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 閉店時間も近付いた午後11時過ぎ。各々明日も仕事があるからと、7年ぶりの同窓会はお開きになった。  酔って気が大きくなっているのか、再会の記念に全額出すと意気込んでレジへ向かったタキが、踵を返して泣き付いて来ないか心配しながら、自動ドアを一歩出た暖簾の下で待っている折、ふとアラシが振り向いた。 「そういえば、今どこに住んでんのさ?実家?」 「いや、アパート借りてる。実家は姉貴たちがいるから」  通っていた高校から徒歩30分、駅から徒歩20分ほどの住宅地にある一軒家は、縞木町に引っ越す事が決まった時に両親が奮起して購入したものだ。姉弟2人いれば、どちらかは町に残って暮らすだろうと見越しての事だったらしい。  現に、家を買った当時は既に親元を離れてキャンパスライフを謳歌していた姉は、職場結婚の夫と3歳になる娘、昨年の暮れに生まれた息子と共に、実家で2世帯同居をしている。産休から続く育児休暇の真っ最中である現在は、2人の子どもに翻弄されながら日々奮闘しているらしい。 「ひとり暮らしか…」  相槌にしては意味ありげな口振りに目線で問いを投げると、眼鏡の奥の茶色い双眸がゆっくりと瞬きをして、 「…いや、調理実習で大騒ぎしてた奴が、まともに暮らせてんだべかと思ってさ」  と、揶揄う笑みを見せた。まともなことを言う調子でジョークを飛ばしてくるのは相変わらずのようだ。 「子どもじゃあるまいし、平気……」  そこまで言って、声が途切れた。体を貫くような強い視線と、それに伴う寒気で喉が絞まったのだ。すぐに気配の先を振り向くが、背後には半分廃れて人影も疎らな繁華街があるだけだった。雑居ビルに掲げられた古ぼけたネオンの看板の下を、幾つかのシルエットが緩慢な歩調で行き交う。  しかし、身を寄せ合って歩くカップルや千鳥足のスーツ姿がこちらを睨んでいるなんて事はなく、電柱の陰やビルの合間の路地にまで隈なく目を向けても、見つめ返す目は見当たらない。気が付けば突き刺さる視線は薄れて消え去っていて、残されたのは少し上がった息と、額に滲む冷や汗だけだった。 「なした?知り合いでもいたかい?」  はっとして顔の向きを戻すと、アラシが俺の肩越しに道の先を覗いていた。撃ち抜かれたようなあの衝撃を感じたのは、どうやら俺だけらしい。 「あー…何でもない。たぶん、気のせいだ」  ボトムスのポケットに両手を突っ込みながら下手な作り笑いで答えると、程無くして店のドアが開き、喧しい色黒が闊歩してきた。  新人の店員がキャッシュレス決済に慣れていなくて・と身振り手振りを交えて再現して見せるタキの寸劇を眺めつつ、俺はポケットの中の拳を握り締める。手持ち無沙汰を装って隠した両手は、手のひらがうっすらと汗ばんで、指先は水に浸けたように冷たい。  さっきの視線ーーー身動きが取れなくなるほどの強烈な気配を、俺は前にもこの身に受けた気がしていた。でも、いつどこで経験したのか、全く思い浮かばない。東京に住んでいた頃だろうか。だとするとタキの言う通り、例のメッセージの差出人はストーカーで、視線の正体もその人物なのか。それとも……。 「あれっ、篠嗣(シノツグ)でない?」  タキの一人芝居がオチを迎えようとしたその時、耳慣れない声がした。若い女性の声だ。釣られて顔を向けると、居酒屋の入る隣のビルの前に目を引く容貌の女性が立っていた。  肩までの長さの胡桃色の髪をふわりと巻いて、ノースリーブのシャツにワイドパンツを穿いたその人は、俺と目が合うなり「やっぱし篠嗣でしょ!」と華やかな顔に笑みを湛え、サンダルの分厚い底を鳴らして小走りに駆け寄ってくる。  ……誰だ?知り合いか?こんな芸能人やインフルエンサーみたいな子、知り合いにいたっけ…。  思考回路をフル回転させて記憶を漁っていると、横にいたアラシがギリギリ俺にだけ聞こえる声量で囁いた。 「菱笠 翠(ヒシガサ ミドリ)。ずっと同じクラスだった」  言い終えるのと同時に然り気無く一歩身を引くスマートさは、あたかも優秀な秘書のようだ。昔もよくこんな風にクラスメイトや教師の名前を耳打ちして彼が助けてくれたからこそ、俺は〝何でも忘れる失礼な奴〟のレッテルを貼られる事なく学校生活を送れていたのだと改めて感謝した。  アラシと入れ違いになる形で俺の傍まで来た菱笠翠は、近くで見ると一層可憐だったが、その一方でAIで生成された美少女のような美しさと儚さを纏っていた。キャッシュレスに不慣れな店員のモノマネをしていたタキなんて、中腰の体勢のまま彼女に見入っているくらいだ。 「あー…ひ、久しぶり。菱笠…さん」  左手を肩の下まで持ち上げる俺をじっと見て、大きな瞳が訝しげに細くなる。 「その顔は覚えてないしょ!3年も一緒だったのに、ひどいしょや!」 「す…すみません…」  菱笠は分かりやすいオーバーリアクションで腕組みをし、不機嫌さを露わにして見せたが、思わず出た謝罪の台詞を耳に入れるとすぐにまた笑顔に戻って俺の左肩をぽんぽんと叩いた。 「冗談冗談!人の顔とか名前覚えるの全然ダメだったんだもんねー、篠嗣は!」  口振りからしても、菱笠の方は少なからず俺のことを知っているようだった。俺はと言えば、その口調や声音には生憎聞き覚えがなかったけれど、話した後、頬にかかる髪の束を指先で耳に掛ける仕草にはどこか見覚えがある気がした。仄かに赤くなった耳に着けたパールのポストピアスと、星のパーツがぶら下がった銀のイヤリングが、看板の光やドアから漏れる店の明かりを反射してキラリと光り、彼女を彩っている。  右肩に大きめのトートバッグを提げた菱笠は、ひとりで外食をした帰り、明日の朝食を買いにコンビニへ立ち寄ったところだと言い、居酒屋の2軒先で煌々と硝子窓を光らせる店を指差した。普段はリモートワークで家に籠っているから、こうして外へ出た折に知り合いに会うとテンションが上がってつい声を掛けてしまうのだと、照れくさそうに色白の華奢な肩を竦めた。 「あっ、せっかくだったら今度ごはんとか行かない?みんなで!あたしもコッチ戻ってきたばっかで一緒に行ける子いなくてさ、いっつもボッチ飯なんだわー」 「おっ、イイべ!行こ行こ!」  しばらく固まって傍観していたタキの参入により、会話のテンポが格段に上がって、あっという間に連絡先を交換する流れになった。俺以外の3人の間でスマホの画面をスキャンし合うやり取りがなされていく中、俺はとりあえずと鞄から出したスマホを握ったまま、どうするべきかと頭を悩ませる。  アプリを入れ直すのはまだ抵抗があるし、かと言って今時、電話かショートメールしか使えませんなんて、連絡先を教えたくないための嘘だと思われないだろうか。 そんな事を考えていたら、美女の連絡先を手に入れて上機嫌のアロハシャツが、そのハイテンションのまま小麦色の腕を回してガッチリと肩を組んできた。 「ちなみにカッチンは電話かメールしか使えねぇんだけど、どーする?ダルかったっけオレが仲介してもイイけど!」  助け舟なのか単なる暴露なのか、俺の悩みの種は友人の口によって呆気なく告げられた。10センチほど背の低いタキに引っ張られて不格好に上体を傾けた俺に、ぱっちりとした丸い両目が向けられる。何か不思議な生物を見るような目だ。  何となく気まずくて言い訳を探していたら、眼下に細い右手が差し出された。 「したっけ、あたしの番号入れるから貸して?」  そう言って、にこりと小首を傾げる菱笠。予想外にあっさりとした返答にぽかんとしていると、肩を組むのと逆の手で脇腹を小突かれた。それに急かされて、意外に装飾のない爪をした手にスマホを引き渡す。  新たに連絡先を教え合うなんて、いつ以来だろう。例のメッセージの件があってから、もし自分に関わったら被害が及ぶんじゃないかと不安に駆られるばかりで、とてもそんな気にはなれずに何だかんだと避けてきたから、懐かしいような気恥ずかしいような、ちょっと落ち着かない気分だ。  作業の途中に声を掛けるのもと細い指が動くのを黙って眺めていたら、油断した脇腹をもう一度突付かれた。斜め下にあるタキの顔に〝感謝しろよ〟とありありと書いてある。どうやら、さっきのは助け舟だったらしい。  返却されたスマホに追加された目新しい番号に電話をかけ、無事に連絡先交換の儀を終えると、「あっ、そいえば」と菱笠。 「高校の時から〝カッチン〟って呼ばれてたけど、なんで?篠嗣って下の名前〝アキラ〟でしょ」  連絡先交換よりも久しぶりに聞く質問には、どう誤魔化すか思案する間もなく隣から答えが飛んだ。 「あーっ、それ〝カナヅチ〟のカッチン!コイツ全ッ然泳げねぇんだわ!」 「えっ、そうなの?」  菱笠から再び向けられる何か不思議な生物を見る目に、不本意ながら頷いて答えると、今度は陽気なアロハの反対側から声がした。 「浮き輪を2つ付けてても沈んだからね。しかも海で」  アラシは台詞と共に一歩前へ出ると、横向きにしたスマホを菱笠へ差し出した。ちらりと見えた画面には、胴体にデカい浮き輪を2つも装着しているにも関わらず、体がほとんど海水に飲まれている無様な姿が写し出されていた。足の着く浅瀬だったとはいえ、すぐに助けてくれなかったと思ったら写真なんか撮ってたのか、こいつ。  張本人すら初めて目撃する写真をネタに3人はいたく盛り上がり、終いには画像の共有までする始末だ。あまりに楽しげに話しているから、居酒屋から出てきた他の客たちがみな横目にこちらを窺ってきて、取り残されてひとり冷静な俺は恥ずかしいったらない。 「ふふ。またひとつ知れたわ、篠嗣のこと」  一頻り盛り上がった後、菱笠は嬉しそうにスマホを見つめて零すと、タクシーを拾って帰るからとコンビニの明かりが照らす方へ踵を返した。 「したっけ、またねー!おやすみ!」  大きく手を振って駅前へ続く道を歩いていく後ろ姿は遠目に見ても上機嫌で、あんなに楽しんでもらえるならカナヅチも悪くないな・なんて、しょうもないことを思った。  駅裏の住宅地に住むタキも本来なら菱笠と同じ道が帰路になるのだが、後ろをつけていると思われたくないとの理由で小道を経由する別ルートで帰るそうだ。流石は地元のタクシー運転手、ルート選びは自由自在らしい。  そんなタキも、離れていく背中は意気揚々そのものだ。同級生をほとんど網羅していた彼の連絡先リストにも、これまで菱笠の名前はなかったのだという。 「同じクラスではあったけど、菱笠さんのグループとは交流なかったんだわ」  そう答えたアラシによると、菱笠翠は所謂〝イケてる女子グループ〟の筆頭で、在学中には話した記憶もないらしい。俺たちを見つけて声を掛けてきたのは本人も言うように、帰郷したてのセンチメンタルさから来る衝動だったのだろう。俺だってマトモに同級生の顔を覚えていたら、そこまで親しくない相手でも懐かしさに絆されて交流をはかったかもしれない。  なんて事を悠長に考えていた矢先、ふっと視界が暗くなった。ドキリとして振り向けば、何のことはない。居酒屋が閉店時刻を迎えて看板と店先のライトを切っただけだった。店内はまだ明かりが点いているから、自動ドアのところだけスポットライトみたいに照らされている。 「カッチン、どっち方面だっけ。僕、国道の方なんだけど」  街灯の少ない路地にも慣れているのか、アラシは何食わぬ顔でスマホをポケットに戻して、左手の暗い通りを指で指し示す。 「あー……俺も、同じ」  言葉が出るまでに時間が掛かったのは、緊張感が喉に張り付いたからだった。自宅のアパートは確かにその先にあるものの、居酒屋を出た直後に刺すような視線を感じた方向だという意識が、それによって酔いを醒まされた頭に残っている。  「そう」と短い返事をして歩き出すアラシに続いて、静かに足を踏み出す。さっきより人影も店の明かりも減った夜道は、シャッターの閉まっている建物も多いせいか、陰湿で不気味な雰囲気が無くもない。怖いと思ってしまえば枯尾花でも幽霊に見えるというやつか、熱帯夜のじっとりと肌に纏わり付く暑ささえ不安を煽る演出のようだ。  雑居ビルが建ち並ぶ寂れた繁華街は、自転車がギリギリ抜けられる程度の、道と呼ぶより隙間に近い路地も多く、そこら中にある隙間のどこからあの強烈な視線が送られたのか、考え出したらキリがない。  周囲を窺いながら歩く俺を、久しぶりの地元を観察しているとでも思ったのか、しばらく歩いて国道にぶつかるまで、アラシは雑多にこの数年の町の話をしてくれた。  商店街の八百屋が潰れてスーパーになったとか、小学校のプールが去年改装されて綺麗になったとか、あれからまた支部予選敗退が続いていた母校の野球部が数年ぶりに北北海道大会に行けそうだとか。 話を聞いているうちに気が紛れ、何事もなく大きい通りまで出てこられたことに思わず感謝を述べたら、「何のお礼さ」と可笑しそうに笑われた。いい歳の大人として〝夜道が怖かった〟なんて、口が裂けても言わないが。  車通りの多い丁字路でアラシと別れアパートに着くと、ちょうど日付が変わる頃だった。ボロアパートの裏に聳え立つマンションは、深夜0時になると廊下や駐車場の明かりが一斉に消えるから、時計代わりになって便利だ。もっとも、冬はその8階建てに遮られて、3階建てのボロアパートには日差しがほとんど入らなくなるそうだから、感謝出来るのも秋までだろうが。  頼りない月明かりが注ぐ闇夜の中、砂利の敷かれた手狭な駐車場を抜けて外付けの階段へ向かおうとした時、その手前に設置されたポストに違和感を覚えて足が止まる。アパートのポストは階段の手前、1階の外壁に全部屋9世帯分の銀色の箱が纏めて据え付けられているが、スマホのライトを当てて見てみると、ひとつだけ蓋の隙間から白い紙が何枚か飛び出ているものがあった。プレートには〝303 篠嗣〟……うちの物だ。  しかし、妙だ。出がけ、19時過ぎに見た時には中身は空だったし、DMやチラシが入れられるのは大抵昼間か遅くても日が暮れる前。それも、紙がはみ出ているのは303だけで、他にその様子はない。  近付いてみると蓋も何とか金具が引っ掛かって体裁を保っているといった具合で、本体との間に隙間が出来てしまっている。蓋が閉まり切らないほど詰め込むって、いったい何をーーー  そう思って取っ手に指をかけた瞬間、中身に押し出されたのかボタンが弾けるように蓋が跳ねて、詰め込まれていた大量の紙が雪崩を起こし、バサバサと地面に落ちた。足元に降ってきた紙の束に、一歩下がってスマホのライトを向けた時、自分の目が丸く見開かれるのが分かった。  〈オマエノ ヒミツヲ シッテイル〉  足元に散乱した白い紙に、見覚えのある文字。スマホでよく見る文字に似た太いゴシック体が、どの紙にも横書きでデカデカと印刷されている。ざっと見て100枚近くありそうだ。ぎゅうぎゅうに押し込まれていたせいか、地面に落ちても湾曲したままの束さえある。  去年の春から嫌と言うほど見てきた文言を前に、頭の底にこびりついた初期設定のアイコンが記憶を押し退けて這い上がってくる。 「……NO NAME…!」  二度と帰っては来ないと思っていた町。この町へ戻ってきたのは、顔の見えない〝ヤツ〟から逃れるためのはずだった。なのに、どうして。 「まさか…ついてきたって言うのか…!?」  半信半疑で呟いていたその時は、まだ知らなかった。  スマホのライトに照らされて闇夜に怪しく浮かび上がる真っ白い紙の束を見つめて、杞憂であってほしいと願いながら漏らした憶測が、想像した以上のうねりと勢いを持つ激しい濁流となって押し寄せ、俺をーーー〝俺たち〟を飲み込んでいく事を。
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