葵と咲。③

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葵と咲。③

 葵さんと二人、並んで壁にもたれて座る。葵さんの右手に私は左手を重ねていた。軽く繋いだ私達の手。葵さん、体温が低いな。痩せ過ぎじゃないのかな。  そこからは、私の部屋が一望できた。小さなワンルームの自宅。大学入学と同時に住み始めたから、もう六年も此処にいる。色々なことをしましたね、と葵さんに話し掛ける。うん、と僅かに手へ力が入った。優しく握り返す。 「初めての撮影会、此処から始めましたね」 「そうだね。私と君が出会った日、か」 「葵さんと田中君が会った日でもありますよ」 「……君に言われると、流石に気まずいな」  空いている左手で頭を掻いている。 「あの日は瞬間移動で世界中を飛び回り撮影しましたね」 「恭子のメイド姿にテンションが上がり過ぎたんだっけ。もっと写真を撮りたいからって初対面の私達に超能力者だってカミングアウトするとはなぁ」 「今思えば、大分軽率でした。でも私の見る目に間違いはありませんでしたね」  微笑みかけると少し顔を赤くした。 「その日の夕方、葵さんと私の二人きりでコンビニへ飲み物を買いに行ったのでした」 「そうだったな。揚げ餅の差し入れと、次回撮影会開催時の恭子の説得と引き換えに写真のデータを貰おうと密約を交わしたんだった」 「おかげさまで、私達が大学を卒業するまでの二年の間に九回も撮影会を開くことが出来ました」 「結構開いたな。どうりで分厚い写真集がうちの本棚を圧迫しているはずだ」  葵さんが小さく笑う。 「一回の撮影会で四冊作っていたから、三十六冊もあるのか。多いな」 「観賞用と保管用を自分に二冊、私と葵さんで交換する用に二冊。多いですね」 「学生で金も無かったくせに、よく印刷業者に発注なんてしたよ。大した熱意だ」 「それだけ、恭子さんをお好きだったのですか」 「ま、ね」  葵さんの手をさする。薄い笑顔を浮かべた。その目は遠くを見ている。そんな彼女に、葵さん、と呼び掛ける。 「なんだい」 「密約で得たものが、もう一つあります」 「それは?」 「葵さんとの関係性です」  此方を向いた。黙って私を見詰める。 「あの日、私達は恭子さんの写真を愛でる会として意気投合しました。それから此処へ来て貰ったり、一緒にご飯を食べに行ったり、恋の相談に乗って貰ったり、私達二人の時間が始まりました」  ふと、葵さんの向こうの壁に掛けられた時計が目に入る。ペンギンさんの壁掛時計は十五時四十五分を示していた。右の手が短針、左の手が長針。二人で水族館へ遊びに行った時、お土産物屋さんで可愛いなぁと見ていたら何も言わずに買ってくれた。葵さんが持って帰って下さいと慌てると、君の方が似合うよ、なんて理由になっていない言葉を口にして、私に渡してくれたんだったな。 「四年間、本当に楽しかったです。恭子さんにもお世話になりましたし、佳奈ちゃんもお友達です。綿貫君も、橋本君も、そう。田中君は一旦置いておかせてください。今、彼を話に出すとちょっとややこしいので」 「さっきはわざわざ引き合いに出したくせに」  う、確かに。咳払いをして誤魔化すと、微かな笑い声をあげた。 「とにかくです。皆、皆、大事なお友達です。以前もお話しましたが、私は超能力者として家族から軽蔑されておりました。お前は一生一人で過ごすんだと言われ続けて育ったので、きっとそうなのだろうと疑いませんでした。でも二十歳の時、田中君とお友達になりました。彼を通して、お友達が三人増えました。そして、メイド姿の恭子さんを見付けて、そのお友達として現れた葵さんに出会いました。誰もいない、独りきりだった私の周りに、大切な人達ができました。どんなに恵まれたことでしょう。だから私は皆を大事にしたいのです」  うん、と葵さんが頷く。 「その中でも、葵さん。貴女はやっぱり特別です。ずっと私の相談に乗ってくれた。色々なところへ連れ出してくれた。一緒にメイド服を選んだり、恭子さんの写真を眺めたり、お洋服を選んでくれたり、とても、たくさん、素敵な思い出をくれました。沖縄旅行でも、ずっと私を支えてくれましたね。道端で泣いた私を一生懸命慰めてくれました。怪我をさせてしまったのに、私を責めるどころかイルカさんのピンキーリングまでくれましたね。大事に着けています」  葵さんの視線が私の左手に落ちる。小指にはあの時のリングが嵌められていた。ありがとう、と呟く声が聞こえる。 「私は、いっぱい、いっぱい、ご迷惑を掛けたと思います。ううん、それどころか一度殺しかけてしまった。だけど貴女はその後もずっと優しい先輩です。私が社会人になってからも、仕事の愚痴を聞いてくれた。田中君と喧嘩をしたと伝えた時、事情を話す前に私は絶対に君の味方だ、と宣言してくれた。就職祝いに下さった腕時計、実は汚したくなくて机の上に飾ってあるのです」 「知っているよ。一度も着けているところを見ないなと思っていたら、パソコンの脇にひっそり置かれていて吹き出したもの」 「なんと。ご存知でしたか」 「多分、壊したりしたくないからそこに置いているんだろうなって」  理由まできちんと理解されていた。たまらなく嬉しくなる。 「葵さん。私は貴女が大好きです。これからもたくさん、楽しい時間をつくりましょう」 「ありがとう。私も咲ちゃんが大好きだ。さっきは二度と君には会わないなんて口にしてごめん。勢いとは言わないが、その瞬間は本心だった。だけどやっぱり君が大事だ。私ももっと、君との思い出をつくりたい」  重ねた手、その指を絡め合う。葵さんが座椅子から体を起こした。左手が私の背中に回る。私も黙って抱き締めた。葵さん、相変わらず細いなぁ。 「咲ちゃん」  顔の見えない先輩が、すぐ傍で私の名前を呼んだ。 「はい」 「二つ、教えてあげる」  一旦体が離れる。葵さんは私の前で正座をした。その表情は、いつもより穏やかに見えた。 「一つ目。いつもの私は少し演技をしているの。昔、恭子にフラれた時、男の子みたいな口調で話したり、シャツとジーンズみたいな格好をしたら恭子が振り返ってくれるんじゃないか。そう考えてね、乱暴な喋り方に変えたの。もうすっかり自分に定着したつもりだったけれど、昨夜気付いた。根っこの私は変わっていない。本当の私はね、今、貴女が見ているような人間なの」  喋り方だけじゃない。葵さんの空気や顔つきまで変わったように思える。 「えっと、多重人格というわけではなく……?」  その質問に、柔らかい笑顔を浮かべる。 「違う。ただの、演技。キャラ付けとでも言えばいいのかな」 「演技にしては、あまりにも違いすぎます……」 「びっくりした?」  上目遣いに此方を伺われた。とってもドキドキする。 「この私は恭子しか知らない。まあ、昔の知り合いや親戚にはむしろこっちの私が山科葵だと思われているけれど、二十歳以降に出会った人には見せたこと、一度も無いの」  目を見開く。いいんですか、と言おうとしたけれどその前に人差し指を唇に当てられた。 「咲ちゃんも、特別な相手だもの」  胸がいっぱいになる。ありがとうございます、と伝える声が少し震えてしまった。 「そして、もう一つ。貴女には、いずれきちんとお礼を言わなきゃいけないとずっと思っていた」 「お礼?」  首を捻る。順番に説明するね、と目を細めた。 「私はさ、自分が生きる意味も理由も無いと思っていた。昔はそんな風に考えていなかった。でも、気が付いたらその考えが私の中に根付いていた。私がいなくても世界は回る。誰も困らないし社会は進み続ける。少しくらい、悲しんでくれる人はいるかも知れないけれど、時が経てば皆忘れる。だから私がいてもいなくても何も変わらない。私に価値なんてこれっぽっちも無い。今でもそう思っている」  微笑みを浮かべたまま、静かに葵さんは語った。そんな、と呟く私に、だけど、と少し首を傾げてみせた。 「二年前に死に掛けて、生き返った時。大泣きする咲ちゃんを見て、気付いたの。私にとって私の価値は無くても、他人の中に私の価値は存在するんだって。そのことに、貴女の涙が気付かせてくれたの。それなら私は生きなきゃいけない。いなくなってしまうのは、私に価値を見出してくれた人達を裏切る行為だ。そして私が傷付くと、私を思ってくれる人も痛いんだ、って。最初に私へ教えてくれたのは、咲ちゃん、貴女だよ。だから、ずっとお礼を言いたかった。私に生きる理由をくれて、ありがとう。貴女のおかげで、私は傷を負うのをやめました。今の私が楽しそうに見えると言って貰えるのは、貴女があの時、心の底から泣いてくれたから。本当に、ありがとう。感謝している」  言葉が、出て来ない。だって、私は。貴女を。 「言い出せなかったのはね、私を殺しかけたのも咲ちゃんだからとっても強烈な嫌味みたいになっちゃうと思ったからなの。殺しかけてくれてありがとう、おかげで自分の価値に気付けました、そんな、意味になってしまうでしょう。きっと貴女を困らせてしまう。だから今日まで伝えられなかった。遅くなって、ごめんね。心から感謝している。嫌味じゃない。言葉通りに受け取って」  私の内心を読み取ったかのように葵さんは話をした。全部わかってくれた上で、お礼を述べてくれたんだ。それなら私もちゃんと受け取らなきゃ。 「葵さん。殺しかけてごめんなさい。でも、葵さんが傷付くのをやめてくれて、良かったです」 「痛々しくて見ていられなかった、なんてこないだも咲ちゃんに評されたっけね」 「だって、本当にそうだったのですもの」 「ごめんね、心配を掛けて。まだたまに間違えちゃうけど、そういうの、頑張ってやめるつもり」  それはとても嬉しい。大事な人には元気でいて欲しいもの。はい、と笑顔を浮かべる。そんな私に向かい身を乗り出し、葵さんは此方の頭に手を置いた。咲ちゃん、とすぐ傍から見詰められる。 「もうじき、この家も出るのでしょう」  一瞬驚いたけれど、すぐに納得した。そりゃあ誰でもわかるよね。 「はい。あと、半年程で」 「じゃあその間にもう何回か、遊びに来るね。もっと落ち着いた時に、また貴女とお話をしたいから。私達が出会って、たくさんの思い出が詰まった、このおうちでね」 「そう言われると、出たくなくなっちゃいます」 「次の家は、もっと楽しくなるよ」 「……はい。そっちにも、遊びに来て下さい。……凄く今、頼みづらいなと思いましたが、やっぱり葵さんには来て欲しいのです」  私のお願いを聞いた葵さんは。  破顔一笑。綺麗な笑顔だ。 「勿論」  そうして葵さんは私を抱き締めた。すぐに離れる。此方の顔を覗き込んだ葵さんは。 「皆には、内緒な」  いつもの葵さんだった。私に負い目を感じているわけでもない。見せたことのない顔でもない。  いつもの、葵さんだった。
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