誘惑者

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 誰かが、耳小骨を無視して直接脳みそに働きかけてきた。 「え?」 『人生に疲れてしまったんだろう。分かるとも』  身体の芯にズンズンと響く低い女の声。無理して作ったような優しげなトーンがかえってその裏に潜む残虐性を強調しているかのようで、本能的に底冷えするほどの空恐ろしさを覚える声だった。  一体何者だ。知り合いにこんな人並外れた声の主がいたはずないし、とすると幻聴か、あるいは自分の心の声ぐらいしか思い付かない。  おそるおそる、光哉は脳内で返事を試みた。 「俺が、人生に疲れている?」 『楽になりたいだろう? もうおしまいにしたらどうだ、そんな人生』  彼女の言う「楽になる」が具体的に何を指すのかは分からないが、もしこれが心の声だとしたら、光哉は内心「楽になりたい」と思っていることになる。  認めたら終わりだ、と直感的に思った。 「そんなことはない。俺は自分の人生に満足している」 『本当にそうか? 誤魔化しても、私にはお前の心の内が手に取るように分かるぞ』 「本当だ! 今の俺は死にたいなんて思っちゃいない!」 『クックック。楽になる=死ぬことだなんて誰が言った?』  女の声がしてやったりというように弾む。  光哉は絶望した。無意識に楽になるという言葉と死を繋げてしまっていたことを指摘され、自分が内心で「死にたい」と思っていることを浮き彫りにされたような心地がしたのだ。  光哉自身女に問いかけられるまで、心の不調は底を脱したと考えていた。  アルバイトとはいえちゃんと社会復帰を果たした。ささやかではあるが穏やかな人生を、これからは歩んでゆけると。  他ならぬ自分の心の声が今、その考えにノーを突きつけたのだ。  何より、女の声を聞いているとまるでに向けて魂を引っ張られるような、底知れない寒さを感じた。 「い、いや、違う。俺は死にたくなんて……」 『本当に?』 「しつこいな! 本当だと言ってるだろ!」 『ほう、そうか。だが彼らと会っても同じことが言えるかな?』  意味深な言葉と同時に、目を瞑って横たわっていたはずの光哉の身体は突如として平衡感覚を失った。巨大な手に身体を掴まれてシェイクされているかのような揺さぶられ感に、ウッと強烈な吐き気を催す。  揺れがおさまった。おそるおそる目を開けると光哉は、見渡す限りの真っ白な空間に立っている。  そして目の前にはできればもう二度と会いたくなかった男が居た。光哉と同じように白い空間に戸惑う様子を見せながら、男——山藤課長は「黒羽くん?」と光哉の名を呼んだ。
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