サツキツツジの季節に

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 いじめは徐々に酷くなる、という百合梨の予感は的中した。  その日最初となる現代国語の授業が行われていた。私語を交わす生徒が二・三組いるという状況の中、川真田樹音が突然「一枝」という名前を含む発言をしたのだ。  皮肉なことに、樹音がもっとも聞かせたかっただろう百合梨は、発言の「一枝」以外の部分を聞きとれなかった。板書をノートに書きとるのに集中していたせいだ。  授業を受けるどころではなくなった。左手でノートの端を押さえ、右手にシャープペンを握った姿勢のまま硬直し、左方向からの音声に神経を尖らせる。  樹音の話し相手は前の席、樹音のグループに属する神宮寺玲奈だ。二人は「一枝」を含む発言のあと、少しばかり言葉をやりとりしてから授業に戻った。  断片から推し量ったかぎり、樹音はどうやら、昨日机に花を置いたにもかかわらず、百合梨が普通に登校してきたのが滑稽千万だ、という趣旨の発言をしたらしい。  百合梨は二重の意味でショックを受けた。一つは、葬式ごっこのような悪趣味で質の悪い遊びが、今後も続いていきそうなこと。一つは、授業中に教師にも聞こえる声で侮辱されたこと。  教師に露見するのを覚悟で加害行為を働くというのは、百合梨の中では、いじめがかなり進んだ段階にあるという認識だ。  現代国語の担任の井坂は定年間近の男性教師で、授業の進行に支障が生じなければ、多少の私語は許容する。注意する場合でもそうきつくは叱りつけない。思い切った行為に踏み切りやすい教師ではあるが、それを差し引いてもショックは大きかった。  井坂の間延びした声はことごとく、耳を左から右へと通り抜けていく。  三時間目と四時間目のあいだの休み時間、百合梨がトイレに行こうと教室を出ようとすると、神宮寺玲奈に足を引っかけられて転倒させられるという出来事があった。  川真田樹音のグループに属する女子は、リーダーの机を囲むことが多い。しかしその休み時間は、樹音は他のクラスの友人のもとへ行っているらしく教室には不在で、メンバーの一人である花岡の机に集っていた。  花岡の机の左側にポジションをとっていた玲奈は、自身の左を百合梨が通過するタイミングを狙い澄まして左脚を突き出した。  出し抜けに足元に出現した障害物に、百合梨はあえなく足をとられて前のめりに倒れた。咄嗟に受け身をとったので無傷で済んだが、制服のスカートが大きくめくれた。すぐさま体勢を立て直して乱れを直したものの、薄桃色のショーツは五秒間ほど露わになったままだった。  倒れた音に反応して、加害者を含む複数人が百合梨に視線を注いだ。その中には男子生徒も何人かいた。 「ごめんね。一枝さんが後ろ通ってるの、話に夢中で気づかなかったよ。怪我はない?」  玲奈は上体を屈めて百合梨と目を合わせ、栗色の髪の毛を耳にかけながら謝罪した。さも申し訳なさそうに眉根を寄せるという、謝る側としては模範的な顔つきで。  百合梨が引きつった顔で「平気」と答えると、表情を大きく緩めてみせ、友人たちとの会話に戻った。  神宮寺玲奈は感情表現にめりはりがある少女だ。言葉づかいは乱暴ではなく、他のグループの女子生徒とも良好な関係を維持している。一見、性格が明るくて心根が善良な、ごく普通の女子中学生。いじめをするグループに属しているようにはとても見えない。  しかし、実際の玲奈は、樹音の右腕、あるいは太鼓持ちのようなポジションにいる。いくら仲間やその他の人間には愛想がよくても、百合梨の悪口はしっかりと言うという意味では、樹音のグループに属する他の女子と同じだ。さらには、腹に一物あって、邪な企みを隠蔽するためにあえて快活に振る舞っているような、そんな印象を受けることが百合梨は多々ある。  川真田樹音のグループの女子は全員大嫌いだが、樹音の次に嫌いなメンバーは誰かと問われたならば、百合梨は間髪を入れずに玲奈の名を挙げるだろう。  百合梨の心に決定的な影響を及ぼす出来事が放課後に起きた。 「それ、かわいいよね」  手早く支度を整え、さあ帰ろうというときになって、樹音が話しかけてきた。樹音がいるのは自分の机で、いつものメンバーも彼女のもとに集っている。  放課後に教室に居残り、無駄話に耽るのを樹音たちは習慣としている。そのおかげで、百合梨は帰宅の邪魔をされたことがめったにない。だからこそ虚を衝かれたし、動揺した。  樹音が指差したのは、百合梨のスクールバッグについている小さなクマのぬいぐるみ。短いチェーンが背中から伸びていて、バッグの肩紐の付け根に結びつけてある。トースト色の体毛に、右耳を飾る真っ赤な花飾り。百合梨が小学生のとき、家族旅行で行った遊園地でお土産として買ってもらったものだ。  樹音たちがぞろぞろと歩み寄ってくる。百合梨は身構えた。彼女たちがなぜこのタイミングでクマのぬいぐるみに着目したのか。唐突すぎて、不可解で、嫌な予感しかしない。 「見せてよ。なに警戒してるの?」  樹音は高圧的な薄ら笑いで百合梨を釘づけにしたうえで、ぬいぐるみを無造作に掴んだ。強く引っ張られ、スクールバッグごと百合梨も引き寄せられる。樹音がまとう人工の芳香が嗅覚を支配し、百合梨の心を圧倒する。  樹音は冷ややかな目でクマを見つめていたが、おもむろに持ち主と視線を合わせ、 「これ、どこで買ったの? 思い入れでもあるの?」 「それは、その……。小学生のときに旅行先で買ったもので、ずっとつけてて。だから愛着はある、かな」  ふぅん、という声。その底に漂う嘲りの気配に、百合梨は息を呑む。樹音はもう一方の手で花飾りをつまみ、 「うりゃっ」  思いきり引っ張った。断絶する音が立ち、ぬいぐるみの耳元から花飾りが分離した。ため息にも似た嘲りの声が取り巻きたちの口からいっせいに漏れた。  絶句する百合梨の顔を、樹音が斜め下から覗き込んでくる。加害者グループリーダーの端正な顔には、侮蔑と嘲りの色がくっきりと表れ、歪んだ輝きを放っている。寒気がするほどおぞましく、だからこそ美しくもある、邪悪な表情。 「あー、ほんとだね。古いやつだからすぐに壊れた。ま、こんなものを持ってきてるほうが悪いよね。あたしじゃなくて一枝が悪いよ」  被害者の顔を見つめながら粘っこい口調でそう言って、花飾りを足元に捨てる。それだけでは飽き足らず、蹴飛ばす。赤い花飾りは、並べられた机の脚のあいだを奇跡的にすり抜け、教卓の手前で静止した。  樹音はぬいぐるみを手放し、取り巻きたちに「帰るよ」と呼びかけて移動を開始する。一行はわざわざ花飾りを踏みつけるコースを選んで教室から出て行った。  姿が消えてもなお、樹音由来の芳香は存在感を放っている。  百合梨は花飾りに歩み寄って拾い上げる。花びらが少しよじれ、埃のせいで白っぽく汚れている。手で歪みを直そうとしたが、戻らない。汚れを払っても落ちない。  放課後を告げるチャイムが鳴ってからの時間を考えれば、校舎内にはまだ何人もの生徒が残っているはずなのに、人声も物音も聞こえてこない。人気だけは感じられるが、別世界から漂ってきているかのように遠く、現実感が希薄だ。  百合梨は無人の教室で立ち尽くす。真っ赤な花飾りを手にしたまま、一歩も動けない。  空虚だ、と思った。  百合梨のローファーが小石を蹴飛ばした。  指頭大のそれは坂道を下へ、下へと転がっていく。  小石は最初、追いつけそうな速度で遠ざかっていたが、次第に加速する。終点が間近に迫ったころには狂気じみた速度に達し、電信柱に衝突して止まった。  石ころから視線を切り、歩みを再開する。頭の中で、今日自分に加えられた被害を反芻しながら。  今日の樹音たちの行為は酷かった。頻度、量、質、どれをとっても、昨日までとは少し様子が違った。あくまでも主観的な評価ではあるが、一線を越えた感があった。  たとえるならば坂道を転がる小石のようなもの。一度加速したらもう止められない。このあたりでなにか行動を起こさないと、本当にまずいことになる。  なにより、私物を壊したのが許せない。癪に障る、憎らしい、恨めしい。  なぜこうも腹立たしいのか、百合梨は自分でもわからない。クマのぬいぐるみは、亡くなった家族の形見の品でも、恋人から贈られた思い出の品でもない。子ども時代に買ってもらって惰性で鞄につけつづけていただけの、取るに足らない土産物でしかないのに。  もしもリスクなしで達成可能な妙案があるなら、川真田樹音たちの存在を抹消することで復讐を遂げたい――。  そんな荒々しい欲求さえ胸の内側で渦巻いている。  これ以上加害行為がエスカレートすれば、取り返しがつかなくなるから、早めに対処しておきたい。  そんな悲痛な願いが作用した結果の憎悪、その究極系としての殺意、というのは理解できる。しかし、それを差し引いても、殺したいと思うまでに膨らんだというのはなにか不自然だ。  違和感を抱きながらも黒い感情に向き合っているうちに、百合梨は次第にそれに絡めとられていった。理性が徐々に磨滅していき、いつしか憎しみと復讐の問題しか考えられなくなっていた。  復讐。  どうせなら過激にやりたい。こちらに手を出す意欲を永遠に奪うような、とびきり暴力的な復讐がいい。  百合梨はこれまで、獣じみた行為とは無縁に生きてきた。荒々しい衝動が湧き起こることもたまにあったが、そのたびに待ったをかけ、暴力を振るうなんて野蛮で浅ましいことだと自戒してきた。  それなのに、今日はなぜか歯止めがきかない。暴力的な手段で川真田樹音に復讐するという考えから逃れられない。クマのぬいぐるみのことなんて、いつの間にかすっかりどうでもよくなっている。  パンクはしていないにもかかわらず、百合梨は自転車を押しながら帰宅している。昨日は印象的だった赤色のサツキツツジの花は、今は単なる風景の一部に成り下がっている。歩みは下手な芝居でもしているかのように遅い。暴力的な思考を弄びつづけたい。日常に復帰したくない。そんな欲求の表れらしい。  ごっこ遊びでも構わない。復讐心を満足させたい。 「……さて」  どうやって川真田たちを料理しよう?  百合梨の父親の靖彦が以前勤めていた工場で、従業員の一人が右手を切断する事故が起き、責任を追及された彼は退職を余儀なくされた。実兄が経営する自動車部品工場に再就職したのに伴い、一枝家の三人は街を出ていくことになった。  右手を切断。  その事実を伝えられた百合梨は、幼少時に母親の麻子から口酸っぱく聞かされた話を思い出した。 『昔、お父さんが働きはじめて間もないころに、工場に忍び込んだ子どもが機械に巻き込まれて、体が真っ二つになる事故があったの。百合梨もそんなくだらないことで死にたくないなら、工場には絶対に入らないようにね』  幼い百合梨は青ざめて震え上がった。工場には絶対に近づかないようにしよう、と固く心に誓った。靖彦も、麻子と足並みを揃えたわけではないのだろうが、職場見学に娘を誘うことはなかった。百合梨は工場がいかなる場所なのかを知らないまま十四歳になった。  娘を守りたい一心でついた、恐ろしくも優しい嘘なのだと、成長した彼女は理解している。  それでも、幼いころに植えつけられた教訓の威力は絶大だ。百合梨は中学二年生になった今でも、工場という場所に対して、謎と危険に満ちているというイメージを持ちつづけている。  その影響もあって、樹音たちへの復讐を空想しはじめてすぐに、彼女たちを工場に連れ込んで殺害する、という案が浮かんだ。使用される処刑器具はもちろん、哀れな少年の体を真っ二つに切断した機械だ。  十四歳の想像力は、成人男性ほどの直径を持つ円盤状の回転式刃、というふうに具体像を描いた。幼女の百合梨は、小さな子どもが股から頭部にかけて真っ二つにされるのを想像しただけだったが、中学二年生の百合梨はそこに血と肉片と内臓を描き足した。歪む顔と悲鳴も描き加えた。不快感が込み上げた。瞬間的には吐き気を催すほどの強烈さだったが、そこはかとなく甘美なものを孕んでもいた。  人を殺すためだけにあるような機械が自動車部品工場にあるはずがないのは、中学生にもなれば誰にでもわかる。理性的であると同時に生真面目でもある百合梨の頭は、「絵空事であることを前提に遊ぶ」という、遠くない過去に打ち出した方針も忘れて、ここでいったん空想を休止するように命じた。  しかし、樹音たちへの復讐心は健在だ。無理矢理気味にストップをかけたことで、反発し、膨らむ速度を若干ながらも速めた。  百合梨は空想を続きから再開するのではなく、想像力の枝葉を別方面へと向けて伸ばした。すなわち、もっと現実的な復讐はないかと考えた。  真っ先に浮かんだのは、トモノリの年齢不詳の無表情。  体が熱くなった。表層はたぎるように熱く、中心部はロウソクの炎のように温かく。  百合梨はおもむろにサドルに跨り、ペダルを漕ぎはじめた。百メートルも走らないうちに立ち漕ぎをしていた。  気持ちが逸る。早く、早く、あの小屋にたどり着きたい。立ち漕ぎ以上に速く走れる方法がないのがもどかしい。  早くも息が上がりはじめた。吹きつける風が、肌に浮かぶ宝石のような汗を奪いとっていく。  トモノリは今日も小屋の外にいた。  十五センチほどの高さの二つの木箱のあいだに棒状の木材を架け、木材を右足で押さえつけて鋸で挽いている。奏でられる音は一定のリズムがついている。トモノリの体の使いかたはどこか機械的だ。袖まくりをして剥き出しになった腕はそう太くないが、頼もしさを感じる。  木材が真っ二つになった。一瞬、円盤状の刃が高速回転するイメージが過ぎり、跡形もなく消え去る。  トモノリは双子の木材の端をきちっと揃え、木箱の脇に置く。額の汗を手の甲で拭って顔を上げたところで、訪問者の存在に気がついた。  表情のない顔が見つめてくる。ポジティブな感情もネガティブな感情も表れていないが、トモノリに好感を抱いている百合梨には、ネガティブな感情が表れていない事実は救いだと感じられ、少し肩の力が抜けた。  切ったばかりの木材のかたわらに鋸が横たえられる。互いが相手の出方をうかがうような二・三秒の空白を挟み、トモノリが歩み寄ってきた。自転車を道路と敷地の境目まで寄せ、スタンドを立てる。 「一枝さん。また来てくれたんだね」  トモノリは頬の汗を拭いながら言葉をかけてきた。喜怒哀楽、いずれの感情も浮かんでいないのは声も同じだ。彼女の口角をほのかな笑いがくすぐる。 「はい、来ちゃいました。困ったことがあったらいつでも話をしに来て、という意味のことをおっしゃっていたので、その言葉に甘えて」 「そっか。今の時間帯は小屋の入り口近くが日陰だから、そこに座ろう」  うなずくと、トモノリも浅くうなずき、小屋へと引き返す。百合梨はあとに続く。  彼は四十センチ四方の木箱二つを小屋の壁際に置き、「どうぞ」とすすめた。表面には木屑一つ付着しておらず、清潔だ。まず百合梨が座り、彼も腰を下ろす。  会うのがこれで二回目にしては、トモノリとの距離が近すぎる気がする。少しそわそわするが、それを除けばマイナスの感情は特にない。一方で、高揚感は今は鳴りをひそめている。これならば気負わずに話ができそうだ。 「わたし、学校でいじめられているんです」  第一声を口にするのはなかなかの勇気を要した。しかし、ひとたびしゃべり出すとスムーズに言葉を紡いでいけた。 「ほら、いるじゃないですか。不良っぽい男子とも気安く口をきいて、ファッションとメイクのことばかり話している、横柄な女子たち。リーダー格は川真田樹音という名前で――」  洗いざらい話した。いじめられるようになった経緯。今日受けた被害。激しい憎しみと復讐心を抱いたこと。  無意識に気持ちが入りすぎてしまい、描写が厚塗りになったり、話がループしたりすることもあった。しかし全体的には冷静沈着に、筋道を立てて話せた。  ひととおり話し終えると、沈黙が場を包んだ。もともと車も人も通らない寂しい道のため、完全なる無音に近い。  百合梨は若干の居心地の悪さを感じている。  トモノリは「困りごとができたら相談しに来て」と言ったけど、意気消沈しているわたしに気をつかって口にしたお世辞のようなもので、内心では迷惑なのかもしれない。あるいは、もっと軽い相談を想定していたとか。  トモノリの横顔をうかがった限り、考えごとをしているのはたしからしい。ただ、無表情なので腹の中が全く予想できず、それが不安を煽る。 「君は、今もその子たちを憎んでいるの? 復讐したいと思っているの?」  トモノリがおもむろに百合梨のほうを向いたかと思うと、そう問うてきた。  想いを受け止めてくれた喜びに、百合梨の頬は自然と緩んだ。ほとんど反射的に「はい」と答えようとしたが、はっとして思い留まる。現状、憎しみも復讐心も、いっときよりも大幅に減退していることに気がついたのだ。おそらくは、トモノリに事情を話し、想いを吐き出したおかげで。  あくまでも弱まっただけで、消滅したわけではない。ただ、うなずくのは返答としては誤りだと感じるくらいに、二つの感情は勢力を弱めた。  トモノリは自らの靴先に視線を落として黙り込んでいる。百合梨が示した無反応という反応を、彼はどう捉えたのだろう? 提示された乏しい情報からでは、推測するのは難しい。  ただ、百合梨に返答を求めているのは伝わってくる。急かさないから、嘘のない、誠意ある言葉が欲しい、と。  この機会をありがたく活用して、自分の気持ちを点検してみる。  付き合いは長いが、愛着はさほどでもないぬいぐるみを壊されただけで、あんなにも強い憎しみを抱いたのは異常だ。自分でもそう思う。  一方で、これまでの樹音たちの加害行為によって得た、諸々の負の感情が蓄積した結果の憎悪だと解釈すれば、復讐を願うだけの激しさにも納得がいく。  しかし、今になって振り返れば、川真田樹音に対する憎悪は、復讐心へと発展した瞬間が最高点であって、平均値はそう高くないのかな、とも思う。殺したいほど憎い、復讐を実行せずにはいられない熱度に達していた時間は、ごく短かった。  そもそも百合梨は暴力が好きではない。川真田たちからいじめられるようになってからは、広い意味での荒っぽい行為に対する嫌悪感はいっそう増した。  復讐せずにはいられないほどの憎悪は、いっときの気の迷い。そう解釈するのが妥当だろう。  川真田に対する憎悪は偽物ではない、と思う。ただ、それを復讐という方法で晴らさずにはいられないほどの激しい感情ではない。  じゃあ、わたしはなにを望んでいるの?  答えはあっさりと胸に浮上した。なおかつ、唯一の正答だと瞬間的に確信できた。  平穏だ。  一枝百合梨が欲しているのは、平穏無事な学校生活。樹音たちからいつなにをされるのか、言われるのかと怯えることなく過ごせる、平穏な日常なのだ。  それは、百合梨が川真田樹音たちからいじめを受けるようになって以来、無縁の環境だ。  転校する以前は、それを手にしていた。  友だちは一人もいなかった。欲した、にもかかわらず。得るために自分なりに試行錯誤した、にもかかわらず。  ただ、少なくとも平穏ではあった。  クラスメイトは誰も、百合梨を勝手に死んだことにして、花瓶の花を机には置かなかった。授業中に大声で百合梨の悪口を言わなかった。足を引っかけて転ばせようとはしなかった。スクールバッグにつけた小さなクマのぬいぐるみは、誰からもちょっかいをかけられることなく、バッグに結びつけられて平和を享受していた。  憎しみはある。復讐したい気持ちもある。しかし、それらの感情を誰にもぶつけることなく、平穏に生きていけるならそれに越したことはない。それが本心なのだ。  目頭が熱い。  彼に伝えないと。  彼にはぜひとも知っておいてほしい。 「トモノリさん、とお呼びしてもいいですよね。わたしは――」  百合梨は考えを率直に、包み隠さずに話した。 「なるほど。君の気持ちはよくわかったよ」  感情がこもった語りを最後まで聞き届けたトモノリは、彼らしい穏やかな声でそう言って小さくうなずいた。 「話をまとめると、君はいじめの加害者たちを憎んでいるし、復讐したいと思ってもいるけど、自らの手で実行せずにはいられないほど強い欲求ではない。なぜなら、暴力的なことに対して嫌悪感を抱いているからであると同時に、平穏な日常を欲する気持ちのほうがより強いから。その解釈で合っているかな」  百合梨は唇をきゅっと結び、首を縦に振った。  トモノリは彼女から視線を外した。沈思黙考しているらしい横顔を見せていたが、 「少し待っていて」  おもむろに腰を上げてそう告げ、小屋の中に入る。一分もしないうちに戻ってきた。  その手には鉈が握りしめられている。  トモノリ自身から殺気立ったオーラが発せられているわけではない。それにもかかわらず、百合梨は鳥肌が立った。呼吸が止まりそうな緊張感が肉体を押しつぶしてくる。禍々しい鈍色の刃から冷気が立ち昇り、彼の手元だけ気温が低下しているように感じられる。凶器から一瞬たりとも目が離せない。  手にしているものを、百合梨の目の前の地面に音もなく置き、トモノリはもとの木箱に腰を下ろした。 「手にとってごらん。そして、想像してみるといい」 「想像?」 「君自身がその武器を使って、君をいじめていた子たちを殺す場面を。空想の中で人を殺すのは罪ではないから、存分に想像するといい。さあ、やってみて」  驚きと違和感が同時に胸を襲った。  百合梨は暴力行為に嫌悪感を持っている。少なくとも現時点では、暴力的な手段で樹音たちに復讐する意思はない。  その二つについては、トモノリにちゃんと伝えた。それなのに、なぜ、彼はそんな提案をしたのだろう?  言われたとおりに試してみれば謎が解ける気もして、百合梨は鉈の柄を掴む。  持ち上げてみて、その重量に驚いた。持つのがやっとというほどではないにせよ、ずっしりと重い。中学二年生の女子としては平均的な百合梨の腕力と体力では、長時間振るいつづけるのも難しそうだ。  凶器が予想以上に重い。ただそれだけの事実で、百合梨は人間を殺すのがいかに困難なのかを痛感させられた。  百合梨の復讐の対象は複数人だ。妥協して、諸悪の根源である川真田樹音一人に絞ったとしても、願望を成就させられるかは怪しい。当たり前だが、誰だって殺されたくない。逃げるし、抵抗するし、立ち向かってくる。体格、身体能力、ともに樹音のほうが上だから、なんらかの武器を手に一対一で戦ったとすれば、樹音が勝利を収める確率が高い。  寝込みを襲うなど、劣勢を覆す方策がないわけではない。しかし百合梨は、これ以上想像を推し進める意欲が湧かなかった。実質的に、鉈の重さを体感した時点で決着はついていた。 「やっぱり馬鹿げていますよね、暴力なんて」  どこか吹っ切れたような、爽やかな苦笑が百合梨の満面を彩る。上体を乗り出して手を伸ばし、トモノリの目の前の地面に鉈を置く。その体勢のまま彼を見上げた。  驚きが胸を襲った。  トモノリの顔に、どこか不服そうな、もどかしそうな、なにかを我慢しているような、そんな表情が浮かんでいるのだ。  百合梨からの視線に気がついたとたん、トモノリはスウィッチを切り替えたように無表情に戻った。鉈に一瞥をくれてから百合梨と視線を合わせ、 「そうだね。君の言うとおりだよ」  無表情なのにどこか寂しそうだった。  自転車を漕ぎながらだと思案に集中できない。そう考えて押しながら歩いてみたが、大同小異だった。  再びサドルに跨ってペダルを漕ぐ。しゃにむに両脚を動かしたので、気がつくと我が家が目の前にあった。  悩みごとがあるときはしばしばそうするように、制服を脱がずにベッドに仰向けに横たわり、物思いに沈む。  嗅ぎ慣れたシーツの匂い。見慣れたクリーム色の天井。聞き覚えのある犬の吠え声。それらの情報全てが、集中力を高める後押しをする。  復讐の実行を口頭で否定したにもかかわらず、トモノリがわざわざ鉈を持ち出した意味は?  百合梨の意識はしばし、不明瞭な景色が広がる空間内をさ迷った。そうする中で、でたらめに線を引いていくうちに一枚の絵が浮かび上がってくるように、やがて答えらしきものがおぼろげに見えてきた。彼女はそれの解像度を上げることに専心した。  やがて、トモノリは百合梨の狂気的で暴力的な側面が見たかったのではないか、という可能性を無視できなくなった。  つまり彼は、狂気や暴力を好む性質を内に秘めている……? 「暴力なんて馬鹿げている」という発言に対して寂しそうな表情を見せたのは、欲していたものと接することが叶わなかったうえに、趣味嗜好を真っ向から否定されたから。そう解釈すれば辻褄は合う。  一応の辻褄は合うが――果たして、真実なのか。  その謎について考えてみたものの、答えは遠く、気力は早々に萎えてしまった。  真実か否かは定かではないが、仮に推理が正しかったとすれば――。 「期待に応えられなくて、申し訳なかったな……」 「暴力は馬鹿げている」と結論する前に、そのことを察するべきだった。暴力は嫌悪の対象であり、復讐の意思は現時点ではない。その結論は不動なのだとしても、トモノリの内なる期待に沿って会話を展開させるべきだった。きっと、それが上手な人付き合いというものだから。  同時に、そんな人間と二人きりで過ごしたのは危うかったな、とも思う。  すっかり忘れていたが、トモノリは重罪の前科があると噂されている人物だ。小屋の中には、鉈以外にも凶器になり得る道具が多数保管されていると推察される。小屋の周囲には逃げ込める場所がないし、助けてくれる人間や車は通らない。客観的に見れば、無謀以外のなにものでもなかった。  逆にいえば、無謀だとも危険だとも認識していなかったからこそ、百合梨はトモノリが暮らす小屋まで自転車を走らせた。樹音たちにいじめられている事実を打ち明けた。ようするに、彼のことを信頼していた。  二人きりでいるあいだ、彼女はトモノリにネガティブな感情は抱かなかった。小屋から鉈を持ち出し、手にとって想像してみろと要求されたときは驚いたが、不可抗力的な束の間の心の揺らぎでしかなかった。  二度の交流を振り返った限り、トモノリは善良な男性だ。めったなことでは漣すら立たない無表情など、変人のレッテルを貼られてもおかしくない要素を持った人間なのは間違いないにせよ。  トモノリのポジティブな一面を直視すればするほど、暴力と狂気を愛する心を内に秘めているという推測は間違っている気がしてくる。それとも、狂気と善性は両立し得るものなのだろうか?  トモノリが暴力と狂気に接することを望んでいるのだとしたら、百合梨は期待に応えられそうにない。  もっとも、公言を憚られるような性癖を抱えていること、それ自体に関してはなんとも思わない。  変人? 狂人? だから、どうしたというの? トモノリはもともと変人で狂人だと噂されていたでしょう? 「……知りたい」  彼にまつわる謎を少しでも解き明かしたい。彼のことをもっと知りたい。  百合梨はおもむろに体を起こし、遅まきながら制服を脱ぎはじめる。  明日もトモノリに会いに行こう。なにがあっても、絶対に。  大きくめくれた制服のスカートから垣間見えた黒い下着が脳裏から離れない。膨らんだ股間を意識し、隠蔽するのに神経をすり減らしたせいで、森嶋隼人は普段の二倍も三倍も疲弊してしまった。  帰宅し、南向きの自室のドアを内側から施錠して、環境が整った。黒いショーツに包まれた尻に自分自身を擦りつけたり、頬ずりをしたりする映像に合わせて、現実の自分自身に規則的な摩擦を加えているうちに、あっという間に果てた。 「……ふう」  処理するべきものをティッシュで処理し、まとうべき衣類をまとう。宿題を夕食までに済ませたいし、推している女性配信者のSNSをチェックしておきたい。  やりたいこと、やるべきことは複数思い浮かぶ。うらはらに、体は動かない。物憂かった。自慰行為直後に襲われる特有の症状とはまた違った、物憂さ。  漆黒のショーツに替わって、ショーツを穿いている張本人の顔を脳内スクリーンに映し出す。  お世辞にも美人とはいえない。メイクをしていないのはまあ許容できるとしても、常に暗鬱とした表情をたたえているのは、陰気くさくていかがなものか。  後者こそが、一枝百合梨が川真田樹音たちからいじめられている最大の要因だと、隼人は分析している。記憶が正しいならば、百合梨はいじめられる前から暗い顔をしている時間が長かった。  暗さという要素は、明るい世界で呼吸している人間を無性にいらつかせるものだと隼人は知っている。自身が太陽の国の住人だからではなく、暗く淀んだ世界に生きている人間だからこそ。闇は闇でも、夜目すら効かない暗黒ではなく、光が降り注ぐ領域に隣接した薄暗がりで生きているからこそ。  百合梨は樹音などと比べれば、女性的な魅力という点では大きく劣っている。中学二年生、思春期真っ只中の男子にとって、このマイナスは大きい。それをものともせずに隼人の心を捉えて放さない要因は? 「……やれやれ」  ため息をつき、机の上を片づけはじめる。  手持無沙汰なとき、作業に取り組む集中力を取り戻したいとき、まとまらない考えを少しでも整理したいとき。あらゆる場面で己を救済するために、隼人は机上の混沌に手をつける。そのためだけに、わざと散らかしっぱなしにしているといっても過言ではない。  転校生は女子と聞き、美貌の少女を前のめりに期待したが、裏切られて落胆した。それは今でも覚えている。「ゆり」でも「りり」でもなく、「ゆりり」という名前なのがふざけているな、と思った記憶も残っている。  ただ、それらの感情や感想の中に、恋心の種は含まれていなかった。  美人ではないが好みの顔、というわけではない。器量がよくないからこそ惹かれたわけでもない。考えれば考えるほど、なぜ魅了されたのか、首が傾く角度は大きくなる。  森嶋隼人は無自覚なサディストで、だからこそ樹音たちからいじめられる姿に興奮し、百合梨に惹かれた?  我ながら興味深い説ではあったが、すぐさま頭を振る。その説が正しいならば、昨日百合梨がプリントを撒き散らしてしまったとき、拾うのを手伝うのではなく、踏みにじり、蹴飛ばしていたはずだ。  プリントを拾うなどというちっぽけな善行ではなくて、樹音たちの加害行為にストップをかけたい。一枝百合梨を救済したい。  ただ、川真田樹音が立ちはだかる。実践してみる前から、要請は聞き入れられないだろうと想像がつく。実際に要請したとすれば、素直にやめるどころか、隼人を新たなるいじめの対象に加えるのは目に見えている。  あの精根が捻じ曲がった獰悪な少女は、「敵の味方は敵」方式で、攻撃と排斥の対象を際限なく拡大していく傾向にある。小学六年生の一年間、クラスをともにした限りではそうだったし、それは今も不変だろう。今年度いっぱい樹音たちから虐待される覚悟を背負ってまで百合梨に接近する勇気は、残念ながら彼にはない。  川真田樹音グループの一員である神宮寺玲奈は、隼人の幼馴染だ。玲奈に要請し、樹音に働きかけてもらうという手がないでもないが、彼と玲奈の仲は以前のように親密ではない。  手詰まりだった。  物理的に圧迫してくるような閉塞感に、片づけに励む手が止まる。自然とため息がこぼれる。 「全く……」  俺はどうして、一枝さんを好きになったんだ? よりによって、クラス一の権力者からいじめの対象にされている女の子なんかを。好きになったのが一枝さん以外の女子だったら、毎日こんなにも苦しくてもどかしい思いはしなくても済んだのに。
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