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寝室の物語
僕は彼女の眉の間をそっとなでた。
僕が話をしている間、そこはあまりに険しくひそめられていた。
「それでこのお話にはどういう教訓があるのかしら?」
僕は慌てて頭を働かせる。
教訓なるものが、物語には必要なんだろうか。
「怒りというものは、ため込んではいけないという教訓だよ。もちろん」
彼女は観念したようだ。
「どうしてわたしが怒っているって分かるの?」
「だってずっと難しい顔をしてるよ」
僕は身構えるのだ。
なんだろう。何が彼女を怒らせた? 脱いだ靴下を直接洗濯機に入れたのが、そんなにまずかった?
それともそれとも?
だけど彼女は物静かなひとで、たとえ心中穏やかでなかったとしても、あからさまに怒ったりはしないのだ。
靴下をそっとつまみ上げてあるべきところを教えてくれる、そういうひとなのだ。
普段なら。
きっと何かあったに違いない。
「仕事の関係のひとなの。対面のやり取りは少なかったから、気が付かなかったのだけど」
彼女は下を向いて話し始めた。僕は先を促す。
「その方、産休に入るのですって。来月からは別の方が担当になるの。それでね」
僕は彼女の肩を抱き寄せた。
「それでね。自分が嫌になってしまって。素直におめでとうって思えないの。心が狭いんだわ」
病めるときも健やかなるときも、そう誓った頃よりずっと、僕は彼女のことに詳しくなったと思う。
つまり彼女はそれで怒っているのだ。
心の狭い彼女自身に。
じめじめして暗い、他人を妬む心を持つ自分に。
そしてそれを僕に気付かれるような、振る舞いをしてしまったことに。
そういうひとなのだ。あるべき姿を求めすぎなんじゃないかと、時々思う。
「あのね。このお話にはもう一つ教訓がある」
「どんな?」
「怒る気持ちの底の方には、いろんな気持ちが潜んでいるということだよ」
「例えば?」
「悲しみ、だとか」
彼女は唇を歪めた。
「ねえ。このお話を作ったの、あなたでしょう?」
「どうかな?」
「意外な才能だわ」
彼女は僕を抱きしめ返した。
「もしもあのときの赤ちゃんが産まれていたら、あなたは良い父親になれたかもしれないのに」
彼女のお腹の中で儚い命となってしまった、僕たちの赤ちゃん。
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