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 8月22日。夕方に入れたショートメールに、アラシから折り返しの電話がかかってきたのは、夜の11時を過ぎた頃だった。 「ごめんね、遅くなって」  申し訳なさそうに話す後ろに、雨音と車の走行音が響いている。まだ外かと訊ねると、仕事を終えた帰り道らしい。小学校の教師というのは夏休み中でも多忙なようだ。 「忙しいとこ悪いな」 「なんもさ。それで、僕に訊きたい事って?」  自分で思うより恭しく労わる声になっていたのか、電話口から笑い混じりに促される。話し出す前に思わず腰を上げたのは、自分だけ悠長にベッドに座ったまま話すのは気が引けたからだろう。 「実は、雨漏りを見てくれる業者を探してて。タキに訊いたら、アラシの方が詳しいって言うから」  徐に窓に近付き薄手のカーテンを開くと、夕方から降り出した雨がいつの間にか本降りになっていた。真っ暗な空が遠くで一瞬だけ光って、数秒後に小さな雷鳴が聞こえる。  電話口からは聞こえない微かな雷鳴に代わって、穏やかな口調が答える。 「叔父が工務店をやってるから、その手の知り合いは紹介できるけど…雨漏りの件はもう業者が見に来たんでないの?今日、水曜でしょ?」 「それが、来てはくれたんだけど…」  このボロアパートの雨漏り問題は日曜に飲んだ時にも話題に挙がり、週明けの水曜日にようやく大家と業者が部屋に来るのだと説明していた。実際、彼らは昼過ぎに俺の部屋にやってきて、天井や屋根、屋根裏の狭い隙間に至るまで点検してくれたのだが。 「〝どこからも雨漏りはしてない〟って言うんだよ」  俺の台詞に、半日ほど前の俺と同じように「え?」と驚嘆して、教師が続ける。 「でも、雨の度に水溜まりが出来てたんでなかった?上の階がないなら、水道管って訳でもないだろうし」 「そうなんだよ。雨が降った次の朝は、毎回床が濡れててさ。はじめは廊下の何か所かで、キッチンの傍と…昨日は手前のフローリングにも水が落ちてて…」  ぺたぺたと素足で玄関まで歩き、雨水の染み込んだ黒っぽい跡を辿ってまた部屋へ戻ると、途中の廊下に数か所、部屋との境目、キッチンの横、その少し先とシミが点在している。まるで、お菓子の家からの帰り道を示す目印だ。 キッチンと寝室が同居する1Kのメインルームに戻ったところで、雨音と一緒に質問が飛んでくる。 「それって、同じ場所が何度も雨漏りする訳でないってこと?」 「うん…なんでか1か所ずつなんだよ。いっぺんにされるよりは良いけど、雨漏りするごとに水溜まりも大きくなってきてるし…勘弁してほしいよ」  手近な壁に寄り掛かって不本意な水玉柄になったフローリングを眺めていると、信号待ちで止まっているのか足音や衣擦れの音がしなくなった電話口から、困った風な笑いが漏れ聞こえた。 「なんか、気味の悪い話でないの。まるで、ちょっとずつ部屋の奥に移動してきてるみたいでしょ」 「え…」  窓の外で、夜空が光った。さっきより少し強い光の後、不機嫌そうな低音が大きく響く。困惑した俺の声を掻き消してしまうほどの音量だった。 「なんだよ、それ…。人んちの雨漏りを怪談話みたいにするなよ」 「ごめんごめん。カッチン、ホラーとか苦手だったね」  悪びれる様子もない笑い声と共に、足音が聞こえ始めた。その後ろから雷鳴らしき物音がする。雷雲が少しずつ接近しているらしい。対面の壁を刳り貫く窓の向こうの雨音も段々と強くなって、硝子を打つ音が目立つ。 「とりあえず、僕から叔父に……してみるわ。ちなみに…望の日時は?」  回線の先から聞こえる雨の音も激しさを増して、時々ノイズのようにアラシの声を遮る。外が暗いせいでよく見えないが、もう土砂降りに片足を突っ込んでいるようだ。 「あー…あとでメールするよ。まだ外だろ?」  やや声を張って返すと、ガサガサと物音がして少し間を置いてから返事が来た。 「数字を…えるのは得意…から。それに…家にも……し……」  雨音にザアザアと砂嵐のような音が混じって、声が聞こえづらい。画面を見てもこちらの電波状況は変わっていないし、向こうの問題らしい。アラシの家の近所にトンネルやそれに近い建造物なんかあったっけ。それとも、豪雨で通信が悪くなっているのだろうか。 「ごめん、よく聞こえなかった。もう一回言ってくれるか?」 「……っちの…は……聞こ……の………、………」 「アラシ?聞こえるか?アラ…」  ーーープツッ。 ツー…ツー…ツー……。  応答がないうちに電話が切れ、無機質な音だけが虚しく耳元に残る。電話が切れる間際のどこか訝るような声が気にかかり、すぐに折り返そうとしたが、通話時間を示した画面の上部ではさっきまで全て立っていた電波の柱が1本も無くなり、代わりに圏外の2文字が鎮座していた。裏手に立派なマンションが建ってはいるが、そこまで高層な訳でもないし、今まで電波が悪くなった試しもない。やはり雨の影響だろうか。  首を傾げる頭上で、今度はチカチカと照明が点滅し出し、何秒もしないうちに消えてしまった。停電かと窓の外に目を移すが、周囲の家々には変わりなく明かりが灯っているし、耳を澄ますと部屋の壁の左上部に設置したエアコンはまだ作動している。この部屋の明かりだけが消えたらしい。部屋の電球は入居前に大家が用意してくれた物だが、俺が越してくる少し前に替えたばかりだと言っていたのに。  真っ暗な部屋を降り頻る雨の音が満たす。頻りに窓硝子や壁を叩くそれは、もはや轟音に近い。豪雨の日は電波が悪くなると何かで見聞きした話を頭に浮かべながら、どうしたものかと再びスマホに目を落とした時、また窓の外が光った。その折、硝子の向こうに何かが見えた気がした。俯く視野の上の方に入り込んだだけだから確証はないが、一瞬、影のようなものが見えたのだ。  窓があるのはアパートの裏面に当たる壁で、向かいに建つマンションまでは十数メートルの距離があり、間には樹木や電柱もない。3階のこの部屋に影が落ちるのは西日の差す時間帯だけで、こんな夜遅くに起こることもない。  風に飛ばされた物でも横切ったかと間隔の狭まった雷鳴を聞きながら顔を上げると、真っ暗な部屋に車のヘッドライトのような閃光が入り込んだ。次の瞬間、眩んで反射的に細めた目が大きく見開かれるのを自覚する。  稲光に照らされた窓硝子に、はっきりと人影が映し出されたからだ。  ヒュッ・と息を飲む音がした。雷光はすぐに消え、低く唸るような雷鳴が轟く。窓の外は再び闇夜に戻ったが、フラッシュを焚いたような光とそれが象った人の影は、瞳に焼き付いたように強く、はっきりと残っている。  女の影だった。ほんの一瞬だったが、長い髪を垂らした線の細い女性の頭から腰の辺りまでが、確かに窓に映っていた。影だけで向きは分からなかったが、目が合った気さえした。  しかし、そんなはずはない。そんな事は有り得ないのだ。ベランダでも何でもないただの窓だ、周辺の壁には足場になるような出っ張りもなければ、攀じ登る手掛かりになりそうな配管も近くにはない。  見間違いだったのか?でも、だったら感じたあの視線は……。  激しい雨の音が鼓動まで急かして、脈が荒く、速くなる。  じわりと液体が広がるように恐る恐る足を前に滑らせた矢先、手の中でスマホが震えた。思わず落としそうになったそれを両手で掴み直し、暗がりに浮かび上がる液晶に目を落とすと、不意に視界が明るくなる。天井を見上げれば、さっきまでの暗闇が嘘のように煌々と白く発光するLED。 「え…?なんで…」  電球が切れた訳じゃなかったのか?じゃあ、どうして今まで…。  困惑したまま、しばらく呆然と突っ立っていたが、その間も機器は手のひらの上で振動を続けていた。明るい部屋にようやく目も慣れた頃、改めて画面を確認するとアラシからの着信だった。  電話を受けるや否や、スピーカーから声が飛び出す。 「あっ、やっと繋がった…。カッチン、大丈夫?何かあったかい?」  心配げな声音に釣られ、ゆっくりとスマホを耳元へ寄せる。耳輪にひやりとした平面が何度も当たっては離れる感触で、自分の手が震えていることに気が付いた。  揺れる視界の先で、うっすらと窓の奥が光を放つ。部屋の照明に負けて微かな瞬きに降格した雷光は、雨水の滴る硝子を仄かに照らして、すぐに立ち消えた。そこにはもう、暗闇を刳り貫いた四角があるだけだ。人の姿など、影も形もない。 「今…窓の外に、誰か居た気がしたんだけど…気のせい、だったらしい…。たぶん、見間違いだ…」  歯切れの悪い言葉が口から這い出したが、内容は本心とはかけ離れていた。気のせいなどという一言で片付けるには、あの人影はあまりにも鮮明だ。しかし、発する言葉でだけでも否定しておかなければ、背中を駆け上がる寒気を遣り過ごせそうになかった。 「…そう。何かの影がそう見えたのかね」  俺の言い分を信じたのかーーーいや、十中八九、自分に言い聞かせるような口振りに何か察したのだろう。アラシは冷静に諭す風に応えてから質問を続けた。 「したっけ、急に電話を切ったのも、それが原因?びっくりしたわ、何回掛けても繋がらないし…」 「えっ?」  困惑するリアクションに、言葉が止まる。その沈黙に、今度は俺が問いを投げる。 「切れたのは電波が悪かったからだろ?最後の方は声も途切れ途切れで、よく聞こえなかったし」 「え、そうかい?僕の方はそんな事なかったけど…雨が強くなったせいかね」  アラシが言うには、自宅マンションのエントランスに着いた辺りから話が噛み合わなくなり、傘を畳んで間もなく電話が切れたのだそうだ。それから幾度か連絡を試みたものの、電波が悪いか電源が入っていないというお決まりのアナウンスが流れるばかりで、3回目にしてようやく繋がったという。  確かに、さっきまで俺のスマホは圏外になっていたが、アラシの家とはせいぜい2、3キロの距離だ。局地的な電波障害だったのか、それとも…。  雨漏りの件は、修理屋の都合が付き次第連絡をくれるという事で話がついた。電話を切ってから室内を隈なく見て回ったが、雷を伴う大雨だったにも拘らず、天井のどこからも水は滴っていなかった。窓硝子にも何か張り付いていた痕跡はなく、見下ろした裏手の地面は表の駐車スペースと同じく砂利が敷かれていて、3階に届くような脚立を置くには足場が悪そうに見えた。 「何を見間違えたんだか…」  窓とカーテンを閉め、身を乗り出して濡れた頭や肩をタオルで拭いていたら、部屋の隅に置いておいた紙の束に目が留まった。翌週の回収に備え、溜まっていたチラシ類を纏めたものだ。その夜は、ビニール紐で固く括った束からどうにか抜き取った数枚のチラシを窓硝子に貼り付けてから寝た。別に怖がっている訳じゃないが、念には念をというやつだ。  翌朝、いつも通りにアラームで目を覚ますと、少し薄暗い部屋は隣室から聞こえる情報番組の音声と平穏で満ちていた。チラシで塞いだ窓も昨晩のままで、やけにカラフルな特売の広告が朝日を浴びて、薄いカーテンをうっすらと色付かせている。  枕元のスマホを引き寄せて先程まで見ていた夢の内容を書き留めるのは、水を飲むという動作の前に追加された新たなルーティーンとして既に定着している。時々欠伸を漏らしつつ、まだぼやける視界をしぱしぱと瞬きをして誤魔化した。  台風の名残だか秋雨前線だかで雨が続いていることもあり、雨の降る夜に決まって見る例の夢も、熱帯夜の寝不足に拍車をかけている。  息の詰まる豪雨の中を歩いているのは変わらないが、この前の夢で来た道をUターンしてから、青い欄干の虎賀橋に近付いて通り過ぎ、今日は橋から少し離れた大木を見つけたところで終わった。先日、幼い女の子の風船を取るために攀じ登ったのと同一らしい大木は、氾濫寸前まで増水した川にほとんど浸かって、激しい濁流に押し流されまいと枝をしならせて耐えていた。  夢の内容はやはり繋がっていて、東京に住んでいた頃にたまに見ていたものとは、頻度も具体性も格段に上がっている。長さだけなら超大作の域だが、ただ河川敷を歩いているだけじゃ面白味も何もないし、続きを楽しみにする気にはまだなれない。例の雨漏りも、前回の跡からまた一歩分ほどベッドの方へ寄った位置に水溜まりを作っていて、うっかり思い出すアラシの冗談が気味の悪さを助長する。せめて、連日見る夢が海外リゾートでの豪遊だったら、少しは気も晴れるだろうに。  身支度を済ませて外へ出ると、頭上には重苦しい曇天が広がっていた。今にも雨が降り出しそうな暗い雲は、希望の朝なんて形容出来ない色をしている。 普段は一度でやめる施錠の確認も、ついしつこくなる。鍵にぶら下がったうさぎのキャラも、この小心者と内心笑っているかもしれない。  嘲笑が聞こえないうちに嵩張る鍵を鞄のポケットに押し込み、錆と塗装の剥げとで迷彩柄のようになった階段を下ると、下り切ったところで何とはなしに足が止まった。ちらと左に遣った視線の先には、部屋数と同じ9つの箱が身を寄せ合うポスト。曇天のせいで鈍い銀色が一層渋く見える。  新聞は取っていないから、朝のうちに中身が入っていることは滅多に無く、その蓋を開けるのは夜帰宅した時と決まっている。なのに、なぜだか今日に限って、吸い寄せられるように手が伸びた。  ただの気まぐれだと竦める準備をしていた肩に、俄かに力が入る。くすんだ銀の蓋を開けると、無機質な箱の中にぽつりと1枚、二つ折りの紙が入っていたのだ。否が応でも思い出される紙の束の残像に、蓋を持ち上げた指が強張る。  封筒に入れられるでもなく剥き出しになった白い紙は、薄暗いポストの中にぼやりと怪しく浮かび上がっている。見たところ、この前入れられていた大量の紙と同程度の大きさだ。  細く長く息を吐いて、腫れ物に触れるように二つ折りを取り出す。白い紙の表面には、裏写りしたインクがうっすらと淡いグレーの線として浮いている。畳まれた内側には、やはり文字が書かれているらしい。  速まる脈拍に、僅かに残っていた眠気が削り取られていく。指先まで震わせるような強い鼓動に鼓膜を打たれながら、そっと二つ折りを開くと、折り目の付いた紙の真ん中に、見慣れたゴシック体で見慣れない文字が綴られていた。 「〝心を〟…〝返せ〟…?」  読み上げる声に、思わず疑問符が付く。例のごとく全てカタカナで印刷された一文は、これまでの〝シッテイル〟という報告めいたものとは明らかに異なる命令形だった。  〝ココロヲカエセ〟。  送り主が知るという俺の秘密と同様に、当の本人には何のことだか見当も付かない。心を返すって何だ。俺に何をしろって言うんだよ。  少しの間思案を巡らせていたが、やがて上の方からドアの開閉音と足音が聞こえてきたので、怪文書は四つ折りにして鞄に隠し、そのまま仕事へと向かう事になった。道中も頼りない記憶を探ってはみたものの、手掛かりらしいものを見つける前に職場の出入り口に辿り着いてしまった。
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