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人間は、忘れる生き物である。
頂上まで辿り着いて、焼きそばとかき氷を買って堪能したらもう、僕達はすっかり宿の人の忠告なんて忘れてしまっていたのだった。
いや、正確にはこの時は多少覚えていたのだが、記憶が曖昧になっていた。帰り道、行きとは違うハイキングコースで戻ろうとした時、吊り橋を発見したのである。
「すごい崖。怖いんだけど、本当にこんなところ通るの?」
みどりがこわごわと橋の下を見て言う。昼をすぎて少し気温が下がってきたからなのか、崖の下の方は雲海のように霧がかかっていた。鮮やかな緑と、キラキラとした日の光もあいまって実に幻想的な光景だ。
ちなみに吊り橋といっても、ボロボロで今にも崩れそうな――とか、そんなことはないと言っておく。鋼鉄製のロープに鉄の橋桁の、かなり頑丈なものだ。それこそ人が五人くらい並んでもと折れそうな広さがあり、高所恐怖症のコの字もない僕からすればまったく怖がる要素などなかったのである。
「大丈夫大丈夫。ここ日本だし、そう簡単にこんな橋落ちたりしないって。他の人も渡ってるだろ?」
「そりゃそうだけど……」
尻込みするみどりの前で、小さな男の子ふたりを連れた家族連れが通過していった。子供達はまったく怖がっている様子がない。さすがにびびっている自分が恥ずかしいと感じたのか、閉口するみどり。
「ほら、大丈夫。僕がずっと手をつないでてあげるから!」
僕の言葉に、みどりは眼鏡の奥の瞳を細めて、そうね、と笑った。
「つり橋を夫婦で渡るなら、一緒に手を繋いで渡るように……みたいなこと、旅館の人も言ってたもんね」
「そうそう」
彼女の華奢な手を引き、反対の手では手摺を掴んでゆっくりと歩いていく。少しだけ風が強い。橋の真ん中まで来たところで、僕は思わず声を上げた。
「凄い!写真撮ろうよ、いい景色!」
「まあ!」
妻はさっきまでの恐怖も忘れて歓声を上げた。青々とした森。谷を流れるように、キラキラと光る霧が、さながらスモークのように動いていくのが見える。遠くには小さく、ぽつん、ぽつんと赤いものが見えていた。多分、くのき山にいくつかあるという神社だろう。後でそっちの方にも足を運んでみたいものだ。
僕はスマホを準備して、彼女の方にカメラを向ける。
「はい、チーズ!」
森と、小さく見える神社、雲海のような霧。そしてその中心で微笑む妻。
それら全てが綺麗に収まるベストポジションだった。かしゃん、とシャッター音が鳴り響く。途端、強風と共に彼女が悲鳴を上げた。
「だ、大丈夫!?」
「ええ」
妻はなびく長い髪を抑えて、僕に笑いかけてくる。
「ちょっと怖かっただけ。……でも、これはこれでスリリングで、面白いかもしれないわね」
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