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古いもの。②(視点:綿貫)
咳払いをした恭子さんが、さて、と髪を耳にかけた。今日はよく見る仕草だな。
「なんだかんだ、もう五時ね。そろそろ出る?」
「そうですね、バスの時刻だけ調べさせて下さい。あまり本数が多くは無いから」
「オッケー! むしろ調べてくれてありがとう!」
「いえいえ」
スマホの画像フォルダを開く。時刻表のスクリーンショットは撮っておいたのだ。その辺り、抜かりはない! なんて、自慢するほどのことじゃないけど。
「五時二十二分発のやつがありますね。その次が四十五分」
げ、と恭子さんは顔を顰めた。
「待ち時間、思ったよりも長いわね。二十二分をつかまえるわよ」
「了解ですが、足、本当に大丈夫なので?」
「ゆっくり歩く分には問題無し!」
それは問題があるのでは?
「まあ、ご無理はなさらず。のんびり着替えて四十五分に乗ってもいいですよ」
「いいえ、二十二分で。さっ、行きましょう!」
元気な口調とは裏腹に、確かに低速で歩き始めた。おんぶをした俺の方が早いと確信する。だから何だって話だが。
十五分後。荷物を回収するだけだった俺とは違い、ジャージから洋服へしっかりと着替えた恭子さんが、お待たせっ、と現れた。ふわふわの帽子は被ったまま。では、と俺も立ち上がる。そうしてのんびりとスケート場を後にした。外は大分弱ったとは言えまだ雨が降っていた。傘立てから自分の傘を取り出す。恭子さんも自分の物を手にした。
「じゃあ、はい。復習の時間~」
「復讐? えっ、俺、何か恨みを買うようなことをしましたっけ!? あ、今日接触し過ぎたから傘でボコられるとか!?」
割と本気で焦る。好きな人に嫌われたくはないけど今言った通り、心当たりがある! 一方恭子さんは、ちょっと、と俺の肩を軽く叩いた。
「素の発言?」
「当たり前じゃないですか! ごめんなさい! 調子に乗りました!」
違う違う、と笑いながら手を振っている。
「違う? 怒っていませんか?」
「君に腹を立てる流れなんて無かったでしょ。君の言う、恨みを晴らす行為じゃなくて、振り替えってもう一度学習をする、復習」
……。
「あ」
「フクシュウ違い!」
「そっちかぁ!」
なんだ、びっくりした! ガチで焦った!
「むしろ復讐と聞いてあっちが先に出て来る綿貫君が変よ」
「……人によりけり、です」
うーむ、我ながら全く逃げおおせていない。よし、話を戻しちゃおう。
「それで、何を復習するのです?」
「あぁ、そうだった。相合傘でバス停まで行くわよ!」
恭子さんの手元を見詰める。傘、あるじゃん。さっきはバスから降りる時に濡れるといけないから差し掛けたわけで、それこそ流れでこのままスケート場まで相合傘で行っちゃおう! これもいい疑似体験だから! ……となったのだが。今はバッチリ屋根がある。相合傘をする理由は無い。強いて言うなら恭子さんの主張する復習のため、か。
「さ、バスが来ちゃう。それとも私が濡れてもいいの?」
喋りながら恭子さんが屋根の端へと歩いて行く。くそっ、自分を人質に取るとは卑怯だぞ!
「あーあ、このまま行くと私、濡れちゃうなー」
「濡れたくないなら傘を差して下さいよ!」
「やだ」
「そこまでして相合傘の経験を積ませたいですか!?」
「君が断るのは想定済みよ。だからその対抗策」
「絶対、今思い付いたでしょ!」
「うん」
即答したよ!
「我が身を雨に晒してまで君の経験値を上げようとしているのに、見捨てるなんてひどーい」
信じられない程白々しい! だがもういい、ヤケクソだ! あと、此処まで来ておいてバスを逃すのも間抜けだし! わかりました、と傘を差して小走りに近寄る。行きの時と同じように左手に傘を持ち、右手は背中側へ回した。そして恭子さんの左側に立つ。
「……その姿勢じゃないと相合傘を出来ないの?」
「接触、駄目、絶対。そしてなるべく恭子さんに傘の中へ入っていただくためです」
「本番では普通に振舞いなさいね……」
「未来はわかりませんが、アドバイスは覚えておきます」
「じゃ、行こうか」
「はいっ」
雨音が響く中、同じ傘に収まり一緒に歩く。よく振るわねぇ、と呟く声も、雨音にかき消されること無く耳に届く。
「でも、おかげで相合傘を出来たわけだ」
「相当力技でしたけどね? 己が身を盾に脅迫するとは、恐ろしい先輩ですよ」
「いいじゃない、君のためを思ってなの、なんて。それは身勝手が過ぎるか」
「そんな風には思いませんが、強引だなって」
「嫌?」
まさか。嫌なわけない。
「いいえ」
「嫌だったらちゃんと言ってね」
「その辺はご心配なく」
喋っている内にバス停へ着いた。スマホで時間を確認する。あと四分か。まあ時間ピッタリには来ないだろう。昔さぁ、と恭子さんがまた口を開いた。
「バスで大失敗をしてね」
「大失敗?」
ふっと表情を緩めた。そして、大したことじゃないかも知れないけど、と前置きをして話を始めた。
「小学生の時なんだけど、三年生くらいだったかなぁ。塾の友達の家へ一人で遊びに行ったの親に付き添われないでバスに乗るのは初めてでさ。料金の支払い方とか、知らなかった。いつも親が私の分まで払ってくれていたし、そもそも滅多にバスを使わなかったし。自転車か電車でしか出掛けなかった」
ほぉ、と相槌を打つ。
「あの頃は、まだ小銭で支払いをするバスが多くてさ。降りる時、運賃箱に整理券と一緒に五百円玉を突っ込んだの。てっきり、お釣りが出て来ると思って。そうしたら運転手さんがさ、五百円玉を入れちゃったの? って睨み付けて来たの。何でそんな顔をされなきゃならないのか、よくわからないまま、はいって答えた。そうしたら、両替しなきゃ駄目なんだよ、って両替機を指差した。その段になってもまだ意味がわからなかった。だって、イマドキ機械にお金を入れてお釣りが出ないなんて有り得ない、と思い込んでいたから。運転手さんは、しょうがないなぁって言って回数券を渡してくれた。お釣り代わりですって。最後までわけがわからなかったけど、ずっとバスを止めている自覚はあったから取り敢えず降りた。お客さん達にガン見される気がして、背中を向けたままバスのエンジン音が遠ざかるのを待ったっけ。友達の家に着いて、バスでこんなことがあったんだけどって話をしたら、知らなかったの? バスでは両替をして、ピッタリの金額を祓わなきゃいけないんだよ、って大笑いされちゃった。私の知らない世界があるんだ! って凄く驚いたし、このご時世に何で機会がお釣りも出せないのよ!? って割とちゃんと腹が立った」
言われてみれば怒りたくなるのもわかる気がする。俺や田中、橋本、高橋さんの地元は割と田舎だから、ちょっと遠出をする時にはよくバスを使った。だから生活の一部になっていたのであまり気にしなかったけど、普段使わない人は確かに何でお釣りが出ないんだって驚くに違いない。そして、納得いかないなことには正面から向き合う辺り、恭子さんの根っこは変わっていないのだと感じた。真っ直ぐで、正直で、この人のいいところだ。
でもさ、と恭子さんが先を続ける。
「今はタッチで大抵の支払いは出来るから、こういう経験をする子も少ないのかもね。そう考えると私のこの思い出話は古いものとして、いずれ通じなくなるのかしら。……それは、ちょっとだけ寂しいかもなぁ」
薄い笑みを浮かべた恭子さんは、最後に目を細めた。思い出を見詰めているのかな。俺は、と静かに声を掛ける。
「通じましたよ。恭子さんの思い出」
そう伝えると、そっか、と白い歯を見せた。
「そして、話が通じなくなるのだろうって気持ちもわかります。人間、どんどん古くなっていくのは当然です。だって皆、漏れなく歳を取るから。その内、だからジジババの昔話は嫌なんだ、とか、わけわかんないことを言っている、とか評されるに違いありません。だって俺達も上の世代に対して同じように思う機会が少なからずありますから。よっぽどイマドキのものに対して情報収集のアンテナを立てるよう努めて、実際手に取って身に付けたり自分のものとして落とし込まない限り、人はどんどん古いものになっていきます。釣りの出ないバスの運賃箱へ五百円玉を突っ込む話みたいに」
やっぱりそうよね、と恭子さんが呟く。
「だけど、その古くなる話だって、俺と恭子さんの間では、わかるなぁ、って楽しめます。割とそれで満足ですよ、俺はね。勿論、感性やトークが若い人も凄いと思います。だけど、俺は俺自身が古くなっても構いません。なにより、一緒に古い話で笑える相手がいてくれるから、恵まれていると思います。恭子さんも、葵さんも、友達皆も」
そっか、と恭子さんが言ったその時、バスのヘッドライトが見えた。やがて俺達の前に停車する。乗り込む際、恭子さんはタッチをしないで整理券を手に取った。意図を察して俺もそれに倣う。丁度空いていた二人掛けの席に腰を下ろし、同時に整理券を見せ合った。静かに笑い合う。さて、と財布を取り出した恭子さんは五百円玉を指に挟んだ。
「片道、一人二百七十円。二人で五百四十円か。四十円、ある?」
俺も財布を手に取った。小銭入れを漁ってみる。……あ。
「十円玉はありませんでしたが」
「うん」
「先程、マッサージ代として頂戴した百円玉がありました」
「私の全額奢りかー!」
「ありがとうございます!」
「どういたしまして!」
そうして整理券と、恭子さんは五百円、俺は百円を手に乗せスマホで写真を撮った。すぐに恭子さんへメッセージと共に送る。
『両替をしないとお釣りが出ませんからね』
そう、書き込むと。
『大事なアドバイスだから、忘れないよう写真と合わせてスクショに残しておくね』
そう、返ってきた。古い思い出が、最新の今日、新しい思い出になるといいな。そんなささやかな願いを抱いた。
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