わたるな。

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 ***  旅館“くのき”は、駅から専用のバスで数十分という、非常に不便な場所にあった。  その理由は、この旅館に来る客の殆どがすぐ裏手の山への登山とハイキングを目的としているからである。  七月のこの時期は、一番安全に山登りができるということもあり、観光客にも大人気なのだった。特に、くのき山は初心者向けの山としても有名である。途中までは車で行けるし、ロープウェイもある。リフトで景色を楽しみながら登ることも可能。コンクリートで舗装された道もあり、頂上近くにはお祭りの屋台のようなものがたくさん並んでいるエリアもあると評判だった。  また、舗装されていない道、つまり登山道も豊富である。夏ならば初心者が軽装で登れるルートも少なくない。反面、冬は多くの歩きやすい道が通れなくなることもあり、中級者以上でなければ挑戦するなと言われるような山でもあるそうだったが。  妻は五十歳だし、僕も四十代。あまり無茶な山登りなどはできない。  そもそも山登りの知識や経験があるわけでもない。というわけで、今回はあくまでちょっとしたハイキングを楽しむくらいのつもりだった。  幸い旅行初日から三日間、この近辺の天気は良好と言われている。頂上から見る景色は格別であることだろう。 「大きな旅館ねえ」  ガイドブックに載るような高級かつ人気旅館である。一部学生は既に夏休みに入っていることもあり、入口は少々混雑していた。カウンターで受付待ちをしていると、みどりが僕に話しかけてくる。 「割引券なかったら泊まれなかったわよ、こんなとこ」 「だな。檜風呂もあるらしい。楽しみだな」 「そうね」  カウンターの台は木製で、つやつやと黒く輝いていた。細かな花の装飾がされた花瓶には、ピンク、黄色、赤の可愛らしい花がいくつも飾られている。自分にもう少し知識があれば、何の花かもわかったのかもしれない。  待っている間も、退屈することはなかった。旅館内部にはあちこち花瓶があり、花が生けられ、目を楽しませてくれたからである。  同時に、美しい絵画も飾られている。特に目を轢かれたのは、カウンターの黒スーツ姿のお姉さんの後ろに飾られた絵だ。藍色の着物を着た、髪の長い女性がたおやかに微笑んでいる。絵の下には“はつねさん”というタイトルが刻まれていた。はつねさん――それがあの女性の名前なのだろうか。 「綺麗な絵よね。あの浴衣いいなあ、欲しい」  みどりは絵を見つめて、はあ、とため息をついた。 「私も髪、長く伸ばした方がいいと思う?浴衣着るなら、あの女性みたいに長く伸ばしてアップにした方が映えるのは事実なのよね。あと眼鏡もコンタクトにした方がいい?」
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