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「基本的にはよく眠れるんですけど、たまに夜中に目が覚めてしまうことがあって」
照明の清らかな白光がわたしと先生を照らし出している。
「そうしたらもう、将来のこととか。酷いときだと、人間はみんないつか必ず死ぬ運命にあることとか。そういう、考えても仕方がないことを延々と考えてしまって」
ミクリヤ先生は絶妙なタイミングで相槌を打ちながら、話に耳を傾けてくれる。時折デスクの上のノートパソコンのほうを向き、キーボードを軽快にタイプするが、体と眼差しの方向は基本的にはわたしだ。
しょせんは患者と医師の関係。ミクリヤ先生自身は、わたしを十も齢が離れていない異性だとは意識していないだろう。
それでも構わなかった。
「灰島さんが抱いている不安は全て、近い未来に現実と化す可能性が低いものですよね。そのような場合、患者さんに心がけてほしいのは――」
相談内容は毎回ほぼ同じだから、ミクリヤ先生が提示するアドバイスも毎回ほぼ同じだ。既視感を覚える単語や言い回しや箴言を、生真面目な学生のように何度もうなずきながら、わたしは拝聴する。
これでいい。
ミクリヤ先生の真剣な表情と声を間近で体感できるのなら、それだけで。
形式的で儀礼的な質疑応答が終わると、雑談へと移行する。といっても、他愛もない世間話に終始するのではない。日常で体験した出来事を広範囲にわたって話すことで、新たな問題が発生する兆しや、未解決の問題を解決するヒントを探るという、確固たる目的がある。
「今日、わたしの家に姫人形が来るんですよ」
会話の切れ目を見計らって話頭を転じ、髪の毛を耳にかける。自覚していなかったが、照れたときによくする仕草だと、最近マツバさんから指摘された。
「五・六歳の女の子がモデルの一体にしました。わたし、小さい子どもは大好きだから、今からすごく楽しみで」
「それはよかったですね。姫人形は近年、人間に癒しを与える役割にも注目が集まっていますし、灰島さんにとって確実にプラスになると思います」
「先生にそうおっしゃっていただいて、ますます楽しみになりました」
髪の毛の長さや目の色や体型など、選択肢が無数に用意されているせいで迷ってしまい、注文するまでに時間がかかったこと。ミクリヤ先生も姫人形の購入を検討した時期があったが、多忙を理由に断念したこと。アフターサービスが充実しているので、その点では安心感を持っていること。
時間いっぱいまで姫人形のことを話したせいで、先生の顔を目に焼きつける時間が短くなってしまったのは、少し残念だったかもしれない。
ミクリヤ心療内科を出ると、空は一面、鈍色の分厚い雲に覆われている。
川沿いの道を南に向かって歩く。体長二十メートルにもなる首長竜が棲息していると噂されている川だが、今は淡水が穏やかに流れているのみだ。クリーム色の外壁のミクリヤ心療内科が次第に遠くなっていく。
十分ばかり歩くと、レンガ造りの短い橋に差しかかった。
中間地点付近で足を止め、欄干越しに川を覗きこむ。水面に映った自分は、ささやかな心配ごとを抱えているときの顔をしている。
見た瞬間は、意外だと思った。しかし一秒後には、当たり前だ、と考えが改まった。家族が一人から二人に増えるのだから、多少なりとも先行きが不安に決まっている。
橋を渡りきると、我が家のダークブラウンの屋根が彼方に見えた。
「……わたしの姫人形」
もう、届いているだろうか。
白い大型トラックが灰島家の門前に停まっている。
側面の隅に黒色で刻まれたロゴを判読して、鼓動が速まった。
少し窮屈なトップスの裾を軽く直し、車体を横切る。覗きこんだ運転席は無人で、バックミラーに吊るされた小さなトラのぬいぐるみがわたしを見返した。
門を潜ると、自宅の玄関ドアの前に人がいた。白い作業着を着た若い女性と、パステルピンクに染まった髪の毛の少女。二人は親子のように横に並び、ドアに相対している。
また少し、拍動のテンポが速くなった。
女性の右手は虚空に静止している。たった今インターフォンを鳴らしたばかりらしい。一方の女の子は、直立不動の姿勢。ドレスを思わせる黒一色の服を着ていて、膝丈のスカートの裾は緩やかに広がっている。
二人のもとへ歩を進める。小道の中ほどでまず女の子が、ワンテンポ遅れて作業着姿の女性が、それぞれこちらを振り向いた。
髪の毛と同じ、鮮やかなピンク色の瞳に意識を吸いつけられ、わたしの足は止まる。肌の色も、幼くも整った顔の造作も、白色人種のそれだ。ドレス風の黒衣の襟にはワインレッド色のリボンが結ばれている。それを弄んでいた女の子の指がゆっくりと離れ、腰の横に落ちた。女性は体ごと振り向き、
「灰島ナツキさまですね?」
わたしはうなずき、彼女に歩み寄る。手にしていたタブレット端末を差し出してきたので、モニターをタップして本人確認を済ませる。目の端には、わたしを見上げる少女の姿が映っている。
「欠陥や不備などがございましたら、カスタマーサポートまでご連絡ください。説明書はウェブサイトからダウンロードできますので、よろしければご活用ください」
女性は恭しく頭を下げ、小走りでトラックに戻る。エンジン音が唸り、排気ガスの臭いを残して走り去る。
わたしと女の子は見つめ合う。
あどけないという表現がしっくりくる、つぶらで透き通った瞳だ。月並みな形容だが、宝石のようだと思う。
「こんばんは。いや、まだこんにちはかな」
目を見つめながら挨拶をしたが、返事はない。言葉でも、仕草でも、表情でも。ただ、臆することなくわたしの目を見返してくる。
「あなた、しゃべれるんだよね?」
「うん、しゃべれる」
ようやく声が発せられた。透明感のある、少し舌足らずな声は、事前にイメージしていたものと寸分違わない。何十種類ものサンプル音声を参考にオーダーしたのだから、イメージと現実が合致するのは当然なのだが、それでも感動してしまった。
待ち望んでいた姫人形が、とうとう我が家に来たのだ。そんな思いが静かに湧き上がり、胸が熱くなる。
「立ち話もなんだし、家に入ろうか。靴、上がるときはちゃんと脱いでね」
姫人形は無言でうなずく。わたし、姫人形の順番で中に入る。
一段高い場所にいるわたしに見守られながら、姫人形は靴を脱ぐ。光沢のある、ドレスと同じ色の靴。腰を屈め、履いているものを脱ぐ一連の動作は、幼児らしく多少ぎこちなかったが、ステレオタイプのロボットのような不自然さはない。
目を瞠ったのは、脱いだものを自主的に揃えたことだ。つま先を奥側に向けて、他の人間が脱いだり履いたりする邪魔にならないように端に寄せてと、こまかな作法まで完璧だ。
先にわたしが靴を脱ぐのを観察していて、真似をした? それとも、あらかじめプログラミングされた行動をとっただけ?
わたしの乏しい知識では、どちらが正しいとは断言できない。たぶん、姫人形本人に尋ねたとしても答えられないだろう。
「手を洗おうか」
手本を見せれば倣ってくれるだろうと考え、わたしが先に洗って場所を譲る。姫人形はただちに要求された行動をとろうとしたが、想定外の事態が起きた。身長が低いせいで、洗面台の蛇口に手が届かないのだ。
バスルームから風呂椅子を持ち出し、洗面台の前に置くと、姫人形はそれに上がった。蛇口を捻って開ける、指の付け根まで洗う、蛇口をきちんと閉める。いずれも無難にこなした。
きっとこれから、こんなことがたくさんあるのだろう。子どもとの共同生活に慣れていない、あるいは子どもという生き物を理解していないからこその、つまらない見落としや滑稽な勘違いが。
リビングへ移動して荷物を置く。姫人形はドアを潜ってすぐの地点で立ち止まり、リビングと、隣接するダイニングとキッチン、それらがひと続きになった空間を見回している。興味津々というふうではなく、過度に緊張しているようでもない。
わたしはダイニングテーブルの椅子に座る。脚が床にこすれる音に反応して、姫人形が振り向いた。手招きをすると、歩み寄ってくる。向かいの席に座るよう、手振りで促す。少し重たそうにしながらも、椅子を引いて腰を下ろす。
「改めて、こんにちは」
「こんにちは」
「灰島家にようこそ。あなたは今日からこの家の家族の一員だから、そのつもりで振る舞ってくれていいよ。家族といっても、わたし一人だけだけどね。ここまでわたしが言っている意味、理解してくれた?」
首肯。
「うん、賢いね。わたしの名前は灰島ナツキ。ナツキって呼んで」
「ナツキ」
「そう、ナツキ。それで、名前なんだけど」
「なまえ」
「わたしじゃなくて、あなたの名前ね。こんな名前がいい、こんな名前で呼んでほしいっていう希望、あるかな?」
五秒ほど沈黙し、姫人形は小首を傾げた。ささいな仕草だが、しっかりと人間らしい動きだ。
「それじゃあ、姫っていう名前はどうかな。あなたは姫人形だから、そこから一文字とって名前にするの」
「姫……」
「そう、姫。だってほら、姫というのは、女の子の名前によく使われる漢字でもあるでしょ。あなたは髪の毛がピンク色だから、お姫さまっていうイメージだし。安直かもしれないけど、悪くはないんじゃないかな」
姫人形は黙ってわたしの顔を見つめている。提案された名前が適当か否かを黙考しているのか。それとも、他の理由から呆然としているのか。表情から判断するのは難しい。感情があまり表に出ない子だという印象は、これまでのところある。
「気に入ったならそれで決まり。それはちょっとって思うのなら、他にいい名前がないかをいっしょに考えよう。あなたはどう思う?」
「うん、いいよ。なまえ、姫がいい」
姫人形――姫は一瞬、わずかながらも表情を緩めた。
「そっか。じゃあ、それで決定。姫、これからよろしくね」
ほほ笑みかけると、わたしから目を逸らさずに小さくうなずくという、先ほども見せた反応が返ってきた。テーブルを包んでいた緊張感はだいぶ薄らいできたように感じる。
わたしはリビングの掛け時計を見上げる。午後六時五十分。
「もう晩ごはんの時間だね。姫がうちに来てくれたお祝いにごちそうを――と言いたいところだけど、料理を作るのはあまり得意じゃないんだ。食べに行くのもいいけど、個人的にはゆっくりしたい気分だから、家で食べたいかな。姫はどう思う?」
首肯。
「それじゃあ、家で食べよう。おなかが空いていて今すぐ食べたいなら、カップ麺があるよ。待てるなら簡単なものを作るけど」
「ぼく、待てるよ。ちゃんと待てる」
「それじゃあ、今からわたしが作るね。お祝いに相応しい豪華な食事は無理だけど、全力を尽くすから。そのあいだ、姫は家の中を探検してくるといいよ」
「たんけん?」
「そう。家の中を順番に見て回って、どこになにがあるのか、自分の目でたしかめるの」
「いいの? 勝手にそんなことして」
「もちろん。姫はこの家の住人なんだから、自由に行き来して全然構わないよ。ただし、家の外には出ないことと、高い場所には上らないこと、この二つだけは守ってね。姫が危ない目に遭うといけないから」
「わかった」
姫は静かに椅子から立ち、リビングから出て行った。心の高ぶりは感じられないが、命令されたから渋々従っている、という様子でもない。
一つ息を吐き、料理の準備に取りかかる。
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