【3】

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 忘れっぽい俺にしては珍しく、その日は一日中、朝の怪文書のことが頭から離れなかった。 紙や印刷の書体から、今回も送り主は〝NO NAME〟と見て間違いないのだろうが、これまで〝秘密を知っている〟という告発とも警告ともつかない一文しか送ってこなかった相手から届いた、初めての命令文。前回詰め込まれていた大量の紙とも異なり、1枚だけポストに入れられていたのも気にかかる。100枚近い紙を入れてきたのが、仮にこの町へ来たことの報告や脅かすためのパフォーマンスだとしたら、今回の一文は内容通り俺への要求と考えるべきか。  しかし、そう思ったところで何も分からないのは一緒だ。心を奪うなんて慣用句はあるが、〝心を返す〟というのは聞いたことがないし、ネットで調べても恋愛系の洒落た歌詞が出てくるだけで、ヒントになりそうなものは見当たらなかった。  例の紙は剥き出しで投函されていたのに、湿ったり濡れた痕跡がなかった。調べたところ、昨夜の雨は明け方まで続いていたそうだから、投函されたのはそれから俺が発見するまでの数時間だと見るとして、アパートの周囲は砂利が敷かれているから足跡なんてものは残らないし、表の路地も通勤に歩いた朝8時過ぎでもまだ濡れていたから同様だ。裏の立派なマンションと違って防犯カメラも無いから、投函の時間だけ分かったところで進展とは呼べない。  〝NO NAME〟の目的は、いったい何なのだろう。昨夜の窓の人影も、まさかーーー。  相変わらずのぐずつきを見せる空の下で延々と考えていたら、いよいよ頭痛がしてきた。  何か妙案でも降りてこないと空を仰ぐと、額にポツリと水が滴った。次いで、頬や顎にも水滴が落ちる。  生憎、降ってきたのは良いアイディアでも手がかりでもなく雨粒だった。しかも、今は傘を持っていない。降り出すのは夜中だという予報を鵜呑みにして、朝のいかにも降りそうな雲を信じなかった罰だ。  あっという間に本降りになった雨に追われ、やむなく近くのコンビニに駆け込む。いつも朝飯代わりに飲むゼリーもちょうど切らしていたし、残り半分の家路はビニール傘を装備して進む方が賢明だ。  自動ドアを潜るのと同時に前方から「あっ!」と声がして咄嗟に視線が向いたが、その声が俺に向けられたものでないことは、すぐに分かった。どこかで聞いたことがある声だと思えば、左に並ぶレジの前で見知った顔が頭を抱えていた。 「あーっ、またE賞かぁ~!」  透明なビニール袋に入った景品らしき物を店員から受け取ったところで、俺の視線に気が付いたのか、菱笠は右手で額に触れ左手に景品を持った格好のまま振り向いて、メデューサにでも睨まれたようにその体勢で固まった。 「……えっと…ど、どうも…」  ただ見つめ合っているのも気まずく、何か話し掛けるべきかと無難そうな言葉を投げ掛けてみたが、やはりベストな選択ではなかったらしい。菱笠は大きな目を数回瞬かせるうちに頬や耳を赤く色付かせ、左手の景品を肩から提げたデカいエコバッグに突っ込んでから慌てたように口を開いた。 「えっ、A賞のぬいぐるみと、C賞のマグカップが出たっけコンプ出来るんだけど、いつものお店ではもう出ちゃって残ってなかったから、ちょこっと遠征っていうか出張っていうか、このお店は初めて来たんだけど!」  身振り手振りを交えつつ弁明するように捲し立てる様を見ていたら、心苦しくなってくる。どうやら菱笠にとって人に見られたくない場面に遭遇してしまったようだ。  彼女のエコバッグは例のごとく重そうに膨らんでいる。河川敷で会った時のように、くじ引きのために相当買い込んだのだろう。あのうさぎのキャラへの入れ込み様は、想像していた以上らしい。  菱笠の面目のためにも早急に店を出ようとレジ近くのラックに並ぶ中から傘を1本取った直後、外からザアッと大きな音がした。振り返ると、左右反転した店のロゴ入りの硝子窓の向こうに滝のような雨が注いでいる。打ち付ける雨粒の跳ね返りが、店先のライトを浴びて光りながら白波のようにアスファルトを覆っている。夜景に浮かび上がるはずの駐車場の白線も、水溜まりの反射で見えにくい。店内の陽気なBGMさえ霞むほどの雨音が、硝子の外から店を包み込む。  すぐ傍の自動ドアは一歩踏み込めば即座に開くだろうに、景色を煙らす豪雨が閉じ込められた気分にさせる。ふと顔を向けた先で目をぱちくりさせていた菱笠も似た思考を辿ったようで、撥水機能には不安がありそうなエコバッグを一瞥した後、困った素振りでこちらに笑いかけた。  踏み出すには勇気の要る土砂降りを前に、俺たちは店の奥に併設されたイートイン・スペースで時間を潰すことにした。適度に冷房の効いたカウンター席からは硝子越しの風景が見渡せるが、絶え間なく豪雨を生み出している暗雲は夜と溶け合って空を覆い尽くし、心持ちすら晴れやかにはしてくれない。雲がどこまで広がっているか分かれば、せめて気休めにはなっただろうに。 「最近ずうっと降ってるねー。ゆうべの雨も明け方まで止まんかったし、今日もこのまま、ずうっと降るんだべか」  レジ横で買ったホットカフェラテの紙コップを両手で包み、光を受けたところだけ白い糸のように見える雨を眺めながら菱笠が呟く。ずうっと・というやや特徴的な言葉が拗ねた子どものようで、少し耳に残った。赤みの引いた横顔は、声色以上に元気がないように見える。  彼女の足元では、手荷物入れの箱いっぱいに詰め込まれた大きなエコバッグが窮屈そうに体を竦めている。 「この雨じゃ大変だよな、荷物多いし」  思わず感想を漏らした俺をカラフルな柄のその鞄が恨めしそうに見上げている気がして、落とした視線を隣席へ戻すと端正な横顔が怪訝そうに眉を寄せていた。 「…雨なんか、なくなっちゃえばいいのに。」  起伏のない冷淡な声でそう零した菱笠の瞳は、硝子窓の先の雨へ向いているようで、どこかもっと遠くにある何かを見つめているようだった。初めて目にする彼女の不機嫌そうな表情に、元から流暢でない言葉が喉に詰まって出るのを渋る。  雨音とBGMに包まれた沈黙の中、菱笠はハッとしたように一瞬目を丸くして、見慣れた笑顔に戻る。 「だって、こんな降ってたらコンビニ巡るのも一苦労だし。雨の日って、もうそれだけでテンション下がるしょ?」  明るく笑い飛ばす口振りでそう続けると、湯気の薄くなったカフェラテを一口飲んで「こないだファミレスで食べたパフェ、おいしかったなー」と、楽しげに弾む声で他愛ない話を始めた。  雨の日はテンションが下がる。その台詞は、まさに近頃の俺の心境そのものでもあった。  内容が繋がっている妙な夢に、昨夜の窓の人影……雨が降る夜にはロクなことが起こらない。いつも快活で楽しそうな彼女にも、そんな偏見じみた印象があると思うと、なんだか少しホッとした。  降り続く雨がアスファルトにいくつもの水溜まりを作って、一見平坦な駐車場の凹凸を明らかにしている。屋根や窓を頻りに叩く音は強くこそならないものの、未だ弱まる気配もない。 「通り雨かと思ったけど…しばらく止みそうにないな」  空っぽになったカップの横に頬杖をついて、ぼーっと外を見ながら何気なく零すと、隣からの視線が刺さる。ちらと横目を向けたら、やはり目が合った。 「そいえば篠嗣、今日元気ないんでない?なんかあった?」  菱笠は俺の格好を真似るように同じ方の手で頬杖をつき、顔を覗き込んでくる。〝何かあったか〟という質問に対する答え自体は勿論イエスだが、東京で起きた諸々を含めると随分長くなりそうなあらすじを、夜のコンビニのイートインで洗い浚い打ち明ける気にもなれず、なるべく明るい笑みを作って答える。 「別に、大した事じゃないから」  こういう時に無難な笑顔を作る技術は、その辺の人よりは長けていると思う。高校時代に取材なんかで笑みを求められることが多かったのもあるけれど、小さな町でなまじ有名になってしまって、どこにいても周囲の視線を感じる環境で生活をしてきたから、愛想笑いなんてものは意識せずとも身に付いた。知らぬ間に名前にくっついていた〝将来有望な好青年〟という謳い文句で上げられたハードルを、うっかり潜ってしまわない事だけを意識してきた。 その笑みをじっと見据えていた菱笠は、徐に空いている手を緩く握って、華奢な拳で俺の左肩をゴツッと殴ってきた。 「そういう愛想笑い、なんかムカつく」  突如、一撃見舞われて唖然とする俺に、彼女は口を尖らせて続ける。 「凹んでるなら凹んでるでいいしょや。なして笑って隠すの?そりゃ、話したくない事だってあるだろうけど…大丈夫なフリされるのが一番うざいわ」  真剣な眼差しと直球な言葉が、モロに刺さった。ムカつくだとか、うざいだとか、そういう事を言われないように、悪い印象を与えないように気を遣ってきた自負というメッキが、菱笠の一撃でひび割れて、そこから剥がれ落ちそうになる。  俺の肩に拳をめり込ませる彼女の腕が肘を伸ばしているのを見て、等間隔に並べられた椅子を無意識に少しずらして、彼女と距離を取って座っていたことにも気が付いた。無自覚の癖も、一度自覚してしまったら気になってしまって、しかし今更椅子を戻して座り直すのも気恥ずかしくて、がっつり食らったパンチに何も返せないでいると、動揺が顔に出ていたのか覗き込んでくる目が満足げに笑った。 「わかったんなら良し!自分だけでモヤってるより、話したらスッキリすることもあるんでない?てか、もっといろいろ話してよ」  笑みの中に真剣さを残した視線を注ぎながら、開いた拳が俺の左袖をきゅっと柔く握る。 「もっと知りたいんだわ、篠嗣のこと。」 「え…っ」  僅かに裏返った声が出た。握られているのは半袖の端なのに、心臓を掴まれたような衝撃が走り、その刺激で脈が加速する。いつも揶揄うように話す菱笠の真面目な口振りが、揺れる脳を混乱させた。 「あ…有り難いけど、なんか悪いし…」  バクバクと激しく鳴る胸を手で押さえ込みたくなるのを我慢しつつ、辛うじて返答する。どうしたらいいのか分からないなんて当然だ、よく考えたら人生でこんな距離感で真正面から女子と話したことなんかほとんど無い。親族を除けば初めての経験だ。 「えー、なして?遠慮なく甘えるもんだよ、こういう時は!泣きたいなら胸貸しちゃるし!」  たどたどしい返事を遠慮だと受け取ったのか、菱笠はあっさりと袖を離すとその手で自分の胸元を数回叩いて見せた。一瞬、そこに視線を落としてしまった自分が情けない。  タキやアラシには部屋の雨漏りさえ相談できるのに、異性から優しくされると途端にどうしていいのか分からなくなるのは、恋愛事を避けてきたペナルティかもしれない。  また殴られないうちにカウンターについた肘を下ろして、座面の回転する椅子ごと体をやや隣へ向けたら、彼女もまたそれを真似て斜に向き合う形になった。真横を向かなくて良かったと密かに安堵する。 「…ありがとう。そのうち落ち着いたら話すよ」  それだけ言ってカウンターに向き直り、空のカップに目を落とす姿は、菱笠の目にも逃げたと映っただろうか。だが、女子と目を合わせて喋るのは、どうやっても30秒が限界だった。  俺の出した結論に、菱笠はちょっと不満そうにしていたが、それ以上踏み込んでくる事はなかった。一歩で距離を詰めてくる割に土足で立ち入るような事はしない。彼女のコミュニケーションの取り方も、少しずつ分かってきた。押しの強いところはタキと似ているけれど、どんな相手にも接近戦でパンチを繰り出すタキに対して、菱笠はジャブで相手との間隔を測っているような節がある。少なくとも、高校時代に急増した〝自称友達〟とは、まるで違うタイプだ。  ただひとつ、菱笠翠に対してずっと気にかかっていることがあった。ふとした時に覗く、目の奥の熱だ。上手く形容できないが、この町で顔が知られていた頃に近付いてくる人たちの中には、目の奥に透けて見える熱の塊のようなものがあった。数年後にはプロ野球選手だ・なんて噂されていたから、東京へ出て行く前に何らかの関係を持っておこうという意識が、熱気のようなものとして俺に伝わってきたのかもしれない。そういう人たちは、いつも俺自身ではなく、俺の後ろにある何かを見ていた。  そういった熱の片鱗みたいなものを、菱笠にも感じる瞬間があった。あの頃、俺を取り巻いていた人たちと似ているようで違う熱気が、彼女にはあるのだ。  店の外は暗闇、豪雨の夜。轟音にも近い雨音と店内の小粋なBGMを聞きながら、カップの底で縁をなぞるように黒く線を引くコーヒーの残滓を見つめていたら、胸に留めておける疑問さえ口に出せる勇気が湧いた。 「…菱笠は、なんでそんな優しくしてくれんの?今の俺には、昔みたいな取り柄も何もないのに」  言葉にしてしまえば、ひどく自惚れたような考えだった。発した直後、何を言っているのかと怒られても仕方ないと腹を括ったが、答えは存外すぐに、弾んだ声で返ってきた。 「そんなの決まってるしょ!あたしは、篠嗣のこと……」  紡がれた返答は、そこまでだった。止まった原因は盗み見た菱笠の視線を辿れば、すぐに分かった。イートイン・スペースの入口で、女子高生が2人、パンと飲み物を持って立ち往生していたのだ。どうやら、店内で買ったものを食べようと移動してきたものの、先客の俺たちをカップルか何かと勘違いして入り損ねていたらしい。「あっ、どうぞ」と壁に向かって椅子が置かれた背後の席を促すと、ひそひそと小声で盛り上がりながら入ってきた。待たせていたのも然ることながら、あの子たちが黄色い声を上げるような関係でないのも心苦しい。 「したっけ、あたしそろそろ行くね!」  椅子を引く音に振り返ると、華奢な肩に重そうなバッグを2つ提げた菱笠が、その片方から折り畳み傘を取り出すところだった。雨はやや弱まってきたようだが、硝子を叩く大きな雨粒は健在だ。 「鞄、持とうか?この雨じゃ大変だろ」 「平気平気!これからもう1軒行くし、駅の方寄ったっけ篠嗣は遠回りになるしょ」  例のごとくギャラぴょんなるキャラクターの絵のついたカバーから傘を出し、パチンと留め具を外した彼女は、イートイン側に設けられた手動の硝子扉の前まで悠然と歩いてから、 「それに、あたし…好きなもののためなら、努力は惜しまないタイプだから」  そう言ってアイドル顔負けの可憐な仕草でウインクをして見せると、重い扉を押し開けて雨の降り注ぐ闇夜へと出て行った。駐車場を横切る際、こちらへ手を振る様は、店頭のライトを浴びているのも相俟ってコンサート中のファンサービスのようだ。  いつの間にかカフェラテのカップも片付けていたようで、大きな窓へ向かうカウンターには俺の分の空のカップが、持ち主と一緒にぽつりと残される。結局、彼女が俺に構う理由は聞きそびれたが、もう一度口に出すには気の引ける質問を再び投げ掛ける事はなかった。
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