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黒歴史の生まれた瞬間。(視点:綿貫)
動画を見終えた恭子さんは黙って頭を抱えた。割と予想通りの反応だ。ね、と声を掛ける。
「嘘でしょぉ……」
「まあ、滑れたのは凄いじゃないですか。まさか初日にここまでマスター出来るとは思いませんでした」
「でも、もうリンクへ戻れない……」
垂れた髪で表情は見えないけど想像に難くない。笑うわけにもいかず、かと言って慰めの言葉も浮かばなくて、なんとなく斜め上を見詰めた。
「この歳になって黒歴史を作ろうとは……」
「いやぁ、えっと、うーん」
口籠っていると、ゆっくり此方を振り返った。ホラー映画みたいで怖い。
「私、めっっっっちゃうるさいじゃない」
「……めっっっっちゃではありませんが、それなりに目立っていたかなぁとは思います」
嘘、と地獄の底から聞こえるような低音が響く。
「ずっと掛け声をあげていて、凄くうるさかった! 何よ、この奇声を発する迷惑者は! 絶対、他の人に変な目で見られている!」
否定は出来ない。何故なら動画に吹き出す人が何人か写っていたから。俺が撮影していないで並走していれば、ここまで目立たなかったのかな。……変わらないか。
「ですから、戻ったら静かに滑りましょう」
「戻りたくないわよぉ! あっ、奇声を上げていた変態だ! って後ろ指を指されちゃう!」
「じゃあ帰ります?」
今度は唇を尖らせた。刺激が強い表情だ。
「……折角滑れるようになったから、まだ遊びたい」
我儘か。うむ、その奔放な望み、叶えてみせましょう!
「ではこういうのは如何でしょう。一旦、この施設をぶらついて時間を潰しましょう。多少なりともお客さんが入れ替わった後、そうですね、三十分か一時間後くらいにまた滑るのはどうです?」
どのくらいの目撃者が帰るかはわからない。だけど好機の目も少しは減るだろう。しばし考え込んだ恭子さんだけど。
「……わかった。そうする」
納得してくれた。では、とシューズを脱ぎ始める。
「靴に履き替えてまた此処へ集合しましょう」
率先して紐を解く。その時、ごめん、と呟く声が聞こえた。
「綿貫君、注意してくれたのに、私、聞かなかった」
本当に真面目だなぁ。
「謝るようなことじゃないですよ。夢中だったんでしょ」
うん、と元気なく頷く。申し訳ないが、我慢出来なくて吹き出してしまった。
「……そんなに笑う程、変だったかな」
あ、いけね。恭子さん、涙ぐんでいるよ! 違います、と慌てて手を振る。
「すみません、テンションの落差が物凄いからちょっと面白くなっちゃって」
「え?」
「滑っていた時は滅茶苦茶楽しそうだったのに、動画を確認したら泣く程落ち込んでしまったから、人はこんなにもコロコロと感情が変わるのだなぁと思ったら、すみません。吹きました」
すると今度は、ひどいっ、と拳を握り締めた。
「私は真面目にへこんでいるのに!」
「ごめんなさい! ただ、十分前にはこんなにも元気よく滑っていた人が、黒歴史だぁ……って今はどんよりしているのを目の当たりにするとですね。なかなか、どうしても、ふふっ」
「あっ! また笑った! もう、綿貫君ってば意外と腹黒なの!?」
咳払いをして空気を整えようと頑張る。
「失礼しました」
「どうせ私は歩く黒歴史よ」
ふーんだ、といじけてしまった。さて、と俺は立ち上がる。
「靴に履き替えてきます。恭子さんは此処で待ちますか?」
「……一緒に行く」
「では貴女も履き替えて下さい」
はぁい、と応じる声はまだ固く。だけど渋々、恭子さんもシューズを脱いだ。
「あれ、でもロッカーにシューズは入らないんじゃない? サイズ的に厳しいでしょ」
「手に持って歩きましょう」
即答すると、成程、と頷いた。各々、ロッカールームへ向かう。そして、じゃ、と入口で別れた。一人になるとまた笑いが込み上げて来る。人間、あんな勢いで感情が移り変わるんだな。まあさっきの恭子さん、相当目立っていたもんなぁ。スマホを取り出し音声を出さずに動画を再生する。滑っている姿だけ見ると、力強くて格好いい。黒いジャージとニット帽を身に付け、長い髪をたなびかせて滑走している。そして外見も素敵なお姉さんだ。多分、綺麗な人が結構な勢いで滑っていたから目を引いた部分もあるだろう。だけど近寄って来ると、ひと蹴りごとに声を上げていたのだからそりゃお客さんも驚くし笑いもするわ。一応、窘めたんだけどなぁ。静かに出来ませんかって。無理って速攻で断られた。だから恭子さんは黒歴史を生成してしまったわけだ。田中だったら、自己責任、とバッサリ切り捨てるだろう。葵さんは同じようにぶった切った後、動画を仲間内へ拡散するに違いない。あの二人、案外似ている上に腹黒だよなぁ。まあこうして密かに動画を見ている俺も人のことは言えないか。
その時、ようやく気付いた。俺、恭子さんの動画をゲットしてしまった。つまり、家でも職場でも観られるわけで。
……消した方がいいよな。恭子さん、気持ち悪がるよね。溜息を吐き、ロッカーを開ける。そうして靴を取り出し足を突っ込む。スケートシューズの後だととても楽に履けると感じた。さっき、歩きやすい、と飛び跳ねていた恭子さんが頭を過る。溜息がもう一つ漏れた。
ベンチに腰掛けぼんやりと待つ。お待たせ、と戻って来た恭子さんが手を振った。もう元気になっている。今日もある意味、情緒不安定なのでしょうか。隣に座ってすぐ、ねぇ、と顔を覗き込んで来た。
「さっきの動画、私にも送って」
思い掛けないお願いだった。黒歴史なのでは、と聞き返してしまう。
「いいの。初めて滑れた思い出だもの。自分への戒めにもなるし!」
「むやみに声を上げるな、と?」
「ううん。人の忠告には耳を貸せ、ってね」
「……まあ、難しいこともありますから」
「とにかく、自分でも手元に置いておきたいの。送って貰って、いい?」
小首を傾げてお願いされた。ぐっ、この仕草に俺は弱いのだ。なにせ、恭子さんへの恋心を初めて自覚したのも同じように見上げられた時だった。我ながら、案外チョロいのかも知れない。
「ええと、恭子さんがいいのであればお送りします」
「勿論! むしろこっちが頼んでいるのよ? 変な確認をするわねぇ」
あはは、と明るい笑い声を上げた。さっきの落ち込みは何だったのかと不思議になる。
「じゃあ、送ったら俺のスマホからは削除しますね」
そう言うと、えっ、と目を丸くした。コロコロとまあ、目まぐるしく表情が変わるなぁ。
「どうして消しちゃうの?」
「どうしてって。だって恭子さんも嫌でしょう、男のスマホに自分の動画が残るなんて。いつでも俺に見られる状態って気持ち悪くないですか?」
はぁ? と今度は眉を顰めた。表情筋、柔らかいな。
「気持ち悪いなんて思うわけないじゃない」
「そんな、だって俺に自分の動画を眺められるんですよ? 嫌でしょ」
あのねぇ、と腕組みをした。怒られている気持ちになる。
「そんな風に感じるような関係じゃないわよ」
「でも」
「じゃあ逆に訊くけど、私のスマホに君の動画が残っていたとして、私に見られるのは気持ち悪い?」
「まさか」
万に一つも有り得ない。だけどそれは俺が恭子さんを好きだから抱く感想だ。恭子さんは俺を好きじゃない。俺達の間には決定的な意識の違いがある。ただ、恭子さんはそのことを知らない。
「それなら君のスマホに私の動画があってもいいわよね」
「俺が一人の時に恭子さんの滑る姿を眺めていても気にならないのですか?」
「報告されたら気持ち悪いと思うわよ? 実は貴女の動画で……なんて申し出られたら取り敢えず蹴りを入れる」
「しませんよ、そんなこと!」
恭子さんを汚してたまるか!
「じゃあ問題無い。むしろちゃんと残しておいて、私の初めてのスケート姿なんだから」
「いいのかなぁ……」
なおも悩んでいると、早く動画を送ってよ、とせがまれた。取り敢えずそこまでは対応しなければならない。ポーチから恭子さんのスマホを取り出し本人に返す。そして俺のスマホからメッセージアプリで動画を共有した。送りましたと伝えると、恭子さんは自分のスマホで動画を再生した。すぐに、とうっ! はぁっ! と聞こえてくる。やっぱり私、うるさいな! と今度は苦笑いを浮かべた。
「よし、それじゃあ送信!」
突然の台詞に首を傾げる。同時にスマホが震えた。見ると恭子さんからメッセージが届いていた。あれ、でもこれって。
「ちょ、ちょっと恭子さん。七人で共有しちゃったんですか!? 皆に動画、見られてもいいので!?」
俺、恭子さん、葵さん、咲ちゃん、高橋さん、田中、橋本の全員が見られるところに恭子さんは動画を送っていた。いいの、と胸を逸らしている。そして、初めてのスケート! と追加のメッセージを打ち込まれた。
「これで綿貫君の引っ掛かりも薄れるんじゃない?」
「え?」
どういう意味だ?
「君だけが動画を持っているから、消した方がいいんじゃないかと気になるのかも知れないと思ってね。だから皆で共有しちゃった。これで田中君や橋本君にも私の動画が見られちゃうわ。つまり君が消したところで私の姿は彼らにやましい目的で使われるかも」
「確かにっ!」
あいつらはそんなことはしない、とも言い切れない。人間、絶対に大丈夫、なんて有り得ないのだ。耳障りのいい言葉だけを並べるのはよろしくない。
「でも恭子さん! そんなリスクを犯してまで、どうして俺の勝手な引っ掛かりを解消させようとしたのです!?」
疑問をそのままぶつけると、決まっているじゃない、とまた髪を掻き上げた。ピアスが露になる。初めての疑似デートの日に買ったというピアス。
「君の手元に残して欲しかったから」
「何で!」
「んもう、野暮ね。初めてのスケートへ誘ってくれた綿貫君と、思い出を共有したかったの!」
強めに言われたが全然納得出来ない。だけど野暮と評されてはこれ以上追及するのも申し訳ない。そうですか、とだけ返す。
「いい? その動画、消しちゃ駄目だからね!」
「は、はあ」
「変なことはしてもいいけど、私に内緒で頼むわよ」
「しませんってば!」
慌てて否定をする。さて、と今度は恭子さんが先に立ち上がった。
「動画の話はお終い! あちこち歩いて見て回りましょ。あ、そうだ」
スマホをポケットに仕舞うと、不意に手を差し出して来た。
「今日の疑似デートは、折角だから手を繋いでやりましょうよ」
「いや、接触は駄目だし、さっきまでのはスケートシューズを履いていたから……」
「今日はもう解禁でいいわよ」
ほれ、と左手をひらひら振られる。ええい、もう知らん! 俺はただありがたいだけだし!
「失礼します!」
「どうぞどうぞ」
口調とは裏腹にそっと手を握る。さっきはぎゅっと握ってしまった。ちゃんと、優しくしなきゃ。だって俺はこの人が好きだから。
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