4人が本棚に入れています
本棚に追加
06
旭が登校してきたのは早退騒ぎから三日後のことだった。
「旭くん!もういいの?」
いつもより一本遅いバスに乗り教室に入ってきた旭の姿を目敏く見付けたノエルが椅子から飛び上がって駆け寄ると、旭はグレンチェックのマフラーを外しながら「百五十円。あとこれは利子」と言ってノエルの掌に百五十円とミントタブレットを乗せた。
「えー、いいよこんなの!」
「いいから」
旭はぶっきらぼうにそう言って自らの席にどかりと腰掛けると、休んでいる間に配布されたプリントに目を通した。
「体調はもういいの?」
「うん、大丈夫。むしろ休み過ぎた。母さんが大袈裟でなかなか行かせてくれなくてさ」
「仕事から帰ったら息子がタクシーで早退してたら心配もすると思う」
「稀によくある」
旭はズレてもいないマスクを直し、机に頬杖をついてノエルの顔をじっと見つめると「そういえば、起き上がれなくて暇だったから見たよ。インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」とちょっと照れくさそうに言った。
「え!嘘!見てくれたの?!」
「吸血鬼に対する夢と願望が詰まり過ぎているきらいはあったけど、ファンタジー作品としてはよく出来てたと思う。暇過ぎてクイーン・オブ・ヴァンパイアも見た」
「ハマってんじゃん」
ノエルがチョーカーにぶら下がった十字架を揺らしながら笑うと、旭は照れ隠しに下がってもいない眼鏡のブリッジを押し上げた。
旭が「……ノエル、予鈴。席付きなよ」とバツが悪そうに指摘すると、ノエルは「はいはーい」と鳥のように軽やかに着席した。
「なぁ旭、お前やっぱり佐藤ノエルと付き合ってんの?」
直後にニヤケ顔の悪友達に取り込まれた旭は「付き合ってない。休んでた分のノート見せろ」と言って不愉快そうに顔を歪めた。
「差し入れー」
放課後、旭が人気のない教室で比較的字が綺麗な悪友から借りたノートを黙々と写していると、ノエルは自販機で買ったココアとほっとレモンを机に並べ旭の前の席の椅子に腰掛けた。
「ほっとレモンかココア、選んでいいよ」
「お金払うよ」
「ミントタブレット奢ってくれたし良いよ。これ実はね、旭くんに憧れて食べ始めたんだ」
「なんて馬鹿な理由……」
旭が顔中に軽蔑の色を露わにしながらほっとレモンに手を伸ばすと、ノエルは「やった!私ココアの気分!」と喜びを顔いっぱいに浮かべた。
「ならココア二本の方がノーリスクだったんじゃない?」
「旭くんが乳製品アレルギーだったら一緒に飲めじゃん?」
「ノエル、短期間で見違えるほど思慮深くなったね」
旭が嫌味ではなく心からの賛辞としてそう言うと、カーディガンを萌え袖にして熱過ぎるココアと格闘していたノエルは「えー、賢くなった?やったぁ!」とガッツポーズをした。
「はいはい賢い賢い」
「ねぇ馬鹿にしてるよねぇー?」
「うるさい。邪魔するなら帰れ」
「はーい」
さらさらと文字を書く音だけ響く夕焼け色の教室。
先に口を開いたのはノエルだった。
「……私ね、吸血鬼との共存に懐疑的なカルト宗教信者が住む集落で育ったんだ」
ノエルが「旭くん、ヒトノチカラ修道会って知ってる?○○市の」と尋ねると、旭は「え、あの吸血鬼は人間を家畜としてしか見ていない!吸血鬼との共存は不可能!って思想強めの?!っていうかあそこから通ってんの?!遠くない?!」と驚愕して刮目した。
吸血鬼との共存に拒絶し、住人全てが人間で構成された前時代的独立特区。
この世界には人間と吸血鬼が共存していると聞かされても教師も同級生も人間ばかりで吸血鬼は一人もおらず、吸血鬼を見かけるのはテレビのニュースくらい。
「何を隠そう私はそのカルト村の出身なのだ」
ノエルがイエーイと裏ピースを顎に添えて茶化しても、旭は依然として凍りついたままだった。
「……ごめん、やっぱり気分悪いよね」
「いやそうじゃなくて!ノエルは色々間違ってはいたけど吸血鬼に対して好意的だったし、あそこの人達とは違うってちゃんと分かってる!……でもだからこそ、よくあの街からノエルみたいなのが出たなって驚いて」
「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイアが私を育てたんだよ!」
「それはどうかと思うけどね。……それにしても、よく親御さんが共学入るの許してくれたね」
ノートを移す気なんてすっかり失せてしまった。
旭が冷めたほっとレモンをひと口飲むと、ノエルは「うーん許して貰えてはないかな?ここしか受験しなかった。人間吸血鬼共学じゃなきゃ学校行かないって駄々こねたの」と言って旭のノートに意味もなく可愛らしいウサギとクマのイラストを量産した。
「通学に電車とバスで片道二時間半かかるんだけど、まだ周りの家が寝静まってる頃に家を出て電車の最寄りに着いてから制服に着替えるんだ。意味あるのかなーって感じだけど案の定すぐに噂が回って村八分。パパとママには悪いことしたなーって思ってる。でも後悔はしてない」
ノエルはやけに大人びた表情でそう言うと、窓枠に切り取られた真っ赤な夕焼けに目をやった。
「でもね、どうしても出たかったんだ。外の世界に。レスタトもルイも迎えに来てくれないから、私から会いに行こうって思ったの」
ノエルはそう言って慣れた様子で旭のシャーペンを器用に回しながら「私を噛んで!って頼んで回ったのは我ながら痛かったと思うけど、私外に出てよかったよ。旭にも会えたからね」とはにかんだように微笑んだ。
「……ノエル」
「ん、どした?」
「僕は、夜を生きるだけ。変化はなく空虚な日々だ」
旭が虚ろな表情でそう言って徐に立ち上がり、椅子に片膝をつき机を隔てて突然ノエルの白い首筋に歯を立てると、ノエルは驚き慌てふためき椅子から転げ落ちそうになった。
「選ぶのはお前だ」
旭の父親譲りの立派な牙はノエルの柔肌を突き破るには充分だったが、甘噛みしただけで血の一筋も流させはしなかった。
旭がペンケースからカッターナイフを取り出して歯を自らの手首に当てる真似をしながら「……このまま死ぬか、それとも俺と来るか。選ぶのはお前だ、ノエル」と言って透き通った琥珀の色の瞳でノエルを見下ろすと、我慢の限界を迎えたノエルが小さく吹き出し、それをきっかけに二人は弾かれたように笑いだした。
「ちょ、ごめん。マジ無理、限界。旭くん渾身の吸血鬼演技ほんと死ぬ」
「僕も」
「ほんとに噛むとかマジありえないんだけどこのダンピール」
「甘噛みでしょ?でも急に噛んでごめんね」
旭が弁当の入ったランチバックから除菌ティッシュを取り出し、歯型すら残っていない首筋をさっと拭った。
「ううん、全然。……ありがとう。旭くんのお陰で長年の夢が叶った」
「僕は人生で一度も人間を噛んだことなんてなかったから死ぬほど緊張した」
「ほんと笑い死ぬ」
いつまでも笑いが引かないノエルに旭が少しムッとして「笑うな。僕だって本当は恥ずかしかったんだからな」と言うと、ノエルは自分の意思とは裏腹に痙攣する身体を抱き締めて「……はー、ごめん。ほんとごめん」と涙目になり深呼吸を繰り返した。
「ありがとう。夢が叶った」
「……それはもう聞いた」
夕日のせいばかりではなく顔の赤い旭がスマートフォンの通知をチェックして「送ってくよ。危険な吸血鬼が逃走中みたいだからさ」と申し出るとノエルは「おっ、ルーマニア式?」と茶化したが「もういいから」と冷たく一蹴した。
「旭くん最高だよ。世界一のダンピールだよ」
「うるさいな。やっぱやるんじゃなかった」
「なんで?一生の思い出だよ!やっぱ歯型つけて!」
「つけない!」
ノエルが笑う度、チョーカーについた十字架が揺れる。
血のように真っ赤な夕陽の影を二人を照らしていた。
最初のコメントを投稿しよう!