00 明日でもいいですか?

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00 明日でもいいですか?

 17時過ぎ、天野莉咲(りさき)は時計をちらりと確認し、空のマグカップを持って立ち上がる。  ここはとある建築設計事務所。  莉咲は事務員として働いている。終業時間が17時半のため、17時を過ぎるとデスク周りの片付けをはじめ、17時半ぴったりに退社するのが莉咲のルーティンだった。  給湯室へ向かい、マグカップを洗っていると、 「天野さん、この資料お願いできる?」  と建築士の佐々木がメモを持って現れた。 「……えーと、急ぎでしょうか?」  おそるおそる莉咲が訊ねると、 「いや、明日でいいんだけど、忘れないうちにお願いしとかなきゃと思って」 「はーい、承りました」  明日と聞いて、莉咲は安心してメモを受け取った。 (あ……)  メモには壁紙(クロス)の品番のみで、メーカー名が書かれていなかった。品番だけでサンプル資料を探すのはとても手間がかかる。ある程度、品番でメーカー名を予測することもできるのだが、最初から書いてある方が親切だし、手っ取り早い。 (次から佐々木さんにもメーカー名を書いてもらうようお願いしよう。とりあえず今は明日だからいっか……)  莉咲はメモを持ってデスクに戻り、テープでパソコンの画面に貼り付けた。  それを見ていた隣の席の(あずま)弥生(やよい)が、 「……いいんすかぁ?」  と声を上げる。  東は一年前、新卒でこの事務所に入った一番下の後輩男性だ。一級建築士を目指し、先輩たちと日々業務に勤しんでいる。  天然パーマなのか、美容パーマなのか莉咲には判断つかないが、毛先をくるっと巻いたヘアスタイルが特徴的だ。そのヘアスタイルのせいで、この建築業界では足元を見られてしまうことも少なくないと聞く。  莉咲から見ても、彼は口調といい、ノリといい、どうしても“チャラく”見えてしまうのだ。 「な、なにがよ……?」  東に顔を向けると、彼は呆れた顔をしている。 「佐々木さんに資料頼まれたんすよね? そうやって後回しにすると、またトラブル起こしますよ」  と、莉咲の心情を察してか、釘を差してきたのだ。  というのも先日、莉咲は頼まれた仕事をいくつか溜め込んでトラブルを起こしたばかりだった。そのときはちょうど契約も絡んでいたので、社長からお叱りも受けていた。  莉咲の仕事は、わかりやすく一言で言うと“雑用”だ。  電話、来客応対もあるが、ほとんどは建築士のお手伝い。図面の印刷や仮製本。建材、住宅設備機器の資料管理、建材サンプルの管理、代表メールのチェック、会社ホームページの運営など設計業務以外は何でもやると言っていい。  東は現在、佐々木と組んで仕事をしているため、莉咲が渡されたメモの内容も理解しているのだろう。 「そのサンプル、明日の午後の打合せで使うからね」 「午後だったら、明日の朝からやれば十分間に合うじゃない?」  莉咲が反論すると、東はため息をついた。 「だーかーらぁー! そうやって後回しにして、契約書作るの忘れたんじゃないの? それに、明日になったらまた別の仕事頼まれるじゃん」  バツが悪く、莉咲は何も言い返せなかった。  東が続ける。 「佐々木さんのメモ、品番しか書いてないでしょ? 他の人はメーカー名も必ず書いてくれるけど、佐々木さんっていじわるなのか抜けてるのか、気が利かないのか……。あともう一つ足りない部分が多い人なんだよね」  となんだか後半は彼の愚痴にも聞こえたが、言っていることはその通りだった。  そして、いつの間にか17時半になり、柱時計のチャイムが鳴る。  社長の意向で、始業時間の8時半と終業時間の17時半にチャイムが鳴るように設定されているのだ。 「もうっ、東君と話してたら終わっちゃったじゃん! まだ最終メールチェック残ってるのに……!」  莉咲はパソコンに向き直り、急いでメールチェックを済ませて電源を切り、鞄に荷物を入れて、上着を羽織った。 「じゃ、お先に失礼しまーす」  東以外の社員にも聞こえるよう、声を張る。  すると、あちこちから「お疲れ様」と声をかけられ、鞄を肩にかけて東を見る。 「おつかれさまでした」  ペコっと頭を下げ、くるりと踵を返す。 「あっ……!」  とまだ何か言いたげな東を華麗にスルーして、莉咲は事務所の扉を押した。
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