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『生ビール280円』
立ち飲み屋の看板の前で、思わず立ち止まってしまった。
しばし財布と相談した末、“ビール2杯とおつまみ一点まで”。そう決めてその立ち飲み屋に入った。
今時珍しく店内はタバコの煙が立ちこめ、奥のカウンターでは常連らしい客が楽しそうに笑い声を上げている。入り口近く、右端のカウンターに場所を取った。この場所なら一見さんでも大丈夫だろう。とりあえず生ビールを注文する。
「ふう……」
大きなため息が自然と出た。
今日は自分の会社を畳んでから通算2社目の面接だった。久しぶりに書類選考を通って面接まで辿り着いたが、多分今日もダメだろう。全く手応えが無かった。
「はい、生ビールお待ちどおさま。お食事はいかがですか?」
枝豆だけ注文し、ビールを一気に三分の一ほど流し込んだ。
会社を立ち上げたのは32歳の時だ。
地元の顧客を第一に考えたスタイルは当初上手くいった。順調に顧客を増やし、一時は数人の社員も抱え、海外までとはいかないが社員旅行も毎年行った。
IT化の波を受けにくい業界だったが、とうとう私達の業種まで押し寄せた。今更後悔しても遅いが、その時に借金をしてでもIT化の波に乗っておくべきだった。今まで繋がってきた顧客が、簡単に離れるわけがないと高をくくっていたのだ。
もちろん、そんな甘い考えは見事に砕かれ、時間の経過と共に顧客離れが始まった。対応策を試みるも顧客離れは止まらず、私は為す術がなくなった。
そして会社を畳む事になる。昨年の事だ。
壁に貼られた手書きのメニューに目をやる。ズラズラっと並んだ短冊は、調理の油やタバコのヤニなんかで茶色くくすんでいる。
『だし巻き卵』『アサリの酒蒸し』『アジフライ』
見事に私の好きなものばかりだ。適当に枝豆を注文してしまった事を少し後悔する。
ビールの値段など見ず、店の雰囲気だけで気軽に暖簾をくぐっていたのが今となっては懐かしい。もう、何年も前の事のように思える。
ガラガラと戸が開き、新しい男性客が入ってきた。
歳は70を超えたあたりだろうか。寒くも無いのに薄手の小汚いコートを羽織っている。
「ビールね」
とカウンター越しの店員に注文をした男性は、チラホラと空いてる場所があるにも関わらず私の隣を陣取った。
その男性にビールが運ばれてきたタイミングで、私もおかわりのビールを注文した。今日はこれでラストだ。
「兄ちゃんのビール来たら乾杯しよか。ちょっと待ってるわ」
私に言っているようだった。ちょっとビックリしたが、立ち飲み屋ってこんなものなのだろうか。「すみません」と言って私のビールを待った。
店員からおかわりのビールを受け取り、待ってくれていた男性と乾杯をした。彼はゴクゴクと大きい音を立てて、一気に半分ほど飲んでしまった。
「はあぁ、美味い。これ飲まんと始まらんわ。兄ちゃんは何や、元気あらへんな」
関西弁の男性はズケズケと私の内側まで入ってきた。しかし何故だろう、悪い気はしない。
「分かりますか? 今日面接だったんですけど、多分今日もダメだろうなって」
この男性の雰囲気のせいだろうか。立ち飲み屋独特の雰囲気のせいだろうか。会社を畳んでから、こんな弱音を他人に吐いたのは初めてのような気がする。相手が友人だったら明るく振る舞っていたかもしれない。
「よっしゃ、ええもん持ってるから譲ったろ。これ、どうや?」
男性が出したのは小汚いお守りだった。真ん中に『拾』と書いてある。
「なんですかこれ。お守りですか?」
こんなの貰っても困るなあと思いつつ、無下にするのも悪いので適当な返事をした。
「ただのお守りちゃうで。『拾』って書いてあるやろ。これ10分間だけ、たった10分間だけやけど願い叶うねん。五千円でどうや?」
この台詞でこの男性に対して、少しは感じた親しみのようなものが全て吹き飛んだ。立ち飲み屋に寄っては暗い顔をしている人を捕まえて、こんなのを売りつけているのだろう。少しでも弱みを見せてしまった自分を激しく後悔した。
「あ! 信じてへんやろ! 勿体ない。なおしとくわ。でも、気悪くせんといてな。悪気は無いんやで」
そう言って男性は『拾』と書かれたお守りを懐に戻した。
場を取り繕うとしてくれた彼には悪いが、残ったビールを一気に飲み干した。カウンターに会計を告げて、店を出るためだ。だが、隣の男性に先を越された。
「兄ちゃん注文追加ね。『だし巻き卵』『アサリの酒蒸し』『アジフライ』。あとビール2杯ね」
店員に注文した男性は、私の方を向いてニッと笑った。
「あ、あの、ビール2杯って私の分もですか?」
「そうやで、俺の奢りやから気にせんでええ。あと飯も一緒に食べよ。食べたかったやろ」
壁に貼ってあったメニュー、『だし巻き卵』『アサリの酒蒸し』『アジフライ』は順序よく並んでいたわけではない。それぞれバラバラの場所に書かれてあったものだ。偶然で三つも当たるものだろうか。
「いや、お気持ちは本当に嬉しいんですけど、初めて会った方に奢って貰うっていうのもちょっと……せめて私の分は出しますので」
「無理せんでええやん。お金無いんやろ? 初めてはダメで3回目やったら奢って貰うんか? 難しいこと言わんと飲んだらええ」
その男性に言われるまま、ちょうど運ばれてきたビールで2度目の乾杯をした。
*********
電車に揺られ家路につく。
あの後3〜4杯は飲んだだろうか。会社を立ち上げた事、その会社を去年畳んでしまった事。途中で後悔するような事もあった事。今は仕事を探していて、妻もパートを始めた事。
初めてあった他人に、ここまで打ち解けたのは生まれて初めてだった。久しぶりの酒が回ったのか、何度か涙ぐんでしまった気もする。
会計時、彼は言ったとおり私の分も全て払ってくれた。店を出てお礼を言った後、別れ際にダメ元で聞いてみた。
「あの『拾』ってお守り譲って貰えませんか?」
「5千円やで? ええんか?」
私は言い値で買った。奢って貰いっぱなしで申し訳ないという気持ちと、何かしら運命めいたものを感じたからだ。なんせ、私の財布にはきっちり5千円しか入っていなかったのだから。
そういや、彼が立ち飲み屋で払ってくれた金額は7千円にも満たなかったっけ。上手い事やられたのかもしれないな、と一人笑った。
帰宅すると妻はミシンを踏んでいた。
「何してるの? 服でも縫ってるの?」
「あ、おかえり。見てみてこれ。こんなバッグが2千円で売れてるの。私も売ってみようかなって」
妻がスマートフォンのアプリを立ち上げた。ハンドメイド商品を買ったり売ったり出来るサイトらしい。見てみると、子供向けの小さな手作りバッグが2千円でSOLD-OUTと表示されていた。
「パパも面接頑張ってるから、私もパート以外で何か出来ないかなって探してたのよ」
そう言うと、またミシンをカタカタと走らせた。
飲んでいるせいもあるかもしれないが、思わず涙がこぼれそうになった。私は「シャワー浴びてくる」と言ってその場を離れた。
*********
翌日は雲一つ無い、晴天の土曜日だった。妻のパートも今日は休みだ。
妻に思い切って昨日の事を打ち明けた、『拾』というお守りに5千円も使ってしまった事を。
「そのおじさんに奢ってあげたと思えばいいじゃん。久しぶりに飲み屋さんで飲んで食べて、楽しかったでしょ」
メニューを言い当てた事や、きっちり5千円だけ請求した事は、彼女の中では『ただの偶然』なようだ。
「あの場に居たら本当にビックリしてたって。メニューの数沢山あるのに、3つだけって当てられる?」
私が言っても「それは凄い〜」と笑顔で相づちは打つが、やはりただの偶然としか思っていないようだ。
「でさ、競馬行かない? 競馬場。今から」
「お守り本当に信じてるの? まあ、パパがいいならそれでいいけど。天気もいいしデートみたいなもんだしね」
競馬なんて二の次、妻は晴天のもと一緒に出かけられる事が嬉しそうだった。
2回の乗り継ぎ、2時間ほどかけて、私は学生以来、妻は初めての競馬場に付いた。
「うわー広い! しかも全然キレイじゃん。もっと怪しげな雰囲気だと思ってた」
広かったという記憶はあったが、今やまるでアミューズメント施設のようだ。妻がはしゃぐのも分かる。
「居るのは怖そうなオジさんばかりと思ってたよ。そういや、パパって競馬やった事あるの?」
妻が小走りで私の横に並ぶ。私も興奮しているのか、早歩きになっていたようだ。妻にあわせて歩調を緩める。
「昔、友人に連れられて一度やったきり。昨晩ネットで『馬券の買い方』とか基本的な事は調べてみた。今日は単勝って奴で一回きりの勝負をしてみる。上手くいくと思う?」
「さあねえ」と言って妻は笑った。
『プレビュースタンド』という、コースや馬を見下ろせる場所に辿り着く。
「うわあ」と妻が声を上げた。
広大な芝生のコース、人々の歓声。天気が良いのもあって壮観だった。
さて。
肝心の馬券はスマートフォンで購入する事にした。もちろん、ネット会員の登録も既に完了している。そして、本番前に一度購入の練習をしておく。これも昨晩決めたておいた事だ。
たった一度の10分間、本番で失敗は許されない。
「他の所も見て来ていい?」と妻が場を離れた。
今のうちに本番を想定した購入をしてみよう。昨晩調べてて驚いたのが、購入方法にもよるが出走1分前まで馬券を購入できるって事だ。これなら購入から完走まで10分あれば十分事足りる。
本番同様、出来るだけ出走ギリギリ前に購入完了、そしてレースが始まった。200円で適当に賭けた単勝、10分以内に気持ちよく外れた。こんな所で運を使っていられない。
そろそろ本気で賭ける馬をスマートフォンで探す。どのような馬に賭けるかはもう決めてある。
「こいつだ、このレースのこいつにしよう」
一番不人気の7番、現時点で単勝オッズ102倍。20万円賭けたら2,040万円。実際勝った場合は、どれくらいになるのかは分からない。ただ、大金である事は間違い無いだろう。
これだけあれば当分、いやかなり楽な暮らしが出来る。
どこから願を掛けるのか、昨日からシミュレーションはしてきた。馬券を買うところから始めて、その馬がトップでゴールするまでだ。
「もう終わった?」
妻が戻ってきた。
「いや、次の次のレース。あと50分ほどで馬券買って勝負になる」
「買うとこ下にあったよ。先に移動しておいた方がいいんじゃないの?」
「ネットで買えるんだよ。初心者だからバタバタして、買い遅れたりしたら嫌だから」
「へー便利だね。いくら買うの?」
「……20万円」
妻はビックリして声も出ないようだった。
『勝負の10分間』まで刻々と時間が迫ってきた。
私の緊張感が伝わるのか、20万円も買う事に怒っているのか、妻の口数は少ない。
購入締め切りまで残り3分になった時点で、左ポケットから『拾』と書かれたお守りを出した。左手にお守りとスマートフォンを重ねて持ち、妻と腕を絡ませた。
「な、なにどうしたの?」
「一緒に7番が来るように祈ってて」
7番を勝たせてください、7番を勝たせてください、そう祈りながらネットで購入を進めた。予め入金を済ませておいた20万と200円、これで全て使い切った。
後は7番が一番で完走するまでそれを願うだけだ。お守りの効力、残り約8分。トラブル無く進んでくれ。
「腕なんか組んで、ますますデートみたいだね」
嬉しそうに言う妻には悪いが、人差し指で「シッ」と合図を送った。
少しだけ集中させてくれ、君との人生を幸せにするために。
レースが始まった。
飛び出した集団の中に7番が混じっている。しかも頭一つ飛び出した。
私の7番を勝たせてください、という祈りは大声になって口から飛び出しそうだった。妻は歓声を上げて飛び跳ねている。
中盤も7番は抜かれる事無くトップをキープしている。周りの歓声も次第に大きくなる。気付けば「行けーーー!」と大声をだしていた。
生まれてこの方、一番興奮した瞬間だったかもしれない。
*********
『勝負の10分間』は終わった。
結果、何番目にゴールしたのか分からない。一頭に抜かれたかと思ったら次々に抜かれ、そのまま後退して7番が二度と上がってくる事は無かった。
「世の中こんなもんだよ。そんな上手い事いくわけ無いって」
妻は不思議と笑っていた。
「怒ってないの?」
「20万円賭けた、って聞いた時は『ええっ!』って思ったけど、まあ仕方ないじゃん。また来週からがんばろ。二人だけだし何とでもなるよ」
「ごめん。本当に勝てると思ってた。ちょっとでも楽になればって……」
それ以上話すと、泣いてしまいそうだった。
「何言ってんの。これまで子供にも良い学校行かせてあげられるくらい、頑張ってくれたじゃない。私も勝ったらラッキーって思ってたから。謝ることないよ」
何も話せず鼻をすする私の背中を、妻は優しくなで続けてくれた。
私が少し落ち着いてきたのを察したのか、妻が1枚の紙切れを出してきた。
「そうそう、これどう? 当たってたりする?」
いつの間に買ってたのか、100円分の馬券だった。早速スマートフォンで調べてみる。
「おお凄い、当たってる! こっちに20万賭けてたら豪華なディナーくらい食べられたね」
笑って言ったものの、きっと涙目だっただろう。
「じゃ、こないだパパが行った立ち飲み屋さん行こうよ。話し聞いて行ってみたかったの。少しは足しになるでしょ?」
じゃ、行こうか! と私は妻の腕を引いて歩き出した。換金しても微々たるものだが、今の私達には小さなハッピーに違いない。
競馬場を出ても日はまだ高く、晴天は続いていた。
「……お守りの使い方、間違ってたんだろうか」
「やだ、まだ言ってんの!? 本当はどんな使い方するものなの?」
「実は、ちゃんとした使い方とか聞いてなかったんだ。試し買いした馬券が当たらないよう願ったのが叶っちゃったのかな。なんて思ったり……」
「そんなのによく20万も使ったね、呆れる」
妻がため息をついた。
「あとは『君と幸せになれるように』とも願ったかな」
「そんなの願わなくても叶ってるじゃん! もうお守りの話は終わり終わり!」
そう言って私の背中をパンパンと二度叩いた。
とても高い授業料だったが、私にとって一番大事なものを気付かせてくれた『拾』のお守り。
妻に言うと「今更?」と怒られるだろうから、これは胸の奥にしまっておこうと思う。
〈了〉
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