サツキツツジの季節に

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 トモノリは今日も屋外で作業していた。  地べたに直に置かれた真新しい木製の台を、触診するようにあちこち手で触れている。台上に小さなものが置かれていると思ったら、砂時計。出会った日に見かけたものだ。 「トモノリさん!」  路傍で自転車のスタンドを立て、声を張った。  振り向き、軽く手を挙げたトモノリは、どうやら声をかけられる前から百合梨の到着に気がついていたらしい雰囲気だ。彼のもとへ走った。 「こんにちは。その机? 台? なにに使うんですか?」 「作業台のつもりだよ。立ったまま作業をするときに使おうかと思ってる」  トモノリは手にしていたものを台上に置いた。表面に規則的に刻まれた細かな凹凸から、やすりだとわかった。やすりのすぐ横、砂時計の砂は落ち切っている。 「作業って、どんなことを? なにかを作るんですか?」 「そうだね。一言で言えば工作だ」 「具体的になにを作る予定だとか、ありますか」 「いろいろとしか言いようがないね。インスピレーションが湧いたときに、手持ちの工具と資材と相談して、僕にも作れそうなものを作っているから。この作業台だって、必要に駆られたから作ったわけじゃないしね」  ありのままの事実を語っただけなのかもしれないが、本心を隠しているようにも思えて、ほんの少し心が寂しくなる。同時に、トモノリの素性を知りたい気持ちが高まった。 「今日も来たということは、また学校で嫌な目に遭ったの?」  抑揚のない声での問いかけに、百合梨は口元に微かな苦笑をにじませ、 「遭ったけど、ダメージはあまり受けていないかな。昨日トモノリさんに思いを打ち明けて、すっきりしたおかげだと思います。ぬいぐるみは壊されちゃったから、壊されて凹むようなものももうないし」  トモノリの唇が動く気配がした。百合梨はそれを制するように、 「今日はトモノリさんのことを知りたくて、ここまで来たんです。トモノリさんってなにもかも謎だから、少しでも知れればいいなって思って。仕事はなにをしているのかとか、どうしてこの小屋に住んでいるのかとか。訊きたいことは本当にたくさんあって」  百合梨は目にかかった前髪を指でどかし、トモノリの真っ黒な瞳を見つめる。  あなたのことが知りたい。抵抗感なくその意思を伝えられた。伝えたあとで、相手の目を深く見つめることだってできている。しゃべっているあいだ、気恥ずかしさのようなものが身内の深い場所で蠢いていたが、皮膚を突き破って顔を出すことはなかった。 「とりあえず、座ろうか」  昨日座るのに利用した木箱が、昨日と同じ場所に置かれたままになっている。百合梨は俊敏に動き、昨日トモノリが座ったほうの箱に腰を下ろした。その隣に、数秒遅れて彼も腰かける。 「一枝さんは多分気がついていると思うけど、僕はあまり自分のことを話すのが好きではないし、得意でもなくて」 「寡黙な印象はありましたけど、そうだったんですね。どうしてですか?」 「それを説明するのも、自分について話すのと同じだから、あまり得意ではないけど」  口角に苦笑がにじみ、一瞬で引っ込む。 「僕は人間が苦手で、嫌いで、ずっと孤独に生きてきたからね。話す内容を問わず、口頭でコミュニケーションをとることに苦手意識があって、中でも自分のことを話すのは特に抵抗がある、という感じかな」 「でも、わたしとは普通に話せていますよね」 「そうだね。多分、君を広い意味で同類だと見なしているからじゃないかな」 「同類?」 「君はクラスメイトから、自転車のタイヤを故意にパンクさせられただろう。ようするに被害者だ。自分と同じ弱い人間が相手であれば、心をさらけ出しても支障はないと考えたんじゃないかな。君に失礼な発言になってしまうけど」 「失礼じゃないですよ。全然失礼なんかじゃない」  むしろ共通項を持てたことが嬉しい。失礼かもしれないと気づかってくれる優しさ、それも嬉しい。  もっともっと、トモノリのことが知りたい。トモノリと話をして、訊き出したいし、彼のほうからも話してほしい。 「じゃあ、昨日わたしがいじめのことを話したから、そのお礼として今日はトモノリさんが話す、というのはだめですか? ほら、わたし、言いにくいことを思い切って言ったじゃないですか。特定の個人が憎らしいとか、復讐したいとか。……はっきりとは口にしなかったけど、殺したいとか。わたしが勝手に語っただけだから、図々しいお願いかもしれないけど」 「なるほどね」  トモノリは深く息を吐いた。小屋の外壁に背中を預けて腕組みをしたが、すぐにほどき、十秒もしないうちに背中も離す。一人合点したようにうなずき、百合梨と目を合わせる。 「君の意見が正しいと思う。好き好んで孤独を生きてきた人間だけど、そんな僕に好意を持って近づいてくれたんだから、少しでもお返しをしないといけない」  そう込み入った話ではないが、他人に身の上話をまともにした経験がないので、まとまりのない、冗長な語りになってしまうかもしれない。そう断ったうえで、トモノリは静かに話しはじめた。  さっき話したように、僕は他人と口頭でコミュニケーションをとることに苦手意識を持っている。わたしとは円滑にしゃべれているじゃないかと、さっき君は指摘したけど、不思議と普通にしゃべれる人間も、数は限られているけどいるんだよ。  苦手意識は幼いころからあった。一般的に、人見知りをする幼児でも、人生経験を積んでいくうちに症状は和らぎ、たいていはいずれ完治する。だけど僕は、小学生になっても、中学校になっても、人と満足にしゃべれないままだった。コミュニケーションをとりたいけど上手くいかないというよりも、コミュニケーションをとりたいという意欲自体が湧かないんだ。  人が嫌いで、苦手で、極力接したくなかったし、しゃべりたくなかった。顔も見たくないとさえ思っていた。死ぬまでのあいだずっと、絶海の孤島でたった一人、自給自足の生活を送ることができれば、どんなに生きるのが楽しいだろう、楽になるだろうって、毎日のように想いを馳せていた。そんなことは絶対に無理だとわかっていたけど、妄想するのをやめられなかった。  そういう子どもだったから、当然いじめられた。反抗も告げ口もしない、いじめる側からすれば好都合な人間だったから、受けた被害は甚大だった。昨日君が話してくれたよりももっと酷いことを何度もされたよ。  もともと人と関わり合いたくないと考えているから、必然に、学校に行くのをやめて部屋にひきこもった。奇しくも今の君と同じ、中学二年生のときだ。  親は、どう思っていたんだろうね。今となってはわからないけど、本人の努力次第で改善できると楽観していたんじゃないかな。必要なのは、本人のほんの少しの勇気と努力だけだって。僕ががんばりさえすれば、また学校に通えるようになる日が来るって、心から信じていたんじゃないかな。  僕の推測が正しいのだとすれば、両親は僕という人間を全く理解していないことになる。だって、その場しのぎ的に感情を抑え込んで、表面的に普通の人間らしく振る舞ったところで、いずれ綻びが生じるのは目に見えているだろう。人としゃべりたくない、関わり合いたくない気持ちは、手つかずのまま健在なわけだからね。  僕は両親の楽観的な励ましの言葉には耳を貸さなかった。あっという間に義務教育期間が終わった。  法的に働ける年齢になったのを境に、僕の両親の態度は硬化した。彼らは「学校に行かないなら働け」と毎日のように声を荒らげたけど、それは無謀な要請だ。だって働くというのは、学校生活以上に他者とのコミュニケーションが要求される。量も、質も。学校なら、黙って席に着いて授業を受けていれば、せいぜいいじめられるくらいで済むけど、職場でそれをやったら、給料はもらえないどころか即刻クビだ。  総合的に考えて、ひきこもっているほうがましだと判断して、僕は現状維持を選んだ。不登校のひきこもりから、ニートのひきこもりにランクダウンしたわけだね。  罪悪感がなかったわけじゃないよ。僕は対人コミュニケーション能力に大いに問題を抱えているけど、明らかな欠陥はそれくらいのもの。善悪を判断する能力、遵法精神、真っ当に生きたい願望、いずれも持ち合わせている。働かなくてごめん、迷惑をかけてごめん、社会に貢献できなくてごめん。そんな気持ちは常に持ちつづけていた。  でも、「そう思うのなら人前に出ろ」と迫られたとしても、絶対にその道は選ばないと思う。ひきこもりのニートでいる罪悪感よりも、他者とコミュニケーションをとりたくない思いのほうが強いからね。  圧倒的にそちらが優勢だから、試しに外に出てみようか、働いてみようか、という気持ちにすらならない。一歩も踏み出さないまま時間ばかりが過ぎていった。  一人でいる時間が長いと、どうしても考えごとをする時間が長くなる。ひきこもり時代の僕は、常に思索を巡らせているといっても過言ではなかった。  ひきこもったばかりのころは、どうすればこの厄介な心を説き伏せて社会に出られるのか、そればかり考えていた。  だけど何千回、いや何万回、ありとあらゆる角度から検討してみても、これという道を見つけられない。  懊悩と煩悶をくり返すうちに、困難を乗り越えてまで生きていく意味はあるのだろうか、という疑問が湧いた。ふと菓子を食べたくなったから近所のコンビニまで買いに行くように、死のうかな、と考えた。僕のせいで家計は苦しくなりつつあったみたいだし、ちょうどいい頃合いだと思ってね。二十三歳の誕生日を迎える直前の決意だった。  ただ、当たり前だけど死ぬのは怖い。未練も後悔もないように思えても、いざ実行するとなると、次から次へと引き留める感情が湧いてくる。  死にたくても死ねずにいるうちに、予想外の出来事が起きた。僕の両親が交通事故に遭って亡くなったんだ。これによって、僕を精神的心理的に圧迫する人間がいなくなると同時に、当分は働かなくても済むだけの金が転がり込んできた。  親不孝極まる話ではあるけど、正直、助かったと思ったよ。両親には迷惑をかけっぱなしだったから、形としては最悪だけど、これ以上迷惑をかけずに済むことに安堵したんだ。  冷酷な人間だと思った? 正直、あまり自覚はないんだけど、根本的に人と違うところがあるのかもしれないね、僕という人間は。  僥倖に甘えて、しばらくはひきこもり生活を続けることに決めたけど、そうはいっても遺産の額はたかが知れている。それに、この厄介な病を抱えたまま生きる意味を見出せないことに変わりはない。僕は今年でもう三十歳で、未来もないしね。だから、預金残高が尽き次第自殺することにして、それまでは好きなことをして生きようと決めたんだ。  僕は母方の祖父が昔使っていた小屋――つまり、今僕たちの背後に建っている小屋を、保管されていた工具ごと譲ってもらって、そこで暮らしはじめた。  今までは工作なんてしたことがなかったけど、暇つぶしにやってみるとなかなか楽しくて、今では立派な趣味の一つという感じかな。机とか椅子とか棚とか、日常でも使えそうなものを作るんだ。一人でできる作業は好きだよ。誰かのためだとか、後世に残そうとかではなくて、ただ好きだから作っている。どこまでも、どうしようもなく自分本位なんだよ、僕という人間は。  この小屋で生活を始めて以来、死ぬのが怖いとは思ったことは一度もないよ。なんとなく寂しい気はするけどね。  話し終わって一分が過ぎても、百合梨は言葉を発せなかった。  明かされたトモノリの履歴は、あまりにも壮絶だった。フィクションを凌駕しているという印象を持った。  前科があると噂されていること。小屋で暮らしていること。感情表現が乏しいこと。  風変わりな人物だという認識は早い段階からあったが、まさかそんなにも深い闇を抱えているなんて。交流を重ねるうちに、光をもたらす存在としても意識するようになっただけに、なおさら衝撃的だった。  友だちがほしいのにできず、樹音たちからいじめられ、家族付き合いにもいらいらさせられる。  地球上を広く見渡しても指折りの不幸な人間に違いないと、百合梨はこれまで自認してきた。  しかし、彼女よりも確実に不幸な人間が、今目の前にいる。  なにせ、深い傷を負い、重い過去を背負い、自殺を考えているというのだ。それも、すでに決意を固めているというのだ。  自ら死を選び、このままならない世界から永別する――。  そんな解決策、友だちとは無縁の人生を受け、次第に苛烈になりゆくいじめを受けている百合梨でも、頭の隅で漠然と検討してみたことすらない。 「君を困らせてしまったようだね。やはり僕は普通から外れた変わり者らしい」  苦笑が似合いそうな言葉を、トモノリは真顔で言ってのけた。 「僕が死ぬことに関して、君が心を痛める必要はないよ。君に対しては、こんな僕の話を聞いてくれてありがとうっていう、感謝の気持ちしかないから」  ひと呼吸を置き、言葉を追加する。 「一枝さんはもう、この場所には来ないほうがいい」 「……嫌。そんなのは、嫌」  百合梨は弱々しく頭を振った。トモノリの双眸が少し面積を広げた。 「だって、ここに来てはいけないことになったら、居場所がなくなっちゃう……」  それに続けて、早口気味に説明する。  樹音たちが女王様気どりで君臨する教室は、世界一居心地が悪い空間だ。自宅も安息できる場所とは言いがたい。仕事の愚痴ばかり言う父親。諦めきった母親。どちらとも好き好んでいっしょにいたいとは思わない。  身を置いていて一番落ち着くのは、小屋の前の作業空間。過ごしていて一番楽しい相手は、トモノリだ。  だから、来られなくなったら困る。近い将来に死ぬ予定のトモノリは困らないかもしれないが、百合梨は困る。確実に困ってしまう。  居場所を奪わないでほしい。 「だから、トモノリ、また明日もあなたに会いに来てもいい? ご両親の遺産、まだ当分はあるよね? 自殺の意思をわたしに明かしたからといって、明日死ぬわけじゃないよね?」  まるでおもちゃを買ってくれとせがむ幼児だ。そんな否定的な想いを抱きながらも、口からあふれ出す懇願の言葉を抑えられない。きっと泣き出しそうな、媚びたような顔をしているのだろう。そう思うと頬が熱くなったが、それでも一心にトモノリの目を見つめる。  彼の表情に変化らしい変化は観測できない。しかし、まばたきをする回数を減らして話を聞いてくれている。  居場所を失いたくないのか。トモノリに自殺してほしくないのか。あるいは、その両方か。  たしかなのは、これから先もずっとずっと、トモノリと交流する機会を持ちたい、という想い。  想いを吐き出し終えると、沈黙が二人を包んだ。  百合梨は気恥ずかしかった。同時に、不安でもある。「会いに来てもいい?」の問いかけに、すぐには返事をしない。つまり、「もうここには来ないほうがいい」というトモノリの考えは変わらない……? 「あの、トモノリ……さん」  二つの感情に耐えかねて、百合梨は予定になかった言葉を口にしていた。 「さっき、つい呼び捨てにしちゃったんですけど、これからはそちらの呼びかたでもいいですか? 敬語だって直していきたいし。わたしたち、性別も年齢も生い立ちも全然違うけど、でも、友だちですよね? だから、そのくらいの馴れ馴れしさは許されるのかな、なんて思ったんだけど」  言葉は徐々に薄れ、消えた。  返答はない。たしかに唐突ではあるが、返答するのに時間がかからないはず。気恥ずかしさは消えたが、不安は据え置きだ。のみならず、次第に高まっていく。  我慢しきれなくなり、なんでもいいからしゃべろうとした。そのタイミングでトモノリはやっと口を開いた。 「呼びかたと言葉づかいの件は、君が望むとおりでいいよ。でも、友だちという認識はどうなんだろうね」 「えっ?」 「君を責めているんじゃなくて、僕が君の友だちに値するかは疑わしい、という意味だよ。でも――そうだね。君がそう思う分には自由だから、僕は余計なことを言ってしまったかな。ごめんね。今の発言は忘れて」  そのあと、思い出したように、「明日以降もここに来てももちろん構わないよ」と付け足した。それで話はおしまいだった。  衝撃だった。  寂しい通りへと水色の自転車が消えたのを確認した時点で、「もしかして」という思いが湧いた。しかしまさか、それから十分もしないうちに、トモノリと肩を並べて会話する一枝百合梨を目撃することになるとは。  無謀な尾行だという自覚はあった。なにせ隼人の通学手段は徒歩で、百合梨は自転車。彼女の後姿を視界に捉えるチャンスがあるのは、あとをつけはじめた直後くらい。ターゲットがことごとく赤信号に引っかかる幸運に恵まれたとしても、二・三分後には置き去りにされてしまうだろう。  それでも隼人は計画を貫くことにした。神宮寺玲奈の悪意によってスカートの内側がさらけ出された一件は、彼を行動する人へと変身させたのだ。  百合梨がトモノリの住まう小屋が建つ道を通ったのは、単に自宅までの近道だからだろうと考えた。彼女は転校生だ。トモノリの存在を知らないか、この町に長く住んでいる人間ほどトモノリに拒絶感を覚えていないからの選択なのだろう、と。  ところが、小屋の前でなにやら話し込んでいる二人を目撃した。反射的に、近くにあった草むらに身を隠した。  濃密な植物の匂いを嗅ぎながら、二人から目が離せなかった。心音が邪魔だった。目にする機会はめったにないが、噂にはよく聞く人物が活動している。それだけでも驚きなのに、想いを寄せる人と会話を交わしているなんて。やむを得ない理由なり事情なりがあって不承不承言葉を交わしているのではなく、ある種の信頼関係で結びつけられた者同士の会話に見えて、驚愕が冷めやらないうちから動揺してしまった。  衝撃と驚愕と動揺の波状攻撃を食らったダメージは大きく、二人の様子を遠目からうかがうだけの時間が流れた。  しかし、やがて、会話の詳細を把握したい欲求を無視できなくなった。  草むらの中からでは二人の声は聞こえない。さりとて、自分から音源に近づく勇気はない。草むらから出た瞬間、たとえ葉擦れの音一つ立てなかったとしても、二つの首が同時に回って隼人を直視しそうな、そんな恐怖感があった。  したがって、表情や身振り手振り、唇の動きなどから会話内容を推測するしかないのだが、木製の台が観察の邪魔をする。どちらの体も半分ほど隠れ、頭の位置が少し動いただけで表情が見えなくなる――そんな絶妙な位置に台は置かれているのだ。  草むらは道に沿って数メートルにわたり続いている。その範囲内を移動しようかとも考えたが、動くことで盗み見がばれるかもしれない、という恐怖をどうしても消せない。もどかしい思いを噛みしめ、己の臆病さを呪いながら、その場で観察を継続するしかなかった。  草の中に身を置いてから、一部始終を見届ける覚悟を決めた今に至るまで、二人は実に仲睦まじそうにしている。トモノリはほぼ一貫して無表情だし、百合梨は時折笑みを見せながらも表情はどこか硬い。それでも仲睦まじそうだと感じる。  百合梨に想いを寄せる隼人としては、気に食わない。いらいらしてくる。嫉妬の念がむらむらと湧く。これ以上言葉を交わすのはやめろ、と叫びたくなる。できるものなら、トモノリに猛然と駆け寄って横面を殴り飛ばしてやりたい。 「……それにしても」  二人はどのように知り合い、放課後のひとときを共有する関係になったのだろう?  片やいじめられっ子で、片や周囲から孤立した変人。陰があるという部分では重なるが、共通点はそれくらい。少々頭を捻ったところで真実は露わにならない。  なぜもう少し早く尾行を始めなかったんだ? 後の祭りだとわかってはいるが、自分の行動の遅さが恨めしくてならない。  やがて、トモノリばかりが唇を動かすようになった。耳を傾ける百合梨の表情は真剣だ。ほとんど相槌を打たず、話し手ではなく前方の景色を見つめている。  百合梨は無理矢理話に付き合わされているのではなく、自ら望んで聞き手に回っているらしい様子だ。ことによると、彼女のほうからトモノリに話をするように要求したのかもしれない。  二人は恋仲なのではないか、という疑惑が隼人の胸に浮上した。  隼人と百合梨の関係は現状、ただのクラスメイトの域に留まっている。樹音という鬼の目が届かない場所で、百合梨が落としたプリントの束を拾うのを手伝ったこと。あれがもっとも近づいた瞬間だった。  それにもかかわらず、恋人を奪われたかのように隼人は感じている。  関係がさらに深まれば、二人は小屋に閉じこもり、官能的な肉体的交流に汗を流す。きっとそうだ。そうに決まっている。  腹が立った。嫉妬した。憎しみが湧いた。  隼人はおもむろに制服のズボンのファスナーを下ろすと、すでになかば膨張しているものを引っ張り出し、右手でしごきはじめた。  観察した限り、一枝さんがトモノリとの対話を望んでいるのは事実らしい。でも、対話の果てに待ち受けている未来が、一枝さんが望むものかはわからないじゃないか。一枝さんは曇りのない動機からトモノリと交流しているのだとしても、トモノリも同じとは限らない。というよりも、トモノリはトモノリなのだから、なんらかの邪な企みを胸に秘めている可能性が高い。いや、絶対にそうだ。そうに決まっている。  なんとかしないと。  取り返しがつかない事態に陥る前に、一枝さんを救わないと。  二人に密接な繋がりがあるのを承知しているのは、現時点では、本人を除けば俺一人だけ。  どうにかできるのは俺しかいない。俺がどうにかするしかない。どうにかしなければ。どうにかしたい!  自己暗示をかけるように胸の内で呟きながら、隼人は己の一部を愚直に刺激しつづける。浅ましい行為は二人が対話を終えるまで続いた。  百合梨の入浴時間はその日の体調や気分によって変動する。  転校してからは長い日が多くなった。川真田樹音たちから加害行為を受けるようになってからは、さらに長くなった。トモノリと出会ってからは、長風呂が常態化した。湯船に浸かる時間は、転校前と比べると倍以上に膨らんでいた。  幼少のころからずっと愛用している、シャンプーの青紫色のボトルをぼんやりと眺めながら、湯船に肩まで身を沈めた百合梨が思うのは、今日も彼のこと。  トモノリから「僕たちは友だちだよ」と言ってもらえなかったのは、正直言ってショックだった。  わたしにとって未知の関係性である「友だち」は、宣言することで成立するものでも、成立すれば宣言しなければならないものでもない。友だちと呼べる関係の人間を作ったことがないわたしでも、それくらいわかる。経験しないと呑み込めない理屈なんかじゃなくて、一般常識なのだから。  でも、トモノリがわたしたちの関係を友だちだと認めなかったのは、ちゃんとした理由がある気がする。  推測が正しいのだとすると、なにが理由なのだろう。年齢差? 付き合いの浅さ? トモノリは、自分は普通からは外れた人間だと考えているようだけど、だからわたしと釣り合わないと考えた?  ……わからない。現時点で断言できることはないに等しい。  灰色のもやもやを払拭できない一方で、トモノリとの仲を進展させることに関して、百合梨は楽観していた。交流を重ねれば重ねるほど関係を深めていけそうだ、という手応えを抱いていた。  二人で過ごしているあいだ、場はおおむね健康的で明るい雰囲気に包まれていた。  それにトモノリは、会話の最後の最後で「明日以降も来てくれて構わないよ」と言ってくれた。  彼は百合梨に対して、広い意味での好意を持ってくれている。その点だけは信じてもいい、と思う。 「君はこの場所には来ないほうがいい」という発言もあったが、それは百合梨を気づかう気持ちが生んだもの。互いに相手とコミュニケーションをとりたい意思があるのだから、これからもその機会はきっと巡ってくるはずだ。  自分の意に沿わないリアクションを示されても、その場限りの小さなショックを受けるだけで、その人物の人格自体に愛想を尽かせることはない。「この人と仲よくなりたい」という欲求は萎えない。  そんな人に出会ったのは、トモノリが人生で初めてだ。  彼のような人物こそ、友だちになるのにふさわしい。  彼さえいれば、無理に他の友だちを作る必要なんてない。質よりも量を選ぶなんて、馬鹿げた本末転倒だ。  樹音たちに目をつけられて以来、新たなる被害者になることを恐れて、クラスメイトは誰も百合梨に近づいてこなくなった。友だちを作るのは、少なくとも学校の中では絶望的だろう。  可能性がない道に固執しても虚しいだけだ。潔く諦めよう。「普通の友だち作り」を念頭に学校生活を送るのは、本日をもっておしまいだ。  トモノリとの仲を深めていける目途はついた。だから、未練はない。これからは、彼の存在と、彼との交流、この二つを支えにして日々を乗り切ろう。  百合梨はもったいぶったような手つきで、湯面から覗いた肩に湯をかける。奏でられた水音は、一人きりの静かな決意に相応しい音色だ。  入浴を済ませたら、久しぶりにホットミルクを淹れようと思った。
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