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 雨が降っている。嫌気が差すほどの大雨だ。  橋の青い欄干の向こうに見下ろす川は水嵩が何倍にも増して、河川敷をも飲み込んでしまおうと草の茂った傾斜の頂上にまで届きそうな飛沫を上げながら、濁った水を怒濤のように運ぶ。電柱に引けを取らない高さを誇る川原の大木さえ濁流に飲まれて、茶色く淀んだ水面から僅かに顔を覗かせるので精一杯だ。  叩き付ける大粒の雨に揺らぐ傘の持ち手と、それを強く握り締める手を中心に、視界が大きく左右に振れる。呼吸も億劫になる大雨の中、忙しなく動くずぶ濡れの両足が細い橋の中腹から入口へと引き返し始めた。  目覚めると、窓の向こうには雨の代わりに蝉時雨が降り注いでいた。  8月17日、午前7時50分。アラームを止めた画面に表示された日時と、壁越しのアナウンサーの声は今日も無事に一致している。 「………。」  重い体を起こして水分補給をする間、寝惚けた頭を支配していたのは、さっきまでの夢の残像だった。  雨の日に見るらしい、例の夢。大雨の中、橋の上に立っている光景。いつも同じ場面だったそれが、今日は少し違っていた。  佇む場所は橋の入口から真ん中へ移動していたし、そこからまた来た道を引き返そうとしていた。そして、周囲を見回す目の動き。ただ橋から景色を眺めるいつもの夢とは、似つつも異なる内容だ。  よく考えれば、夢なんてその日の気分やコンディションで変わるのが当たり前で、しょっちゅう全く同じ夢を見ている方が特殊なのかもしれないが、今朝は妙に気にかかった。昨夜の出来事のせいだろうか。  ペットボトルのキャップを閉め、狭い廊下の先へ目を遣ると、靴と一緒くたに玄関に置いた燃えるごみの半透明の袋に詰めた紙の束が、恨めしそうにこちらを見返していた。  トークアプリで何百通と送られてきた不可解なメッセージと、スペースの開け方まで一言一句同じ文面が印刷された大量の紙。どうやら安物のコピー用紙らしいが、蓋が閉まらなくなるほど郵便受けに詰め込むなんて、正気の沙汰とは思えない。  わざわざフォントまで似せている辺り、東京で就職先や大学の知人にもメールをバラ撒いた〝NO NAME〟なる人物と同一犯と見ていいのだろうけど、俺を捜して追ってきたのか?だとしたら、どうやって、いったい何のために。  何にしても、理由が分からない。だいたい〝俺の秘密〟って何なんだ。脅しのネタにされるような悪事を働いた覚えもないし、そもそも脅すのなら金銭だとかの要求があるはずだ。ただ〝秘密を知っている〟と誇示することに、何の意味がある? 「なんなんだよ、いったい…」  苛立ちを抑えるように部屋の中をうろうろ歩き回っていたら、左足に違和感を覚えた。つい最近も経験した感触ーーー。そっと足を避けると、フローリングが濡れていた。昨日より大きい、コースターほどの水溜まりが出来ている。 「また雨漏りか…」  水滴と呼ぶには流石に大きなそれにうんざりしながら、ベッドの傍から箱ごと持ってきたティッシュで拭い去る。キッチンとベッドとの中間辺りの天井は、料理の煙によるものなのかヤニの汚れか全体的にぼんやりと黄ばんでいて、雨が染みた跡がどれなのかは判別できなかった。  昨日の朝に水滴を見つけた箇所は幸い濡れていなかったが、どうせ暑さで乾くだろうと放置した家主を咎めるように木の板が丸く黒ずんでいて、入居から1か月足らずで早くも引っ越しの文字が頭を過る事態だ。東京から逃げ帰って、どこでもいいからすぐに入れる部屋をと内見もロクにしなかったツケが、こんなにも早く回ってくるとは。今は軽く床が濡れる程度で済んでいるが、雨が降る度に次から次へと雨漏りするんじゃ、いつバケツを買いに走る事になるか分からない。  どうしたものかと考えていたら、壁の向こうから「よい週末を!」と溌溂に呼び掛けるアナウンサーの声が聞こえた。スマホを確認すると、今日は金曜日。週明けまでと様子を見ているうちに悪化しないとも限らないし、今日のうちに大家の爺さんに相談しておく方が賢明か。  仕事へ行く前に斜向かいの一軒家に住む大家のところへ顔を出そうと、数分後にはすっかり忘れそうな予定をスマホに打ち込んでいたら、画面上部にショートメールの通知が出た。送り主は、昨夜連絡先を交換したばかりの菱笠翠だ。  〈今度ごはん行こ!ふたりで!〉 「…ふたりで?」  疑問符を付けて復唱した声が、蝉の大合唱に飲まれて消える。昨夜は〝みんなで〟って言ってなかったか?それとも、タキやアラシにも同じメッセージを送っているんだろうか。  小学校から野球漬けで女子との交流を疎かにしてきたせいか、こういう時にどう返していいか見当もつかない。大学時代もウブだ何だと散々からかわれて、飲み会に駆り出される事もあったけれど、野球を辞めた後、長らく鬱ぎ込んでいるうちに数回の飲み会で得た感覚など跡形もなく脳から消え去ってしまって、結局ノウハウなんてものは何ひとつ身に付いていない。ああ、こんな事なら会社の飲み会にも積極的に参加しておくべきだった。  これといった妙案も浮かばないまま時間だけが過ぎ、身支度をしている間に鳴った〝大家の家に寄る〟というメモのアラームに押し出され、玄関を出る頃にはもう、返信をするというタスクは俺の頭から抜け落ちてしまっていた。  午後4時過ぎ。まだまだ蒸し暑い炎天下、俺は滝のような汗を首から提げたタオルで拭いながら、見慣れない住宅街をとぼとぼと歩いていた。急ぎの届け物を押し付けられ、町外れの事務所まで使い走りした帰りだ。  なるべく人に会わずに済む仕事をと探していた時に〝一日中倉庫に籠っての作業で、社内の人間以外とはほぼ会わない〟と言うから、配送センターの荷物仕分けの職に就いたっていうのに、10名足らずの同僚の顔も覚えきらないうちから、見知らぬ住所のメモを片手に町をさまよい歩く羽目になるなんて、契約違反もいいところだ。その道すがら、ひそひそ話す人たちから送られる視線のなんと痛いことか。まあ、代わりに直帰していいという条件に押し切られた俺も俺なのだが。  自販機でサイダーのボトルを買い、炭酸で喉と疲れを癒しながら歩いていると、ようやく見覚えのある景色になってきた。町の中央を流れる茅花川の河川敷は、運動部に所属する地元の学生なら一度はランニングで使うコースだ。例によって、遠くに見える橋の上をジャージを着た一団が掛け声と共に渡っていく。 「あの橋…」  部活動の真っ最中らしき集団が通っていった橋には、青い欄干が付いていた。少しくすんだような黒みがかった青色の欄干は、いつもの夢に出てくるそれとよく似ていた。  近くで見ると橋は夢で見たものよりも長く、それでいて幅は狭く、やけに細長い印象を受けた。流石に両手を伸ばしたくらいでは両脇の欄干には届かないが、自転車同士でも擦れ違うには技術が要りそうな幅だ。自動車で通るなら軽でも傷物になる覚悟をしないとならない。  錆の多い欄干は黒っぽく濁った青色で、橋の袂で枯れている草花の山と合わせると、炙るような強い日差しで焦げ付いたように見えた。眼下に広がる河川敷の光景も、橋のあちらとこちらにそれぞれ広がる住宅街の様子も、夢の映像と酷似しているどころか、そのままコピーしたようだ。夢の中以外で訪れた覚えはないけれど、夢に出てくる景色はこの場所に間違いないらしい。  古ぼけた橋名板には〝とらがはし〟とある。帰る道すがらに虎賀(トラガ)と名の付いた大きな郵便局もあったから、この辺りの地名なのかもしれない。  縞木町は、町を分断するように南北に伸びるこの茅花川(ツバナがわ)を境に西側と東側にざっくりと分かれていて、比較的栄えている西側には駅に町立の総合病院、マンション、会社や商店が並び、昔からの住民が多い東側には一軒家が多数を占める住宅地や、田畑、森林などの自然が広がっている。  実家も高校も駅も、俺の行動範囲は丸ごと西側に収まっていたお陰で、昔住んでいた頃も川の向こうに渡る機会はほとんどなく、部活のランニングで河川敷沿いの歩道を走るくらいしか近付く事もなかった。  塗装の剥げと錆とでザラつき、砂のこびり付いたような肌触りの欄干に腕を載せ、夢で見た橋の中腹からの景色を眺めてみる。  橋の上から覗いた川は殊の外浅く、高所からの目測ではあるが川幅は10メートルもないようだ。夢では濁流に埋もれていた大木は青々と葉を茂らせて、河川敷の上の歩道と変わらない高さまで枝を伸ばしている。  大雨で川が増水していないことを除けば、そこには夢の中の景色がそっくり再現されていた。 「なんでこんなところの夢なんか…」  遠目に見る風景の一部だったこの橋に、夢に見るほどの思い入れなんてない。仮に、高校時代にここへ来た事があったとして、なぜその時の景色を繰り返し見るのだろう。忘れっぽい俺の頭が何度も見せてくるこの景色に、何の意味があるのか。浮かぶ疑問を流し込むには、生ぬるくなったサイダーは力不足だった。  ぼーっと河川敷を眺めていたら、川原を母親に手を引かれて歩く女の子の手から風船が離れて舞い上がった。緩やかな風に流された赤い風船は、大木の上の方の枝に引っ掛かって動かなくなる。小学校低学年そこそこの女の子と小柄な母親を見下ろして、風船は知らんぷりだ。 「…もう少し寄り道してくか」  気の抜けたサイダーを飲み干して青い欄干の橋を渡り、川原へ降りていく階段を下り始めた。 「もっ、もう本当に大丈夫ですから!」  下から投げ掛けられる若い母親の声が、焦りを帯び始める。  引っ掛かった風船を取ってあげようと意気揚々と降りてきたまでは良かったが、大木は橋の上から見るよりずっと大きく高く、風船が留まっている辺りまでは、かなり登らないとならないことを、俺は木の下まで来てようやく察した。  しかし、ここまで来て〝無理そうなんでやめます〟とも言えず、期待に満ちた幼い女の子の眼差しを無碍にもできず、俺は今まさに小学生以来の木登りに挑んでいる。  優にビルの2階ほどは高さのある大木をどうにか攀じ登り、やっと目的の枝の横までは辿り着いたが、風船が捕らわれているのは枝の中腹。身を乗り出して腕を伸ばしてもギリギリ届くかどうかの距離だ。  幹の出っ張りに足を掛け、目一杯に左手を伸ばす。風に揺れる紐が中指の先を掠めては離れるのが、もどかしい。  あと少し……あともう少しで……。  限界まで体を傾けて指を伸ばすと、微かな風に靡いた紐が上手く指先に絡み付く。よし、いける。そう思った時、風船の陰で何かがキラリと光った。  凝らそうと目を細めた矢先、再び吹いた風に煽られて風船が枝のさらに奥へ引き込まれそうになって、咄嗟に紐を引き寄せたーーーその直後だった。  パンッと渇いた音を立てて、丸い風船は萎びたゴムの欠片に変わってしまったのだ。 「ごめんな、取れなくて…」  かつて風船だった欠片のついた紐を片手に命からがら木を降りる頃には、女の子は母親の腰にしがみついて顔を埋め、こっちを見てもくれなくなっていた。そりゃそうか。  風船は駅前で配っていた最後のひとつだったそうで、弁償も出来そうにない。俺の手の中にあるのは風船の残骸だけで、幾ら見つめても女の子を喜ばせる方法が湧いて出るとは思えなかった。 「あのっ!」  不意に飛び込んできた声に振り向くと、菱笠翠が川原へ降りてくるのが見えた。つばの広い帽子を片手で押さえ、脛まであるワンピースの裾を揺らしながら駆け寄ってきた彼女は、肩に提げた鞄から小さな袋を取り出し、困り果てた母親へ差し出した。 「コレ、よかったらお嬢さんにどうぞ」  菱笠の手には透明なビニールに包まれた、手のひらサイズのマスコットが載っていた。耳のところに星の飾りがついたピンクのうさぎのキャラクターだ。  やり取りが気になったのか徐に顔を上げた女の子は、それを見て瞳を輝かせたが、母親は申し訳なさそうに眉を下げる。 「えっ。いえ、そんな…」 「さっきコンビニのくじ引きで貰ったやつなんです。あたし、もう同じの持ってるから、どうしよっかなって思ってたとこで。だから、貰ってくれると助かるんですけど」  人懐こい笑顔で話す菱笠に、母親は娘とマスコットを見比べてから今一度彼女に目を遣って、心底の礼と共に丁寧にピンクのうさぎを受け取った。幼い女の子もそれを大事そうに両手で包み込むと、満面の笑みで感謝を述べた。  うさぎのマスコットと紐付きのゴムの欠片を一緒に抱え、去り際に俺にも手を振ってくれた女の子の背中は、スキップでもしそうなほど上機嫌だった。さっきまでの消沈ぶりが嘘のようだ。 「ありがとう、菱笠。助かったよ」  振り返した手を下ろして隣を見たら、笑んだ横顔は母娘へ視線を投げたまま、やけにハキハキとした口振りで応えた。 「なんもなんも。メール返す暇はないのに、木登りする時間はある篠嗣くん?」 「えっ。」  短く発した声に振り向いた彼女は目が合った途端、AI製のような綺麗な顔に不機嫌そうな無愛想を張り付ける。まずい、そういえば今朝メールを貰ったんだった。 「えっと、あの…ご、ごめん…。どう返したらいいか、分かんなくて…」 「どうって?行くか行かないかの2択でしょや」 「そ…そうなんだけど、その…」  朝も散々悩んで返信の文面ひとつ出てこなかった奴が、急に言い訳を思い付けるはずもなく、俺は猛暑由来とは別の汗が滲む額を手の甲で拭う他なかった。しどろもどろしている俺を大きな瞳でじっと見つめていた菱笠は、数秒もしないうちに飽きたのか、 「まっ、いいわ。さっきので〝貸し1〟だからね。今度美味しいものでも奢ってよ?」  そう言って踵を返したかと思えば、菱笠は大木の根本に置いた俺の鞄の横に腰を下ろし、木陰から手招きをする。昨日会った時にも感じたが、彼女は物怖じしないハッキリとした性格のようだ。  鞄を挟んで隣に座ると、どこかから吹いた風に乗ってふわりと良い匂いがした。菱笠の明るい色をした髪が風に揺れ、その合間から涼しげな星のイヤリングが覗く。星の飾りの付いたマスコットといい、そういったモチーフが好きらしい。  菱笠は昨日持っていたものより一回り大きいバッグから緑茶のペットボトルを2本出して、片方を差し出した。なんで2本も持っているのかについては、訊ねる前に答えが来た。 「コンビニのくじ引き、700円以上の買い物で1回なんだわ。A賞のぬいぐるみが、どーっしても欲しくてさ!」  語る熱量からも、随分重そうに膨れたバッグからも、彼女の本気度が窺える。既に持っているマスコットというのは母娘に気を遣わせないための方便かと思ったが、事実の線が濃厚だ。  保冷バッグに入れていたという冷えた緑茶を有り難く頂戴して、喉に仄かに残るサイダーの甘さを流し込んでいたら、「そいえばさ」と菱笠。 「篠嗣って結婚してる?」  突飛な質問に軽く噎せながら首と右手をそれぞれ横に振ると、彼女はやや意外そうに「ふぅん」などと呟いて、素知らぬ顔でお茶を飲む。何だったんだ、今の問いは。  疑問と困惑が表情に出ていたのか、ちらと見てきた横目が可笑しそうに笑った。 「既婚者も多くなる年頃だからさ、もう挨拶みたいになってんのさ」  どんな挨拶だよ。なんて突っ込むことも出来ず、ボトルの白いキャップをギュッと閉める。タキやアラシは浮いた話もないらしいが、既に家庭を持っている同級生も多いとは言っていたし、25歳というのはそういう年齢なのだろう。たぶん。  冷たいペットボトルを冬場のカイロのように両手で握って、手のひらの熱を逃がしていると、菱笠が座席ひとつ分距離を詰めて顔を覗き込んできた。 「でも、彼女はいるしょ?」  木漏れ日がちらつくだけの日陰の中でも、大きな瞳はらんらんと輝いている。女子っていうのは恋愛の話が好きな生き物なのだと、いつだったかタキが自慢げに言っていたけれど、あながち間違ってもいないようだ。  飛行機雲でも見つけたような素振りで視線を空に投げ、眩しい双眸から避難する。 「いないよ、残念だけど。結婚どころか、最後に相手がいたのだって随分前で…」 「うそ。」  悲愴感が湧きそうな自虐が、思いがけず鋭い口調に切られた。予想外の反論に振り向くと、わざとらしく口を尖らす彼女と目が合って、ドキリとする。 「絶対うそ!高校の時だって、なまらモテてたしょや!あっ、それとも、そうやって女の子を油断させるわけ~?」  飲みかけのボトルの底で俺の二の腕を小突いて茶化してくるノリは、タキに近いものを感じる。凹凸のある底面をぐりぐりと押し付けてくる力が強く、容赦のない部分で言えば菱笠の方が質が悪いかもしれない。 「そんなつもりじゃないって、マジで」 「したら、どういうつもり?」 「どうもこうも…あの、俺の腕に穴開けようとしてる?」  逆側に少し体を傾けて攻撃を避けようとする俺に、菱笠は「開くかどうかやってみるかい?」なんて悪戯っぽく笑ったが、おまけみたいに数回底を押し付けてからボトルを引いた。途中、結構目がマジだった気がするのは気のせいだろうか。会ったばかりでよくは知らないけれど、彼女のことは怒らせない方が身のためかもしれない。  それからの会話といったら、他愛もない極々普遍的な内容ばかりで、後から思い返そうとしても何を喋っていたんだか、ほとんど浮かばない。  降り注ぐ直射日光だけ避けた真夏の木陰で、川のせせらぎと遠巻きの喧騒を聞きながらというシチュエーションも相俟ってなのか、単に菱笠翠のコミュ力の賜物なのか、普段は同世代の女子とどう話せばいいのか分からない俺も、滞りなく談笑出来た。いつもなら気まずさを引き連れてくる沈黙も彼女の前では鳴りを潜め、心地好い静寂に姿を変えているようだった。  小一時間ほど経って、どちらからともなく腰を上げた折に「あっ!」と菱笠が何か思い出した風に声を出した。  大きなバッグをガサゴソと掻き回して引き上げた拳を、俺へ差し出すのと同時に開くと、彼女の手のひらに見覚えのあるピンクのうさぎが寝そべっていた。女の子にあげたものとの違いは、立体のマスコットじゃなくアクリル製で平たく、キーホルダーの金具がついている点と、腹のところにアルファベットの〝A〟を象った黄色い物体を抱いている点だ。 「コレあげるわ!知ってるしょ?〝ギャラぴょん〟」 「…ぎゃら……なに?」  呆気に取られる頭に乗り込んできた謎の固有名詞に目を上げると、菱笠は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐにわざとらしく眉を寄せた不機嫌顔に変わる。 「ギャラぴょんに決まってるしょや、ギャラクシーうさぴょん!この子の名前!」 「はあ…」  そんな〝みなさんご存知〟みたいに言われても、キャラクターものに疎い成人男性にはご縁のない相手だ。あの母娘へ差し出されたマスコットを見て以来、二度目の対面となったピンクのうさぎが、円らな瞳で俺を見ている。 「いや…いいよ、俺は。こういうの付けないし…」  この熱量を持っている相手に対し〝知らんから要らない〟とだけは、口が裂けても言ってはならない。それだけを意識してやんわりと断ってみたものの、 「だってコレ〝A〟って書いてるしょ?あたしの周りでイニシャルがAなの篠嗣だけだし、観賞用と保管用はもうあるし…持て余すのも可哀想でしょや!」  と、思いの外しっかりとした収集癖を持つ彼女の一面を垣間見るのと同時に、押しの強さを全面に押し出されたことにより、俺はそのキーホルダーを頂戴するという選択肢を受け入れる他なくなった。 「…じゃあ、遠慮なく」  そっと出した俺の手にキーホルダーを握らせ、菱笠はご満悦とばかりの満面の笑みだ。  空いている手で持ち上げた鞄から財布を出し、何の飾り気もなく入居する日に渡されたままの自宅の鍵を取り出し、早速ピンクのうさぎを取り付けようと取り掛かってはみたが、この手のストラップだとか装飾の類いを付けること自体ほぼ初めての上に、よくピッチャーをやれていたなと呆れられるほどの根っからの不器用さで、一向に埒が明かない。  はじめのうちは「細かい作業とか苦手?」なんて揶揄うように笑いながら見守っていた菱笠も、全く進展の見られない有り様に業を煮やしたのか、 「もーっ、貸して!やっちゃる!」  と、俺の手から鍵とキーホルダーを奪取した。家に帰ってからじっくりやれば良かった・などと後悔する猶予すらなく、ものの数秒で〝ギャラぴょん〟なるキャラクターと晴れて結ばれた鍵が手のひらに戻されてしまい、俺は自分の手際の悪さをただただ反省するばかりだった。  今出来る範囲でのお礼として、河川敷の長い階段を彼女のバッグを担いで登る事にしたが、保冷機能のあるという大振りの鞄の見た目以上の重さに驚いた。中身はくじ引きのために買い込んだ飲み物類と戦利品だそうだ。 「本当にここまでで良いのか?」  上の歩道に上がったところで重たいバッグと共に質問を差し出すと、菱笠は華奢な肩に軽々とそれを提げて首を頷かせる。 「うん、まだ寄るとこあるし」 「タフだなぁ、この暑い中」 「そう?」  午後5時を過ぎてもまだ強い日差しとアスファルトの照り返しに、被り直した帽子の下で眩しそうに目を細めながらも、彼女は楽しげに声を弾ませる。夕べが特別だったのではなく、この明るさが通常運転らしい。  対比で軽く思える自分の鞄を担ぎ直し、ジリジリと虫の鳴く中、改めて菱笠翠に向き直った時、誰かの視線を感じた。振り向いても長閑な河川敷の景色があるだけで、川原を歩く人影がポツポツと見えはするものの、こちらを見ている人などいない。 「なしたの?忘れ物?」 「…いや、大丈夫。気のせいだ」  眼下の景色を眺め硬直する様を横目に、大木の方を覗き込む横顔へ手短に返した否定は、昨夜のような痩せ我慢にも似た返答とは違っていた。今し方感じ取った視線自体が、昨夜居酒屋の前で受けた、体に突き刺さるような強烈な視線とは異なっていたのだ。今のそれは、あれほどの鋭さや圧はなく、もっと、遠くからじっと窺っているような気配だった。  使い走りで町中を歩いた時に何度か感じた、過去の栄光を後ろに透かして見ている眼差しとも、どうにも違う気がして、アパートまでの道を少しゆったりと歩いてもみたが、それきり同じ視線を感じる事はなかった。
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