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彼女は僕と付き合い始めた大学の時からずっとボブカットに眼鏡をかけている。自分の容姿が地味だと、彼女が昔から気にしていることを僕は知っていた。しかし。
「髪が短い方が水道代の節約になるし、コンタクトは面倒だって君が言ってたんじゃないか」
僕は彼女の肩をぽんぽんと叩いて言ったのだった。
「それに、昔から言ってるだろ。僕は眼鏡にショート派なんだって。ていうか君がやるならなんでもいいんだけど」
「こんなところで惚気ないでよ、もう!」
「はははは、顔赤いぞーみどり」
自分で言うのもなんだが、僕とみどりは結婚してもう何年も経つのに結構なアツアツぶりだ。思春期の娘からも“お父さんとお母さん、仲良すぎて時々引くんですけど!”と言われてしまうほどである。
みどりが髪を長くして、あの絵の女性のような藍色の浴衣を着たらそれはそれで美しいだろう。見たくないと言えば嘘になる、が。結局僕は彼女が傍にいてくれるならもうどんな姿でもいいというのが本音であるわけで。
――でも、浴衣かあ。……本気で欲しいなら、そっちは買ってもいいかな。うち、浴衣とか持ってないしなあ。
そんなことを考えていると、前の家族連れの旅行客の手続きが終わって自分達の番になった。僕とみどりがカウンターの前に立つと、受付の女性は少しだけ驚いた顔をしたのである。
「えっと、失礼ですがご夫婦、でございますか?」
「え?そうですけど……」
「つかぬことをお尋ねしますが、例の噂を知った上で……ということでしょうか?」
「噂?」
何のことだろう。僕と妻は顔を見合わせる。すると、僕達が何も知らないっぽいことに気付いて女性はため息をついたのだった。
「……ハイキングに行かれるのでしたら、一つだけ注意がございます。くのき山の登山道やハイキングロードにはいくつも吊り橋がかかっていますが……ご夫婦で一緒に橋を渡らないでくださいませ。二人とも渡らないか、一人ずつ渡るか、どちらかにしてください。でないと、嫉まれてしまいますから」
「嫉まれる?」
「そう、嫉まれてしまいます。特に、仲の良いご夫婦の場合は」
一体誰に、どのように嫉まれるのか。残念ながらそれ以上のことは教えて貰えなかった。ただ彼女は固い表情で“それ以上は申し上げられないのです”と繰り返すばかりであったのである。
よくわからないが、一応頭の隅に入れておくべきことなのだろう。この時はそう思っていた。そう、思ってはいたのだ。
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