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十二月のミュンヘンは、東京とは比べ物にならないほど冷え込んでいた。
時刻は夜の七時。
街は、色とりどりの明かりでまばゆいほどに輝いている。
「佐知子(さちこ)。ミュンヘンのクリスマスマーケットはすごいのよ。佐知子もきっとびっくりするわ」
隣を歩く母がうれしそうに言うのを、佐知子はどこか他人事のような気持ちで聞いていた。
佐知子が家族の都合でミュンヘンに引っ越してきてから、もうすぐ一ヶ月になる。
今日は、両親と共にクリスマスマーケットへ向かう約束をしていた。しかし、佐知子の気持ちは晴れなかった。
買ってもらったばかりの淡いベージュのコートと白いマフラーを身につけているが、それでも冷気は容赦なく背筋を通り抜けていく。足元も、ファーのついたブーツに厚手の靴下を重ね履きしているのに、あっという間に冷え切っていた。
こんなに寒い中だというのに、父と母はとてもうれしそうだ。
これから向かうマリエン広場では、とても美しいイルミネーションを見ることができるのだという。
しかし、佐知子は華やかな街並みを見ても喜ぶことができなかった。ただうつむいて、ブーツについた白いポンポン飾りを眺めている。
日本にいたときは好奇心旺盛で、いつでも、誰とでも話ができた佐知子だが、ドイツに来てからは落ち込むことが増えた。
外国で暮らす、ということがこんなに大変だとは思いもしなかった。
ミュンヘンの人たちは親切で、クラスメイトもみんな好意的に接してくれているのだと思う。
だが、そもそも佐知子はドイツ語をあまり話せない。言葉が分からなくても何とかなる、と思っていた自分の甘さを、佐知子は転校してすぐに思い知らされた。
近くにいる女の子たちのおしゃべりに加われない。大人から見れば些細なことかもしれないが、佐知子にとってこれは一大事だった。
おしゃべりだけではない。授業でも、買い物でも、家でテレビを見ていても、異国の言葉は常に存在している。
慣れ親しんだ日本語を聞くことができるのは、両親と話しているときだけだ。しかし両親は、新しい暮らしへの違和感はないようだった。二人の話す日本語の中に、時折ドイツ語が混じることもまた、佐知子の気持ちを沈ませる要因となっていた。
日本語を話し、日本を恋しいと思う佐知子は、自分の居場所を見いだせない。
日本にいた頃、あんなに楽しみにしていたクリスマスマーケットも、今の佐知子には色褪せて見えた。
「ほら佐知子。見て、きれいなイルミネーション。それにかわいい小物を売ってるお店もたくさんあるわよ」
クリスマスマーケットの会場に着くなり、母はうれしそうな表情で辺りを見渡している。そのうきうきとした声は、本来なら佐知子の口から出るはずだった。
母がこんなにはしゃいでいるのは、自分を元気づけるためだということは気づいている。だから余計に、佐知子は笑顔を作れない自分が情けなかった。
そんなときだった。
ふと目の前の店に目をやると、聞き覚えのある言葉が耳に飛び込んできた。
(日本語だ……!)
佐知子は慌ててその声の主を探した。大勢の人で賑わうマリエン広場には、こうしている間にも次々と新しい客がやってくる。佐知子は日本語を発した人物を見失わないように、必死に人混みに目をこらした。
やがて、声の主が人形を売る店の前で話している女性だと分かる。
佐知子は思わず駆け出した。
「佐知子? どうしたの、佐知子!」
母の声も聞かず、佐知子は夢中で走った。店の前にいる女性は、別の女性と日本語で会話している。この広場に、自分たち以外にも日本人がいるのだ。
「あの!」
佐知子は急いでその女性たちの前に来ると、息を整える間も惜しんで声をかけた。
女性たちが振り返る。皆、佐知子の母親より少し年上のようだった。
「に……日本から、来たんですか!?」
突然話しかけたりしたら、迷惑だと思われるだろうか。佐知子の心配とは反対に、女性たちは和やかな笑顔をこちらに向けてくれた。
「ええ、そうよ。お嬢さんも、ツアーで来たの?」
女性たちは頬を上気させ、本当に幸せそうな顔で微笑んでいる。
「えっと、私は、先月からこっちに住んでて……」
その笑顔に気後れし、佐知子は小さな声で答えた。
「まあ、住んでいるの! うらやましいわ。ドイツは良いところでしょう」
「それは……」
佐知子が返答に困っていると、後ろから追いかけてきた母が声を上げる。
「佐知子!」
佐知子は母に叱られるかと思ったが、当の母は怒ることなく、女性たちのグループに目を留めた。
「……あら、皆さん、日本から来たんですか?」
母に話しかけられると、女性たちは和やかな声で答えた。
「はい。今ちょうど、お嬢さんから声をかけていただきまして」
「そうでしたか。娘が急にすみません。でも皆さん楽しそうですね。ツアー旅行ですか?」
「そうです。ミュンヘンの後は、ロマンチック街道やノイシュバンシュタイン城も見に行く予定なんですよ」
佐知子は、目の前の女性たちと母が盛り上がっているのを少し退屈に思いながら聞いていた。しかし、何にせよ日本語が聞こえてくるのは彼女の心をほっとさせた。
「まあ、すてき。私たちも、こっちの暮らしに慣れたら行ってみたいと思っていたんですよ」
母が突然そんなことを言う。佐知子は、そんな話は一度も聞いたことがなかった。驚いて母に声をかけようとするが、女性たちが反応する方が早かった。
「ええ、せっかくこちらに住んでいるんですから、一度は行かないともったいないですよ」
「ドイツに住めるなんてうらやましいわ」
「私たちも、このまま帰らずに住んでしまいたいくらい」
女性たちが口々に言うのを聞いて、佐知子は胸の中がもやもやとした。佐知子は日本に帰りたくてしょうがないのに、この女性たちは帰りたくないというのだ。外国での暮らしがどれくらい大変なのかも知らないのに、どうしてそんなことを簡単に言えるのだろう。
佐知子は少しいじけた気持ちになって、店に並んだ人形を見るふりをしていた。
「佐知子。その人形、欲しいの」
すると、女性たちと会話していたはずの母が声をかけてくる。
「別に、そういうわけじゃないよ」
「欲しいなら買ってあげるわよ。せっかくクリスマスマーケットに来たんだもの。何か記念になるものを買っていきましょう」
「だから、欲しいわけじゃないってば」
佐知子は母の提案がうっとうしく感じられて、頑なにいらないと言い張った。実際、目の前にある人形が欲しいわけではないのだ。佐知子が欲しいのは、ミュンヘンにやってくる前の、日本で過ごしたあの日常だった。
しかし、それが手に入らないことくらい、佐知子も分かっている。
せめて日本から来た人と話をすれば、気持ちが晴れるかと思っていたのに。
佐知子は、母と女性たちがうれしそうに話しているところを見てしまったせいで、ますます気分が落ち込んでしまった。
今や、母の隣にさえ、自分の居場所がない。
佐知子はふいに、この場からいなくなりたいと思った。
辺りを見回し、父が旅行客の一人と話しているのを確認する。
今、自分に注意を払っている人は誰もいない。
それに気づくと、居ても立ってもいられなくなった。
佐知子は走り出した。まだ履き慣れないブーツで、転ばないように気をつけながら、クリスマスマーケットで賑わう通りをひた走る。
後ろから、佐知子を呼ぶ両親の声が聞こえたような気がしたが、佐知子はそれを無視した。
とにかく、ここからいなくなってしまいたいと思った。
自分の居場所はどこにもない。
街にも、学校にも、このクリスマスマーケットにも、両親の隣にも。
もちろん佐知子は分かっているつもりだ。
悪いのは彼らではなく、新しい環境に馴染めない自分の方だと。
しかし、この場所に馴染むために、今までの自分を捨てることもまた怖かった。
ドイツでの暮らしに慣れてしまったら、かつて日本で暮らしていた『中島佐知子』が消えてしまう気がしたのだ。
変わってしまうのが怖い。
今までの自分が消えてなくなってしまうのが怖い。
しかし、自分の居場所がない今の状況も苦しい。
佐知子はどうしたらいいのか分からず、とにかく走った。
自分がどうなりたいのか、その答えが出ない。
ただ、一つだけはっきりしていることがある。
この場所からいなくなりたい。
そして、みんなに自分を忘れてほしい。
誰もたどり着けない遠い場所に行って、誰にも探されないまま、そこにずっと佇んでいたい。
そんなことは叶わないと分かっている。
しかし、このどうにもならない気持ちの行く先は、もうそこにしかないように感じた。
佐知子は走った。
周りの風景など見ずに、ただひたすら。
いつしかクリスマスマーケットの賑わいは遠のき、周囲は真っ暗になっていた。
佐知子がそのことに気づいたのは、息が切れて、もうこれ以上は走れないと思ったときのことだった。
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