた。 「だってお互い、起こし合ったりしねぇもん。何時に朝飯を食いに行く、ってのを前の晩に決めて、ちゃんと自分達のアラームで起きる。旅行では不思議と最初からそれを徹底していたから、毎回平穏だよ」 「じゃ、じゃあ昼寝を起こしたりは!?」 「二人で旅行に行っている時、昼寝なんざしねぇよ。ずっと喋っているから」 「成、程」 「そうか……」 「いやぁ、私は怒られたことが無いからすっかり忘れていたわ。社会人になってからは合宿も無いしね」  その時、はっ、と咲ちゃんが息を飲んだ。 「もしや、沖縄旅行ではかなり危ない橋を渡っていたのでは……?」 「あぁ、そうだな。君が良かれと思って起こしていたら、ヘッドロックの餌食になっていたぜ。でも酔い潰れようがなんだろうがアラームはかけていただろ」 「いえ、行きの飛行機から降りる際に私、恭子さんを起こしたのです。可愛いわね、と寝惚けて頭を撫でられましたが、もしかしたらあれがヘッドロックだった可能性も……」 「十分あったよ。運が良かったか、或いは飛行機という公共の場であると無意識に自分を制御したか」  あっ、と今度は田中君が声を上げた。そして慌てて口元を押さえ恭子を伺っている。変わらず寝息を立てていた。 「俺と恭子さん、二日目に早くも二日酔いになって同じ部屋で寝ていたじゃないですか。偶々俺の方が早く復活してシャワー浴びている間に恭子さんが目覚めましたが、もしあの時起こしていたら……」 「君の場合、ヘッドロックはご褒美にしかならんだろ」  そう指摘すると黙り込んだ。咲ちゃんが目を瞑り、首を振る。 「ちなみにさっき、居酒屋で潰れかけた時に起こしましたが襲って来ませんでしたよ」 「ふうむ、やはり公共の場だと暴れないのか? あとは酔っ払っていると怒らないのかも? いやでもさっき、キレたしなぁ」 「学生時代はどうでした?」 「サークルの飲み会では潰れなかったから知らん。二人で飲んで潰れても、基本的には勝手に起きるまで放置していたし」 「店で飲んで潰れた際に起こしても、不機嫌なことはあれどキレたことはありませんでしたね……」 「色々分析してみたくなるね」  そう言うと、そんな呑気な、と二人が声を合わせた。また起こしちまうぞ。 「まあ、さっきも言ったように合宿なんて無いし二人でいる時はこっちも危機回避の方法を知っているからさ。しばらくキレる様は目の当たりにしていなかったし、その間に何となく恭子も大人になったんだと思っていたのだがね。やっぱり人間、根っこは変わらないらしい。怖い怖い。気を付けようね」 「……この家から離れた方が良くないですか?」 「でもゲロ吐いて喉に詰まらせないか心配なんだ。二人とも、しばらくの間、話し相手になっておくれよ」  顔を見合わせた田中君と咲ちゃんは、わかりました、と消え入りそうな声で応じてくれた。そして喧嘩をしていたことはすっかり忘れたらしい。災い転じて福となす、はちょっと違うか。ははは。
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