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【5】
午前8時40分。家を追われた足で真っ先に向かったのは、駅前にぽつりと佇む交番だった。出入り口の横にトレードマークとして置かれているパンダの石像は、白と黒の塗装が剥げて全身のほとんどが灰色になり、ただの熊になっている。
昔、郵便局の向かいに在った小さな警察署は、周辺の町のものと統合して数年前に隣町へ移転したらしく、一番近い警察の施設を捜したらスマホの地図がここを示したのだった。
手狭な室内にはデスクがふたつ置かれているが、警官はひとりしか居なかった。俺と同じか少し若く見える、いかにも体育会系といった風貌の男の巡査は〝戸折〟と名乗り、先輩の巡査長は自転車で巡回に出ているのだと説明しつつ、客をもてなすような態度でパイプ椅子へと促した。
明らかに新人という戸折巡査は気合十分な反面、少々頼りなく見えたが、出掛けたばかりでしばらく戻らないもうひとりを待つのも惜しく、俺は爛々と目を輝かせる彼に、これまでに起きたことを洗い浚い全て打ち明けた。
大量に送り付けられる謎のメッセージで会社を追われ、東京から逃げ戻ってきた事。ポストに詰め込まれた紙の束に〝心を返せ〟という怪奇文、〝返さなければ周りの人間を殺す〟と脅されている事や、ドアの内側に貼られた写真。そして、今朝ベッドの横に撒かれていた水。
時折「はい」や「ええ」などと相槌を打っていた戸折巡査は、一頻り話を聞き終えるとデスクに置いた少女の写真を一瞥してから、まっすぐに俺の目を見て口を開いた。
「分かりました。では、ご自宅周辺のパトロールを強化しましょう」
力強く断言した彼は、胸ポケットから手帳とペンを取り出してアパートの場所を訊ねた。質問に答えた後、それをメモするペンの動きを眺めながら「あの…」と声を掛けると、巡査は瞬時に顔を上げて再び希望に満ち溢れたような目で俺を見た。
「はい、何でしょう?」
「いや…あの、捜査とかってしてもらえないんでしょうか。指紋取ったりとか…」
歯切れの悪い質問に、彼はきびきびとした所作で手帳を閉じてポケットへ戻し、その脇にペンを刺して元の格好に回帰してから返事を寄越した。
「もちろん、お近くの防犯カメラは確認します。ですが…」
毅然として答えた直後、初めて言葉を濁した様子に続きを促すと、巡査は小さく咳払いをして、なぜか少しだけ声のボリュームを落として言った。
「2日前に投函されたという脅迫文…今はお手元に無いんですよね?」
どこか申し訳なさそうな雰囲気を纏って紡がれた問い掛けに、首を縦にする。それを見て、やはり申し訳なさそうに眉を下げた警官は指を互い違いに組んだ両手をデスクに載せ、やや前のめりの姿勢を作る。
「今のお話を聞いた限りでは、パトロールの強化と防犯カメラ映像の確認くらいしか、我々には出来ないんです。その脅迫文の現物があれば、もう少し立ち入った捜査もできるかとは思うんですが…」
戸折巡査は今にも謝罪を口にしそうな物言いで説明し、次いで自宅アパートの周囲で把握している防犯カメラの場所を訊ねた。
最も有力な証拠となりそうな周囲の人間へ危害を加えることを仄めかす文面は、俺が書いた〝心とは何か?〟を問う質問と共に消えたままだ。ヤツが持ち去ったにしても、その証拠も今のところない。
東京でアプリのメッセージについて相談した女性警官の苦笑いに似た表情が頭に浮かぶ。デスクの向こうで眉を下げるガタイの良い彼の顔も、あの時の警官と同じく困りあぐねているように見えた。
裏手のマンションの駐車場など、アパート近辺で防犯カメラを付けている場所を幾つか彼に伝え、席を立ったタイミングでカラカラとタイヤの回る音が近付いてきた。振り向くと、ドアの上半分に嵌め込まれた硝子窓の向こうを、自転車を押して歩く警官が静かに横切るのが見えた。
巡回から戻った巡査長は、俺の父親と同じかやや年配くらいの初老の男性で、ポケットから引っ張り出したタオル地のハンカチで汗を拭いながら、外よりは些か涼しい交番の中へと入ってきた。引き戸を後ろ手に閉める傍ら、俺と目が合うと、何かあったのかと後輩の巡査へ目配せをする。
「大丈夫です、もう帰るとこなんで」
手短に断ってデスクの上の写真を回収した矢先、不意に巡査長が声を掛けてきた。
「その写真ば、私にも見せてもらえますか」
浜訛りの混じった予想外の要請に面食らいつつも、素直に写真を差し出す。巡査長はハンカチをポケットへ押し込んでから、軽い会釈と引き換えに受け取った写真を、いたく真剣な顔付きでまじまじと眺め始めた。今戻ったばかりで、ストーカーやら住居侵入やらの事情を何ひとつ聞いていないこの人が、どうして写真に興味を持ったのかは分からなかったが、ちらと横目を向けた先で戸折巡査が呆気に取られた顔をしていたので、巡査長のその行動は珍しい事のようだ。
深く皺の刻まれた口元を動かさないまま、しばらくセーラー服の少女と睨めっこを続けていた巡査長は、徐にその色黒の顔を上げると、貫禄のある低い声で俺に訊ねた。
「この子に何かあったんですか?」
一瞬〝いや〟と否定しかけたが、首を振ることは躊躇われた。俺は、この写真の少女がどこの誰なのかも知らない。この子に何かあったのかどうかも、現時点では一切分からないのだ。
イエスともノーとも言えない質問に答える代わりに、俺は交番へ駆け込んだ経緯と写真の少女が誰なのか見当も付かないことを手短に打ち明けた。細かいことは後で戸折巡査が補足してくれるだろう。
事情を聞くなり、巡査長は不思議そうに首を傾げ、短い髭の浮かぶ顎を指で摩る。
「そうでしたか…。いやぁ、この写真の子ば、どこかで見た覚えがある気がしたもんでね」
「えっ」
俺だけでなく、戸折巡査からも驚きの声が上がった。縞木町の配属になって5年目だという巡査長によると、写真の少女が着ているのは、あの河川敷を越えて丘を登ったところにある町立虎賀中学校の制服の旧モデルで、ちょうど巡査長がこの町に来た年まで使われていたのだそうだ。
「ということは、この写真は5年以上前に撮られたものって事ですね!」
戸折巡査がやたらと威勢のいい総括をしてくれた横で、小さく唸りながら渋い顔をしている巡査長は、口をへの字に曲げて何やら思案した後、鋭い眼光を俺へ向ける。
「この写真、ちょっとばかしお借りしてもいいですか」
交番へ入ってきた時より精悍になった顔付きと、語尾の上がらない問い掛けが、室内の空気を俄かに緊張させた。
「…どうぞ。家に、沢山あるので」
思わず息を飲んでから答えると、巡査長は何か分かり次第連絡する旨をやや早口な語調で説明し、デスクのメモ帳に交番の電話番号と自分の名前を記して渡してくれた。巡査長は村雨さんというそうだ。
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