葵と咲、二件目の温泉を尋常でなく満喫する。(視点:葵)

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葵と咲、二件目の温泉を尋常でなく満喫する。(視点:葵)

 追い掛けっこは私の完敗だった。己の運動神経の悪さがつくづく恨めしくなる。その上、二つ目の温泉は坂の上と来た。無駄に走り回ったことを後悔しながら何とか足を運ぶ。しかしどうしようもなくくたびれたので、ちょっとたんま、と道端で立ち止まった。大丈夫ですか、と前を歩く咲ちゃんが振り返る。 「君、案外体力があるんだな。平気な顔をしおってからに」 「葵さんがあまりにか弱いだけかと。細いのも良いですが、もう少し筋肉をつけてはいかがでしょう」 「気が向いたらね」  そして向く日は多分来ない。しかし、と改めて辺りを見回す。少し先に山の斜面が見えた。逆に付近は温泉街。 「よくもまあこんな山の中を切り開いたもんだ。街全体が斜めだぜ。おかげでどっちへ行くにも坂ばっかでやんの」  私の感想に、山ですからねぇ、と咲ちゃんはのんびり応じる。 「だが山中って感じはしないな」 「温泉街になっていますからねぇ」  ……咲ちゃんはいつも割とぽわぽわしている子だが、今は輪をかけて緩んでいる。お湯でふやけたか? それとも、博物館でこの世の真相を暴いた挙句満足いくまでお人形さんを眺めたから精神が弛緩し切っているのか? はたまた、業腹だが私の写真をゲット出来てご満悦なのか? まあ何だっていい。写真も諦めた。どうせいくら追い掛けたって逃げられるだけ。誰にも見せるな、と釘を刺すくらいしか私には出来ないとはっきりした。 風が吹き抜けた。やはり空気は冷たい。スマホを取り出し標高を調べてみる。 「へぇ、四百メートル近いじゃないか。多少なりとも空気が冷たくなるわけだ。 「むしろ、山の中であることを考えるともっと涼しくなりそうな気もしますが。温泉で地面が暖まっているのでしょうか」 「或いは人が多いせいか、もしくは太陽が近くて陽射しが強いから体感温度は案外高いのか」 「不思議ですねぇ」 「本当だね」  にっこり微笑み合う。しかし一方内心で、写真消せや、と念じてみる。まるで気付く様子の無い咲ちゃんは行きますか、と再び歩き始めた。そして私の足はがくがくだ。限界が近い。 「もうちょいゆっくり頼むよ」  声を掛けると、わかりました、と速度を落としてくれた。本当に私の体力が無いだけなのだろうか。実はサイコキネシスで自分の肉体を支えていないかね。そういや超能力って使うと疲れるのかな。何かの能力は使用中、神経を削られるからあまりやりたくないと言っていた気がする。今度、覚えていたら訊いてみようっと。なにせ今は無駄口を叩く余裕が無いんでね。そして疲れないのだとしたら、やっぱりサイコキネシスで自分を補助しているのではないか。別にいいけどさ、超能力者の特権だから。ただ、もしそうなら私の体も支えて欲しいなー。なんて、流石に我儘かね。  二十分後。着きました、と数メートル先から咲ちゃんの声が聞こえる。膝に手を当て地面を見詰めていた私は、何とか顔を上げた。建物を手で指し示す後輩の姿が目に入る。だけど言葉が出て来ない。ただ荒い息をつくのみ。坂の負荷にこてんぱんにやられちまったぜ。いや、本当に疲れた……。そんな私に、いいですね、とわくわくと咲ちゃんが話し掛けて来る。 「人の、心とか、無いんか」 「息も絶え絶えじゃないですか。でも葵さん、体が疲れ切っているということはこの温泉でどれだけ回復出来るのかを実感出来るのですよ。さあ、お湯に浸かって復活しましょう!」 「そんな、ゲームじゃ、あるまいし」 「ゲームみたいな効き目です。自信を持ってお勧めします」  よっぽど体に合うらしい。だが私にも効果があるかは保証出来ないだろ。そう訴えたいのだが、どうにも上手く口が回らない。もしや標高が高いから、空気が薄いのか!? そのせいでこんなにもダメージが入ったのでは!? ……んなわけないか。四百メートルくらいじゃ変わらないよな。ただの運動不足か、やれやれ。  咲ちゃんはずんずん進んで行った。小柄な背中が何だか大きく見える。オーラでも出ているのか。よろよろと後に続く。  一軒目の温泉で宣言した通り、二人分の入浴料を払ってくれた。こちらです、と慣れた様子で案内してくれる。冷静に考えれば奇妙な話なんだがな。どうして遠く離れた東に住んでいる君が、西の温泉である此処の施設にそんなに詳しいのかってさ。よっ、超能力者。常識を飛び越えて来るね。  しかし芋洗い状態だったさっきの施設に比べて、こっちは随分閑散としている。建物自体は新しく綺麗なのだがとにかく人がいない。いや、脱衣所は最早無人だった。荷物も全く置かれていない。 「貸切じゃんか」  ようやく呼吸が落ち着いた。はい、と早くも服を脱ぎ始めた咲ちゃんが深々と頷く。 「それも私が此処を好きな理由の一つです」 「いいのか、繁盛していないってことだぞ」 「まあ潰れはしないでしょう」  何の根拠もなく言い切った。呑気だな。 「だが人がいないのはありがたい。のんびりさせて貰うとするか」 「そうです! ぜひ、お湯を味わって下さい!」 「飲んでいいの?」 「訂正します。満喫して下さい!」  肩を竦める。服を脱ぎ、ズボンを下ろそうとしたのだが。 「おっとっととととと!」  足が上がらず裾を踏ん付けてしまった。そのまま床に転がる。我ながら情けない。見上げた天井は案外高く、お空綺麗、と呟いた。 「空は見えませんよ。大丈夫ですか」 「駄目だ。心が今死んだ」 「その傷もお湯が癒してくれます。さあ、行きましょう」  気が付くと咲ちゃんはすっぽんぽんになっていた。早いな。えっちらおっちらズボンを脱ぐ。下着も外し、私も準備が完了した。レッツゴーです、と咲ちゃんがぺたぺた先を歩いていく。マジで好きなんだな、此処の温泉がさ。わかりやすいな。素直で可愛い。  荷物が無いから当たり前なのだが、浴場も無人だった。 「さっき、体は洗いましたから掛け湯だけでいいですよね」 「まあ、私は軽くタオルで擦り洗いくらいはするが」  ちょっと汗をかいたし。 「あまり火照らないよう気を付けて下さい。湯船にじっくり浸かって欲しいのです」 「わかったわかった」  シャワーを頭から被った咲ちゃんは、すぐに行ってしまった。さっき走ったし坂も上ったのにね。私は簡単に汗を流す。そして振り返り湯船へ向かったらば。 「うおっ!」  後頭部を縁に乗せ、顔だけを水面に浮かべた咲ちゃんがお湯に揺蕩っていた。全身が弛緩し切っているのがよくわかる。目は虚ろだ。何も映っていないように思える。何となく、イカの死体ってこんな感じで波間を漂っているのかな、と想像した。声を掛けるのも悪い気がして少し距離を空けた。静かに湯船へ入る。ほぉ、優しいお湯だな。透明で、香りは無い。肌触りは非常に柔らかく、心地好い。温度は四十度くらいだろうか。丁度良いな。自然と息が漏れる。確かに気持ち良い。力が抜ける。そのままでは沈んでしまうので、私も縁に頭を乗せた。自然と体が水中を漂う。成程ね、満喫するためには理に適っている体制だったのか。私もイカの死体の仲間入り、と。 あぁ、しかしこれはとてもいい。凄くいい温泉だ。お湯になりたい、とまでは思わないけど、此処でずっと包み込まれていたいとは感じる。不思議なくらい全身の力が抜ける。それに合わせるかのように、段々思考も停止する。体も心も全てお湯に預けてしまいたい。きっと優しく受け止めてくれると根拠もなく確信をする。体に残る疲労も、心を揺るがす感情も、全部溶け出て流れてしまえ。そして私の中には暖かい優しさだけが残るに違いない。最早悟りを開く感覚に近いな。そんな体験が出来るなんて、貴重極まりない。 ありがとうございます、お湯様。温泉様。心から感謝致します。  その思いを最後に、考えるのをやめた。後には二体のイカの死体が残った。  十五分後。 「流石にのぼせる!」  限界までお湯に浸かっていたが、快感が不快に変わりそうで思わず立ち上がった。咲ちゃんはまだ揺蕩っている。私の叫びに反応もしない。ちょっと不安になる。まさか事切れてはおるまいな。おい、と近寄り肩を叩く。 「ふぁい……」  こんなに情けない声を聴いたのは二十六年の人生において初めてだ。 「大丈夫か咲ちゃん。のぼせてはいないか」  私の問いに、ふっと小さく笑ってみせた。それ以上の反応は無い。 「いやどういうリアクションだよ」  今度は目を瞑り、一度だけ首を横に振った。 「相手をするのも面倒臭いって意味か?」  縦に振りやがった。失礼な。まあ満喫しているのを邪魔するのも悪い。かと言って目を離すとのぼせて沈みかねない気もする。取り敢えず傍らの縁に腰を下ろし足だけ浸けた。何となく、水中に沈む咲ちゃんの体のシルエットを眺める。この素っ裸を田中君に見られたどころか合体しているんだよなぁ。私より大人じゃんか。そんでもって恭子もいずれ綿貫君と合体するのだろうか。うーむ、恭子の抜群のスタイルを想うと綿貫君が羨ましくてならない。橋本君と佳奈ちゃんは言わずもがな。あー、皆大人だなー。私は恋人がいたことなんて無いからなー。いつも私の恋だけ叶わないからなー。呪いか何かかなー。ちょっとだけ腹が立つなー。別にいいけどさー。皆、幸せになりやがれよなー。  ……ちぇっ。  そういや年末の旅行では皆で水着を着用の上、風呂に入るって話が出たっけ。マジで嫌だ。恥ずかしい。恭子と咲ちゃん、田中君には入れと言われたが気軽に催促してくれるぜ。いいじゃん、男三人女三人のそれぞれカップル同士で楽しめば。いや、恭子と綿貫君は一か月後にどうなっているか保証は無いけどさ。クリスマスに上手いこと告白をして、くっつけるといいなぁ。幸せになって貰いたい。一方、やっぱり送り出す寂しさはまだ胸の内で燻っている。それでもこの温泉地に連れて来て貰って、家の中で感じた鬱屈とした感情は随分薄れた。いっそ全部お湯に溶けてしまえばいいのに。  そんでもって旅行ね。あ、そうか。困ったな。もし恭子と綿貫君がクリスマスから付き合い始めたとしたら、私は三組のカップルにひっつくお邪魔虫になるわけだ。ううむ、皆絶対邪険には扱わないに決まってはいるが、完全に浮くな。だが言い出しっぺがドタキャンするわけにもいかない。 「あんたも楽しむのよ、葵。今度は一緒に、ね」  恭子の言葉が甦る。人間の根っこはなかなか変わらない。だから私は未だに自分の価値を見出せていない。故にどうしてもこう思ってしまうのだ。本当に、皆と一緒に楽しんでいいのかな。私はいない方がきっと皆、楽しいのではないかな、と。そんなわけないと言って貰えるのはわかっているし、心配させないためにも口に出して相手を困らせたりはしない。ただ、どうしても頭に浮かんでしまうのだ。いない方が盛り上がるんじゃないかな、って、未だにね。もし万が一、恭子に私の内心を知られでもしたらえらい勢いで叱られそうだ。だからちゃんと約束をした。恭子にも、そして私自身にも、必ず皆と一緒に楽しむって。  大きく伸びをする。変わるってのは難しいね。根っこはそもそもなかなか変わらない。それどころか表面の部分ですら意識して、意図的に振舞わなければずっと同じまま、か。
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