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 石畳の上で、佐知子はようやく立ち止まった。  必死に息をしているのに、胸が痛くて、なかなか呼吸が元に戻らない。吸い込む空気の冷たさが、佐知子の喉と肺を余計につらくさせる。  ブーツのポンポンはほつれ、形が崩れてしまっていた。  佐知子は苦しい呼吸を繰り返しながら、辺りを見回した。  周囲は、暗闇に包まれていた。  物を売る店も、まぶしいほどの電飾も見当たらない。  佐知子一人だけが、この冷たい暗闇の中に放り出されてしまったかのようだ。 (ここは、どこだろう……)  佐知子の心の中では、不安よりも、疑問の方が勝っていた。  たくさん走ったのは間違いないが、ミュンヘンのクリスマスマーケットはとても広い。少しも明かりの見えない場所まで、少しも休まずに走ってくることなど出来るのだろうか。  そう思いながらも、佐知子は心のどこかでほっとしていた。  ここには、誰もいない。  本当に、自分一人だけの世界だ。  急いで両親の元に戻るより、しばらくの間、ここで一人で過ごしたいと思った。  この場所こそ、自分が本当にいるべき場所だという気がする――――  佐知子がそんな風に思ったとき、風に乗ってどこか遠くから音楽が聞こえてきた。  オルゴールのような高い音と、少女たちの合唱のような声がする。  佐知子は不思議に思って辺りを見回した。  その瞬間、鐘の音が響き渡る。  体中の骨を震わせるような音に、佐知子は驚いて耳を塞いだ。  きっと、マリエン広場にある新市庁舎の時計の音だ。  そうに違いないと佐知子は思った。  しかし、今頃新市庁舎の周辺は、クリスマスマーケットの見物客で溢れているはずである。  あの騒々しい人混みからこんなに離れているのに、なぜ時計の音が、自分のすぐ近くで聞こえたように感じるのだろう。  鐘の音が鳴り止むと、佐知子は耳からそっと手を離し、目の前にそびえ立つ塔を見上げた。  その塔は、確かにマリエン広場の新市庁舎にそっくりだった。  佐知子の胸はざわつく。  ここは一体何なのか。  自分は走っている間に、『どこ』に迷い込んでしまったのか――――  わずかな不安を感じ始めた佐知子の耳に、またあの音楽が聞こえてきた。  しかもその歌は、佐知子の目の前の塔の中から聞こえてくるのだ。  佐知子は驚いて、真っ暗な塔の中に人影を探そうとした。  しかし、あまりに暗くて何も見えない。  もっと近づいてよく見ようと、佐知子が一歩を踏み出したとき。  突然、まばゆい光が佐知子の目をくらませた。 「あっ!」  佐知子は思わず目を覆った。暗闇に慣れた目には眩しすぎる光だった。  しかし、佐知子がそうしている間にも歌は止まらない。  ついにはギギギギ……という音を立てて、時計塔の扉が開き始めたようだった。  少女たちの歌声が、今ははっきりと聞こえる。  間違いなく塔の中から、彼女たちは現れたのだ。  眩しい光がわずかに柔らいだのを感じた佐知子は、おそるおそる目を開けた。  そして、もう一度「あっ!」と言いそうになった。  そこには、メリーゴーランドがあった。  時計塔の巨大な扉の向こうには、広大な空間が広がっていたのだ。天井は高く、太い柱が何本も立ってこの空間を支えている。  中心には、日本の遊園地で見たようなメリーゴーランドが置かれていた。  しかし、まるで生きているような馬の姿や、天蓋の精緻な彫刻は、今まで佐知子が見てきたものとは比べものにならない。  天蓋を支える柱や馬の鞍は金色に光り、馬たちのたてがみは鮮やかな色彩に塗られていた。  佐知子はまばたきも忘れ、目の前の光景に見入っていた。  それ自体が巨大な芸術品のようなメリーゴーランドは、少女たちの歌に合わせてゆっくりと動いている。  佐知子はそのメリーゴーランドに乗りたいと思った。  不安よりも、目の前の光景への憧れが勝る。  佐知子の足は、ためらうことなく前に向かった。  そして、メリーゴーランドの台座へと足を乗せた瞬間。 「あなたは誰?」  よく通る声が、メリーゴーランドの反対側から聞こえた。  佐知子はびくりとして、声がした方を見る。  メリーゴーランドのきらびやかな台座の影に、二人の少女がいた。  一人は背が高く、鋭い眼差しを持った少女。  もう一人は、やや小柄で、話し好きなのだろうと感じさせるような穏やかな瞳の少女。  二人ともフリルのついた丈の長いワンピースを着て、髪には絹のリボンを巻いている。背の高い少女は水色、小柄な少女は生成色だ。服とリボン、それから靴下のフリルと爪先の丸い靴まで、少女たちはそれぞれの色で揃えていた。  二人の姿をひとしきり眺めた後、佐知子ははっとした。歌声は、すでに聞こえなくなっている。  慌ててメリーゴーランドから離れ、少女たちに謝った。 「ご、ごめんなさい! 歌が聞こえてきたから、中がどうなっているのか気になってしまって……」 「歌、ね」  二人の少女が互いに目配せする。 「あの歌が、聞こえたのね」  二人の言葉には、何か含みがあるようだった。 「すみません、すぐに出て行きますから……」  佐知子は急に自分が小さくなったような錯覚に陥った。もしかするとこの二人は、自分よりもずっと年上なのかもしれない。自分は年上の少女たちを前にして、何と失礼な行動を取ってしまったのだろうと、今更になって後悔の気持ちがわき上がる。二人の言葉がどこの国の言語かなど気にしている余裕はなかった。 「別に、出て行けなんて言っていないわ」  鋭い視線の少女がそう言ったが、かえって佐知子は萎縮した。  背を丸め、すぐにでも出て行けるよう、メリーゴーランドから目を背ける。  そんな佐知子のことを、穏やかな少女が笑いながら制した。 「ルナはちょっと言い方がきついけど、怒ってるわけじゃないの。本当よ。むしろ、心の中では喜んでいるんだから」  ルナと呼ばれた少女は煩わしげに隣の少女を見たが、その言葉を否定したりはしなかった。 「私はアルシー。この子はルナ。あなたの名前は?」  穏やかな声でそう尋ねられては、拒否することなど出来るわけがない。佐知子は自然と背を伸ばし、自分の名前を名乗っていた。 「佐知子です」 「佐知子ちゃん。良い名前ね」  アルシーは屈託のない表情でそう言った。ただそれだけのことなのに、佐知子は戸惑う。この二人の表情を見ていると、だんだんと目を離すことができなくなってくるのだ。  様々な気持ちが佐知子の心に行き交う中、ルナとアルシーの背後から急に大きな音がした。  佐知子はびくりと肩を震わせたが、二人は驚くことなく後ろを振り返った。メリーゴーランドの照明が届かない暗がりに、誰かがいる。 「誰、間違った動きをした子は。だから転んでしまうのよ」  アルシーが穏やかに、しかし厳しさも伴った声音で『誰か』に告げる。  ルナも厳しい視線でそちらを見ていた。 (誰だろう……?)  さっきまで少しも気配を感じなかったのに。  佐知子は何気なく、二人の視線の先を追った。  そして、危うく声を上げそうになった。  そこにいたのは一人ではなかった。  この建物は佐知子の想像以上に広いらしく、メリーゴーランドの奥の暗がりでは四十人近い少女たちが輪になって踊っていた。  皆、ルナやアルシーと同じような服を着て、髪にリボンを巻いている。  しかし、決定的に違う部分があった。  少女たちには、表情がないのだ。  まるで、人形のようだった。  人形のような少女と言うより、少女の姿の人形だ。  少女のうちの一人が床に倒れていたが、膝やくるぶしが明らかにおかしな方向に曲がっている。 (な、何なの……!?)  佐知子はとっさに後ずさりした。もしあの少女が普通の人間なら、あまりの痛みに激しい悲鳴を上げているはずだ。しかし、倒れた少女からは何の声も聞こえてこない。周りにいる少女たちも、気にすることなく踊り続けている。  ふいに、倒れた少女がこちらを見た。丸い玉をはめ込んだだけのような瞳が、まばたきもせずにじっと佐知子を見ている気がした。  ――――怖い。  おそらく実際には、アルシーの方を見ているはずなのだ。少女は今、アルシーに叱られたばかりなのだから。しかし、茶色の大きな瞳には何の感情も宿っていなかった。本当に、ただこちらを見ているだけなのだ。  佐知子はなぜか背中に冷たいものを感じた。少女は目をそらさない。  なぜずっとこちらを見ているのだろう。まさか、この場所に入り込んだ佐知子に、何か恨みのようなものを感じているのでは――――  そう思った瞬間、佐知子は走り出していた。ルナやアルシー、そして少女たちに背中を向け、時計塔の入り口へと急いで戻る。  メリーゴーランドと入り口の扉は、ほんの少しの距離しかない。  佐知子は走った。自分はここにいるべきではない。ここにいたら、自分もあの少女たちのようにされてしまう――――。  必死の思いで扉を開け、佐知子は外へと飛び出した。  そして、その先が真っ暗な闇であることに気がついた。 「え?」  足の下にあるはずの硬い感触が無い。  だが、それを自覚したときにはもう遅かった。佐知子の体は、床も天井もない真っ暗な空間に吸い込まれ、やがて、底の見えない暗黒へと落ちていく。 (私……死ぬの……?)  しかし、それならそれでもう構わないという気さえした。  自分の居場所はどこにもないのだ。家にも、学校にも、あのクリスマスマーケットにも。そして、このメリーゴーランドの部屋にもないようだった。  そう思うと、佐知子は怖いとも思わなくなった。  そして、悲鳴を上げることもなく、静かに暗闇へと落ちていった。
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