葵と咲、一つ目の温泉でのんびり語らう。(視点:葵)

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葵と咲、一つ目の温泉でのんびり語らう。(視点:葵)

 お先に浴槽へやって来た。茶色のお湯が並々と張られている。さっき、はしゃいでいた女子大生の集団はいなくなっていた。内心、安堵する。壁際に空いているところを見付けてゆっくりと進んだ。波を立てたら悪いから。そうしてタオルを頭に乗せ、座り込み肩まで浸かる。大きく息を吐き出した。本当は、あぁ~、と濁点付きで漏らしたいのだが流石に私だって乙女の端くれだ。自嘲するくらいの羞恥心は持ち合わせている。だから吐息程度に抑えた。その分、ちょっと不完全燃焼だな。  あぁ、しかし本当に気持ちが良い。暖まるし、お湯が意外と刺激的だ。何だろう、肌に刺さる感じがする。それでいて痛めつけられているわけでもない。丁度良く全身を撫でられているようなイメージだな。経験したことの無い感覚だ。そしてアルコールが汗腺から抜けていくような気がする。勿論そんなわけは無いし、なんなら体温が上がるとむしろアルコールが回って二日酔いなどはひどくなる。だから、気がしているだけなのだが。別にいいじゃないか、気のせいだろうと私がそう感じているのは事実なのだから。と、誰にしているのかわからない言い訳をぐるぐる考える。或いは自分に対して戒めと言い訳を繰り返しているのかも。  うー、それにしたって力が抜けるなぁ。自然と顎が上がり天井を眺めた。なかなか高さがある。よく見ると電球も随分眩しいな。目を瞑ってみる。撫で付けるようなお湯の感じをより鋭敏に全身で享受した。そう言えば、とさっきの資料館で読んだ内容を思い出す。嘘か誠か、この温泉地帯は少なくとも千四百年以上前には確認されていたそうだ。つまりその頃からこのお湯に浸かり、同じように気持ち良い~と唸った人が存在したわけだ。リアクションはどうなんだろう。言葉は変わってしまったとは思うものの、お湯に浸かった瞬間に声や息が漏れるところや、体が弛緩して少し上を向いてしまう反応、目を瞑り全身を預けたりするのはどの時代も共通なのではなかろうか。一体、何人がこの温泉地で同じように満喫したのかね。そして私は何人目の満喫者なのかしらん。  葵さん、と声を掛けられた。もっちゃりと目を開ける。肩まで浸かった咲ちゃんが、眼鏡を曇らせつつこっちを見ていた。 「むしろ逆効果じゃないの? 視界、ゼロだろ」 「それでも葵さんが何処にいるのかはわかります」  それだけ聞くと軽いホラーだが、生体エネルギーを探ったのだろう。さいでがんすか、と応じて再び目を閉じる。 「満喫しておいでですねぇ」 「非常に良い。控えめに言って素晴らしい。お湯になりたいとまではいかないが、物凄く気持ちが良いよ」 「いいですよね、此処。連れて来て良かったです」  あぁ、と短く応じる。その時、お湯が動いて私の口元にかかった。 「ぶえっ、しょっぱ!」 「もう少し体を起こした方がいいですよ」  どうやら誰かが無遠慮に浴槽を横切ったらしい。だから波を立てるなってんだ。無神経な奴は大抵周りに迷惑を掛けるんだから、腹立たしったらありゃしない。 丁度隣の人も上がった。咲ちゃんが入れ替わりに納まる。癒されますねぇ、とのんびりと呟いた。 「そういや今日はいい風呂の日だったが。温泉地だし、何かイベントでもやるのかね」 「さあ、どうでしょう? その辺りまでは調べていなくて。開催しているようでしたら見て行きますか?」 「そうさねぇ。ちらっと寄ってみようか。人が多かったら退散しようぜ」 「人込み、嫌いですねぇ」 「嫌い。人酔いする。行列も並びたくない。私は静かな方が好きなんだ」 「ぶれませんねぇ」 「好き嫌いがぶれてたまるかい」 「大人になったら考えが変わったりはしないでしょうか」 「今のところは存在意義以外、変わった試しは無いな」 「唯一変化したものが重要過ぎます……」 「君のおかげだしね。ありがとさん」 「黒幕がいたとつい昨日判明しましたが」  あぁ、神様の計画だって初めて知ったんだったな。 「でもおかげでお互い、落ち着けたじゃんか。感謝しようね」 「そうですね。気に掛けていただけて、ありがたいことです」 「そうそう。私も君も、変わっていなかったら今日こうしてこの温泉を訪れたりもしなかったのかも知れないし」 「あの、ここまでは楽しんでいただけているでしょうか」 「楽しいよ」 「本当に?」 「どんだけ私の感想が気になるんだ。うりうり」  柔らかほっぺを軽く摘まむ。うーん、より一層癒されるね。最高。 「あまり引っ張らないで欲しいのですが……」 「超気持ち良いんだもん」 「皮がたるんでしまいます……」 「大丈夫大丈夫、田中君はそんな咲ちゃんでも可愛いって言ってくれるから」 「そういう問題ではありません……」  まあ嫌がっているのに続けるのは可哀想だ。渋々手を離す。そういやさ、と話題を変えた。 「結婚式、どうなった? プロポーズは無事に済ませたけど、むしろ先に話が進んでいた式の手配はその後も順調なのか?」  ええと、と忙しなく眼鏡を外し、お湯に浸けてから掛け直した。咲ちゃんの目元が此方からも見えるようになる。 「候補の会場を何点かリストアップしました。やはり七人でご飯を食べながら簡単にお披露目会をする形式がいいだろうという話で纏まりまして。お食事の評判が良く、尚且つ小規模な人数でも対応してくれるところを見繕いました。あとは実際に食べ比べに行ってみて、お店の人と相談して、空いている日程を押さえてから皆にご案内をしようかというところですね」 「店選びかぁ。あ、飯の量は多くてもいいからな。私が食い切れない分は恭子に任せるから」 「太らせる気か、って怒られません?」 「飲ませて酔わせりゃわかんないって」 「悪い顔ですね……」 「ちなみにお披露目会の中身は? 新郎新婦の誓いとかもやるの?」 「これも会場との相談になるのですが。田中君と話しているのは、誓う相手は友達皆にしようかと思っております」  こりゃまた変化球だな。二人の約束を我々が預かるわけだ。 「つまり会場にいる我々に対し、健やかなる時も病める時も相手を愛すると誓うわけだ」 「はい。私達はそれがいいなって」 「成程ね。うん、素敵だよ。それに、他の人はどうだか知らんが、少なくとも私は嬉しいよ。誓いを預けて貰えてさ。そんだけ信用されているって意味じゃんか。ありがたいねぇ」 「そのくらい、私達は仲良しだと思いますし、おこがましいかも知れませんが皆がずっと一緒にいられる一つの楔になるといいなって」 「ご縁ってぇのは馬鹿に出来ないからな。いいじゃんいいじゃん」 「そう言っていただけると自信になります」 「後は友人代表の挨拶か。私は有り得ないとして、結局誰に頼むんだ?」  途端に咲ちゃんの眉が吊り上がった。どうした、と変わり様に私は若干怯える。 「そこなのです。私は絶対、絶対に葵さんからご挨拶を頂戴したかったのですが」 「ありがと」 「……受けてくれますか」 「やだ」  ですよね、と肩を落とす。がっくりって表現がこんなにしっくり来るのも珍しい。 「田中君のやらかしのせいで、葵さんにご挨拶を頂けなくなってしまったのが本当に心残りなのです」 「そりゃあ、あんな出来事の後、私が挨拶するなんて気まずくってしょうがない。何より本人達だけでなく、綿貫君を除いた全員が事情を知っているのだから居た堪れなくて会場の空気は死滅するだろうよ」 「あの馬鹿旦那……」 「まあ言っちまった言葉は無かったことには出来ないからな。しょうがあるめぇ。それこそ綿貫君辺りは適役かね。彼、案外そういう仕切りや挨拶をするのが好きだし」  緊張でテンパりやすいのかと思いきや、よく乾杯の発声を買って出る辺りに場慣れしている感じが見える。あいつが緊張するのは女子を相手にした時だけなのか? いやどんだけ極端なんだよ。そのくせ恭子を散々褒めるんだからわけがわからん。結局両想いだったし。ま、その話は一旦置いておくとして。 「それが、とても迷っておりまして。友人代表なら、田中君は綿貫君を選ぶそうです。橋本君に以前それとなく聞いてみたら、スピーチをさせられるくらいなら出席しない、と宣言されたそうなので」 「あいつも大概だな」 「私のお友達と言えば佳奈ちゃんです」 「滅茶苦茶無難にしっかりこなしそう」  多分、我々の中で一番の常識人だからな。ゴシップ好きな面を除いて、だが。 「そこで、その二人にお願いしようかという案も出たのですが。ややこしいじゃないですか」 「綿貫君が佳奈ちゃんを好きだったから、か」  どんだけ惚れた腫れたですったもんだしているんだよ。そんでもって誰か、私に手を差し伸べろよ。おまけに唯一差し伸べた奴が超変化球を投げ込んでくるんじゃないよ。キャッチ出来るか馬鹿野郎。むしろ捕らせる気も無かっただろ。 「そうなのです。二人はお互いを特別な友達と認識しているので、一緒に行動すること自体は問題ありません。ですが」 「結婚式の日に、付き合えなかった男女をペアにしてスピーチをさせるのは、何となく縁起が悪い、と」 「まさにその通り」 「じゃあどっちか片方に頼めば?」  至極尤もな意見を述べる。両方に頼む必要もあるまい。でもですね、と咲ちゃんが小さく首を振った。 「そもそも一番の恩人は誰かという話になりまして。田中君は恭子さん、私は葵さんでした」 「私は恩人なんて大層なもんじゃないが、田中君は恭子に尻を蹴り上げられたおかげで告白の決心がついたのだもんな。そりゃ恩人だ」 「葵さんも大恩人です。そして葵さんにはお願いが出来ません。馬鹿旦那のせいで」 「悪いな」 「そうなると、お付き合いの切っ掛けとなった恭子さんにお願いするのが一番いいのでは、という結論に今朝至りました」 「成程な。え、今朝?」  また随分直近じゃないか。 「昨日、しおり作りの打ち合わせ会で揉める原因となった田中君の小細工を糾弾しに、朝一番で自宅へ突撃して来たのです。二日酔いの彼を叩き起こし、そういうせこい真似は信用問題にも関わるので二度としないようにお説教をしてきました」 「家庭内のパワーバランスは決まったな」 「その後、一緒に朝ご飯を食べながら、綿貫君も恭子さんを好きだったという情報を貰いました」  片手間にする話じゃないと思う。 「びっくりしながらも、おめでたいねと拍手をし、あの二人も付き合って一緒になれるといいなぁと想像しました」 「そうねぇ」 「じゃあ綿貫君と恭子さんにいっそペアでスピーチをお願いしようかという流れになりましたが、まだ付き合っていない人達にお願いするのもあからさま過ぎてよろしくないですし、その後万が一、二人が付き合って別れるようなことがあれば物凄く気まずい黒歴史になってしまう、という結論に至りました」 「朝から君らもよう考えるな」 「だったら恩人の恭子さんだけにお願いするのが筋かもね。そんな風に纏まったところで葵さんからご連絡をいただいたので、田中君をほっぽって今此処にいるわけです」 「別に連れて来たって良かったんだぜ。むしろ彼も折角の日曜日を君と一緒に過ごしたかっただろうに。奪っちゃう形になったら私も気を遣うわ」  だが咲ちゃんは、不意に目を逸らした。いえ、と小さな声が聞こえる。 「私が、葵さんと二人で過ごしたかったのです」 「ありがたいがそりゃまたどうして」 「……そんな日も、あるでしょう」 「まあ、そうかもな」  さて、と唐突に、しかしゆっくりと咲ちゃんは立ち上がった。 「少しのぼせてしまいました。結婚式のお話は、一旦ここまでとさせて下さい。私、上がりますね。葵さんはどうされます?」 「私も出るよ。もう一軒、行くのなら丁度いい塩梅だ」  承知しました、と前を歩く咲ちゃんの顔が赤いのは、はてさてのぼせたせいだけなのかね。風呂場で赤面されたんじゃ、流石に理由はわからんな。
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