00 明日でもいいですか?

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 一歩踏み出そうとしたところに、声がかかる。 「天野さん、帰る前に一瞬だけいいですか?」  振り向くと、久保が手を合わせて『ごめん』のポーズをしている。  久保は東より一年先輩の女性社員だ。  莉咲は『一瞬だけ』と言われて本当に一瞬で事が済んだ経験はない。 (今度はなに……?)  心の中でため息と同時につぶやくと、扉から手を離した。  久保は顎の位置に切り揃えられたストレートの黒髪を耳に掻き上げると、小さく手招きをした。 「帰るところ申し訳ないです……」 「いえ。何でしょう?」  謝らなくていいから早く用件を、との意味を込めて語気を強める。 「遠藤さんが結婚するんですけど、お祝いでプレゼントを贈ろうってみなさんからカンパを集めてまして……」 (え? わたし聞いてない……)  表情に出ていたのか、久保が慌ててフォローを入れる。 「あ、まだ、みんなには内緒らしくて……。社長と鈴木さんと私しか知らないんです」 (いやいや……。そんなわけないでしょ。カンパ集めてるんだからみんな知ってるでしょ……)  莉咲は納得いかなかったが、それより一刻も早く帰りたいので言葉を飲み込んだ。  遠藤は数年前に中途採用された女性で、二級建築士だった。他にも資格を持っているらしく、社内では主に諸官庁手続きを担当している。  莉咲とは年齢が近いものの、席も離れていて、仕事を頼まれることもないので、プライベートな会話をした記憶がなかった。そんな彼女が結婚すると聞いても、莉咲にとっては1ミリも喜ばしいことじゃない。 (どうでもいい……。早く帰りたい……)  そう思いながら、鞄の中の財布を探していると、 「それって強制なんですか?」  と東がこちらに体ごと向けた。  ちょうど東の席の後ろで久保と話していたので、彼の耳にも入ったのだろう。 「え、えと……。そう言われても……。社長に確認しないと……」  東に見つめられた久保は歯切れが悪く、助けてとばかりに莉咲へ視線を投げかける。 「じゃあ、社長に確認してもらって、それからでもいいかな? 私、もう帰る時間なんで……」  困惑する久保にペコっと頭を下げ、莉咲はふたたび踵を返し、足早に事務所を出た。    
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