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「帰ってきてソッコーあの菱笠とデートとか…イージーモードかよー…」  翌々日の日曜日。例の居酒屋で再会したタキの第一声が、これだった。  前回と同じ半個室のような小上がりの席でアラシと先に1杯飲んでいたところに遅れて来たかと思えば、この数日でますます日に焼けたタクシードライバーは俺の隣を陣取って、膨れっ面でビールを呷る。 「別に、デートってほどのもんじゃ…」 「ふたりでメシ食って2軒目も行ったんだべ?立派なデートだべな」 「…そもそも、なんで知ってるんだよ。そんな事まで」 「オレの情報網をナメんでないわ!」  鼻高々に吐き捨てて、小麦色の横顔は大皿から取り分けた唐揚げに力強くレモンを絞る。こういったコミュニティの狭さには高校時代も驚いたが、タキの交友関係の広さにも改めて舌を巻いた。日頃から人目を気にして動いている方だという自負もあるだけに、殊更だ。  キーホルダーの一件があった手前、菱笠にはお礼をしなければと思っていたものの、案の定どう誘えばいいかと頭を悩ませていた俺の元へ、その当人から電話が掛かってきたのは河川敷で遭遇した翌々日、日曜の午後の事だった。そこからは菱笠の行動力に牽引されて、その夜のうちに彼女が希望した駅裏の中華料理屋に行き、帰りに甘いものを食べたいと言うので近くのファミレスに立ち寄った。俺からすればデートと形容するには気が引ける内容だ。  事の経緯を聞き終えてもなお、タキは「ふーん」などと拗ねたように口を尖らせるばかりだった。いつもは一口で食う唐揚げをちびちびと齧るのが彼のいじけた時の癖だというのも、久しぶりに目にして思い出した。  勝てないゲームに飽きた子どものような態度を横目に首を傾げていたら、対面でしばらく様子を眺めていたアラシが小さく笑いを零す。 「こいつ高校の頃、惚れてたんだよ。菱笠さんに」 「はっ!?ちげーし!そんなんでねぇし!」  斜め向かいからの暴露に本人は即刻否定を返したが、座布団から腰を上げるほどの勢いと反応の早さは、逆に話を裏付けているようだった。  ビールのせいだけではなさそうな仄かに赤らんだ日焼け面は、俺とアラシを交互に何度か見て、空気が抜けていくようにゆっくりと腰を下ろすと、残り半分のビールを飲み干してから再び不服そうに唇を突き出した。 「まー…ちょっとイイかなーとか……思わんでもなかったけどさぁ…」  ぼそぼそと歯切れの悪い呟きは、ミステリー風に言うなら自供だろう。前回この店の前で再会した時、やけにテンションが高いなと思ったら。 「そうだったのか…知らなかった」 「そりゃあ気付かねぇだろーさ。カッチンは妙~にモテてたし?そのくせ、恋愛事なんか興味ありませんって顔してたし?」  未だ不機嫌モードの柄シャツは2杯目のジョッキと追加のつまみを注文した後、今度は枝豆を手に取ってサヤの筋を丁寧に取り始める。普段は声も態度もデカいくせに、なんで拗ねるといちいち挙動が細かくなるんだ、こいつは。 「妙にって何だよ」  箸で出し巻き卵をひとつ摘まみ上げながら相槌程度に返した言葉に、次の瞬間、思いがけない返事が来た。 「妙は妙だべ?大概ヘンな女だったし、お前にガチ恋してくんの。3年の時のストーカーちゃんとかさぁ」 「タキ」  滅多に聞かない語気を強めたアラシの声に、箸ごと落としそうになる。顔を上げるとアラシは嫌に真剣な表情でタキを見ていたが、すぐにやや呆れたような苦笑を滲ませた。 「そういう揶揄い方は良くないよ」  子どもを叱るような柔らかい口調に、教師らしさが仄かに香る。タキはばつが悪そうに頭を掻きながら粗野な返事をして、トイレに行く・と席を立った。 2人のやり取りに、前回の飲み会のことが頭に浮かぶ。東京での出来事を話した俺に、タキが言った台詞。  ーーー『まーたストーカーとかなんでねぇの?』  そんな事があったかと問い掛けた俺に、2人は驚いた様子で何か目配せをして話をはぐらかした。そして今、タキが〝ストーカーちゃん〟というフレーズを発した後、明らかに話題を打ち切った言動。何もないなんて考える方が不自然だ。 「…アラシ」  少し低さを意識して出した声は、緊張しているみたいで不格好だったけれど、対面の優等生はそんな呼び掛けからも何かを察したのか、持ち上げかけたグラスから手を引いて真っ直ぐにこっちを見た。 「教えてくれないか。〝ストーカーちゃん〟って、誰のことなんだ?」  落ち着かない気分を紛らわそうと、足の間に置いた両手で指を組む。その手が何か祈る形に似ているなんて頭の隅で気にしながら訊ねると、真面目な無表情が問い返してくる。 「ほんとうに覚えてないのかい?何も?」  いつも背筋を伸ばしている上体を控えめに前傾させる姿は、周りに聞かれては不都合なことでも話し出す雰囲気があり、思わず俺も同じ姿勢になる。 「うん…よく人に囲まれてた記憶はあるけど、高校の時の事は部活以外は曖昧なところも多くて。3年の頃の事は、特に」  返答を受け、指先で眼鏡の位置を微調整するだけの間を取った後、アラシが口を開く。 「そう…。でも、まぁ…良かったんでない?〝あの子〟のことは、あんまし良い思い出でないだろうし…」  前置きするようなトーンで話して、色白の指がボタンダウンの襟元に伸びる。一番上まできっちりと留めていた襟のボタンをひとつ外して、ふう・と短く息を吐くと、静かに目を伏せてからゆったりと喋り出した。 「あの頃、カッチンの追っかけみたいな事をしてる子が結構いてさ。他校から見に来る子も多かったし、下手したら揉みくちゃにされそうだったから、僕とタキはそうならないように牽制する…格好良く言えば、用心棒みたいな事もしてたのさ。有名人のマネージャーはこんな気分なんでないかって、あいつとよく話してたよ」  俺たちの通っていた高校の校庭には野球の出来るグラウンドというものが無く、すぐ裏にある町営の運動場を借りて練習をしていた。帰宅部で暇だからと、2人して運動場までついてくるのが恒例になっていたが、俺ひとりで移動して万が一にも騒ぎが起きては困るからと監督や教師に頼まれての事だったという。 「追っかけと言っても、大抵は練習風景を見に来て歓声を上げるくらいだったんだけど。あの子は……あの子だけは明らかに異質だった」  アラシは珍しく些か険しい顔をして俯き加減に話すと、酔いで微かに赤らんだ喉元を手のひらで擦りながら続ける。 「他の子みたいにプレゼントや手紙を渡す訳でもなく、黄色い歓声を上げるでもなく…登下校の度に後ろをついてきたり、野球部の合宿先にまで見学に行ったって話もあったくらいにして」 「合宿先…って、あの山奥の?あんなところまで…」  つい口を挟むとほろ酔いが呆気に取られた目をしたので、恐らく、合宿先での話を彼に聞かせたのは俺だったのだろう。自分の体験談なのに全く身に覚えがないなんて奇妙な話だが、忘れっぽい性分の俺にとっては儘あることで、全方位的に有能なアラシや記憶力に自信のあるタキからすれば、こんなすっとぼけた反応が返ってくるのも日常茶飯事だったに違いない。 「そんな事もあったから東京での話を聞いた時、ちょっと心配になったんだわ。またそういう子が現れたんでないか・って」  眉尻を下げて笑いながら「お節介だけどね」と付け足して、アラシは一旦机上に戻したグラスをようやく持ち上げた。前回会った時、ひとり暮らしかと訊ねてきたのも、どうやらストーカーの存在を案じての事だったらしい。 「ストーカー、か…」  取り皿に置いたままにしてある出し巻き卵に目を落として、ぽつりと呟く。 毎日朝から晩まで付いてきていたという女子生徒の存在を、俺は全くと言っていいほど覚えていなかった。運動場や教室に詰めかけていたという人たちも、ぼんやりとした光景として認識しているだけで、個々人の容姿はほとんど記憶に無い。  もしかして、そうやって俺が顔も覚えていない誰かが〝NO NAME〟として、嫌がらせ紛いの事をしていたんじゃないだろうか。あくまで可能性の話だが、以前アラシの言っていた〝俺に執着している〟という〝NO NAME〟の特徴も、根源にストーカーという要素があるなら合致する。俺が忘れてしまった誰かが、それを恨んで行動に移したのだとしたら……はたして、俺は被害者なんだろうか。  考え耽っているうちに、中座していたタキがやけに上機嫌に戻ってきた。中々戻ってこないと思えば、他のテーブルで飲んでいた客と仲良くなって1杯ご馳走になっていたらしい。やはり底知れないコミュ力を持った奴だ。  自分では選ばない強い酒でも飲んだのか、タキは完全に出来上がってしまっていて、俺とアラシは3人前で頼んでいた料理やへべれけが2杯目にと注文した酒やらを片付けるのに忙しく、重たい話題は居酒屋のガヤガヤとした空気に溶けて消えてしまった。  話の流れに乗じて郵便受けの一件を告白しなかったのは、打ち明ける前にタキが戻ってきたのもあるが、あれから1週間以上経っても他には何も起こらなかったからだ。DMやチラシ以外の紙が入れられる事も、スマホに何かが送られてくる事もなければ、周囲の人たちから同様の報告を受ける事もなく、俺の日常はまさに平穏だった。  ボロアパートはしょっちゅう雨漏りするし、出歩けば誰かに見られていると感じる事こそあるものの、悩みというほどではない。雨漏りは週明けにでも業者に見に来てもらう手筈になっているし、他人の視線なんて高校時代から慣れていて、何ならその頃の方が頻度も数もうんと多かった。あの夜、居酒屋を出た時に感じた、刃物を向けられているような視線もあの一回きりだ。  〝NO NAME〟なる人間がこの町まで俺を追ってきたのではないか。その不安と恐怖は常に胸の片隅に潜んでいたが、いざとなれば頼れる先がある町に身を置いている安心感が着実に俺の警戒心を希釈し、危機感をも飼い慣らしていたのだった。  唯一危惧していた居酒屋からの帰り道にも、不審なことは何ひとつ起きなかった。鋭い視線も街灯もない夜道を歩いて辿り着いたアパートでも、郵便受けに紙が詰め込まれているなんて事もなく、安っぽい銀色の箱は退屈なほど空っぽだった。  前回が前回だけに、居酒屋から帰宅するというシチュエーション自体に思いの外緊張していたのか、部屋のドアを閉める頃には塞き止めていたものが外れたように酔いが回ってきて、床に就いた記憶も無いほど速やかに深い眠りへと落ちていった。  そして、その夜もあの雨の夢を見た。  嫌気が差すほどの大雨の中、今より僅かに新しく見える青い欄干の虎賀橋を背に、河川敷の上の歩道を歩いている。時折吹く横風のせいか、激しい雨に叩かれて振動する傘を強く握り締める拳さえ、うっすらと濡れているようだった。  辺りを見回す動きのまま増水した川を左に見下ろしながら、川沿いをしばらく北の方へ歩いていたが、欄干の黒い別の橋が見えてくると不意に足が止まり、ずぶ濡れのスニーカーが来た道を戻り始めた。  夢の内容に変化が見られるようになってから、俺はスマホにその概要を書き留めるようになった。無論、当てにならない自分の記憶力をカバーするためだ。  言語化して並べてみると、やはり夢の内容は繋がっているように思えた。不定期に見ていた頃には、ただ橋の入口に突っ立っているだけだったのが、この町に越してきてからは、橋の中腹まで行ったり周辺を歩いたりしている。全ての夢の中で同じ服、同じ傘、同じスニーカーを身に纏っているとなれば、夢の〝物語〟が徐々に進んでいると考えるのが妥当だろう。  フローリングにまた出来た水溜まりと、きちんと拭き取ったのに黒くくすんでしまった前回の跡を見るに、雨漏りの方も進行しているようだ。  舞台が橋の周囲にまで広がったのは、この前実際に訪れてきたからだろうか。だが、あの時歩いたのは風船の引っ掛かった木のある河川敷と、そこからの帰り道くらいのもので、夢で歩いて行ったのとは反対方向のはず……。  そこまで考えて、たかが夢の話に何を真剣にと自嘲したが、部屋の玄関に1本だけ立て掛けてあるビニール傘を見た時、ふと思い出した。  あの傘ーーーいつも夢の中で差している黒い持ち手のついたカーキ色の傘は、いつか失くした物じゃなかったか。重い代わりに強風にも負けない丈夫さを気に入ってよく使っていたから、どこかにうっかり置き忘れたのだろうけど、これまで思い出さなかった割に頭の奥底では今でも気に入っているんだろうか。
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