憧れ

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憧れ

 祖父の、ダークスーツを着てスッと伸びた背筋と、流れるように美しい所作。  穏やかに微笑みながら、祖父にエスコートされる祖母。  静かに流れる時間は二人がそこにいるだけで、どこか懐かしい古き良き時代の映画のように見えた。  幼いころにオレが憧れた風景。  憧れをかなえたくて、長じてオレ――梨本寛文(なしもと ひろふみ)は執事になった。   「旦那さまのお言葉がなければ、おじいさまもわたくしとは結婚していないわ。それほど、執事のお仕事は難しくてよ?」  かつては富豪のお嬢さまで、別の家の執事だった祖父を射止めたという祖母は、そう言ってオレをあおった。  そう。  あのばあ様、わかっていてオレをあおったとしか思えない。  だって、祖母は執事の仕事に誇りを持っていた祖父に、とことん惚れ込んでいたのだ。  祖父母が『旦那さま』と呼ぶ相手のプロポーズを袖にして、祖母は祖父を選んだんだと聞いた。   だから孫のオレも、執事にしたかったんだ。  わかっていてまんまと嵌められたオレも、オレだと思うんだけどさ。  それでも『執事』という存在に、オレは憧れた。  最期の時はひとりかもしれないということも、覚悟していた。  今はそんなことはないけれど、昔は執事職に就いたら生涯独身で主への忠誠を誓ったんだそうだ。  確かに私的な時間はほとんどなくて、生中な覚悟じゃ勤まらない。  他愛のないことであっても、誰彼構わず、何も考えずに話はできない。  故に誰かと思いを交わしても、マメに連絡はできない。    それでも、オレはこの仕事を選んだ。  執事という仕事に就いていて、やりがいと手応えを感じた時点で、生涯独身の覚悟を、新たにした。  幼い頃から一緒にいた彼――桐山暖己(きりやま はるみ)は、オレのその覚悟を知っていたはずだ。  知っていたはずだけど、ずっと、隣にいてくれた。  オレは大学を出て、資格を取るために留学して、祖父の伝手で春日井家に勤め始めた。  彼はオレに何かを告げるわけでもなく、同じように進学して、同じようにこの職に就き、その上でオレに手を伸ばしてくれた。 「まっすぐなお前が好きだ。支えてやりたいと思うし、支えて欲しいと思う。ずっと一緒にいたいと思うのは、お前だけなんだ」  真摯な言葉にオレは一瞬ためらったけれど、その手を取った。  お互いに仕事のこともやりがいのことも取り組み方も、分かっていての事、だったから。  不自由な、細い糸でつながっているだけの様なつきあいになるとは分かっていた。  それでも彼に求められて嬉しくて、彼を欲しいと思った。  触れあうことも顔を見ることさえも、ほぼほぼないことを、知っていた。  知っていてもなお、手を取り合った。  いつか、お互いに納得するまで勤め上げたら、二人の人生を寄り添って全うしよう。  将来をそう約束して。  以来、オレにとって、最愛の暖己の存在が支え。  今でも、ずっと変わることなく。  さて、その執事の仕事は非常に多岐にわたる。  簡単にいうなら家政・資産運用・子守や秘書的な日常の生活のお世話。  一人ですべて請け負うこともあれば、家に仕える執事たちで手分けすることもある。  そこはそれぞれ家のやり方。  オレがお仕えするのは春日井家。  春日井の家では、何軒かの分家の分もまとめて執事を雇って育成しているので、執事を名乗る人間は複数名存在する。  束ねるのは筆頭執事という職。 「筆頭執事だなんて、まるで家老職のようですこと」  そう言ってころころと笑っていたのは、オレの祖母。  現在、春日井家の筆頭執事は榛原さんで、各分家に執事長がいる。  近い分家でいうなら新木家の執事長はフシ原さんで三輪家の執事長は楢原さん。  春日井家における執事全体のトップは、榛原さん。  オレにはまだまだ遠い上司たち。 「たくさんの執事がいるのなら、本家の筆頭執事は筆頭家老で、分家の執事長さんは屋敷家老なのね」  例える祖母の感性が、わかりやすいのかわかりにくいのかわからなくて、困惑した記憶がある。  ともかく。  暖己もオレも、書類上は春日井本家に雇われている。  が、現在のオレは分家の新木家で次代の笙介さま付きを勤めていて、暖己は本家で何人かと共に次期筆頭として勤めている。    かつての憧れをかなえて、いつかの憧れにそなえる、慌ただしくも充実した日々。  そんな現状。
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