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仕事を終え、久しぶりに寄り道をする余裕のできたその夜、先日のゲリラ豪雨の際に買った傘を片手に、コンビニで今日明日分の弁当や飲み物を買って帰ると、裏手のマンションに設置された外灯の明かりを受けるアパートが、ぼんやりと輪郭を照らされて怪しげに佇んでいた。ただでさえ古びた外見をしているのに、雨の中で逆光を受けているものだから、物陰から何か飛び出してきそうな不気味さだ。
そういえば、この前窓の外に人影のようなものを見たのも、こんな雨の夜だったな。などと、余計な事を思い出して自分でげんなりした。
コンビニを出たのが、店内の時計で午後8時半過ぎだったから、もうそろそろ9時に差し掛かる頃だろう。
「……何もない…よな」
零した独り言は傘を打つ雨と共に散り、アスファルトに落ちて消えた。
小さく息を吐き、砂利の敷地にそっと足を踏み入れる。濡れた石の上を進むと、スニーカーの底に圧迫された小石同士が擦れて、ザリ…ザリ…と鈍く呻く。雨音の方が余程大きいはずなのに、忍び足のようにゆっくりと歩いているせいか、靴底に伝わる感覚と相俟って妙に足音が耳に入る。
暗がりを歩く心許なさを少しでも和らげようとスマホのライトで足元を照らすと、降り注ぐ雨が白い線として光の中に入っては砂利に溶けていく。辺りにぼんやりと響く遠くの雑踏と、それよりさらに遠い場所で鳴る雷の微かな残響が、雨音と混じって緊迫感を増長させた。
しんと静まり返っているより、雑音がある方がかえって恐怖を煽られるらしい。不審な物音を聞き逃してしまいそうな危うさが、ビニール傘の周囲を取り囲んでいる。
これから空き巣にでも入ろうかというような忍び足で、ようやくポストの前まで辿り着いた時、右の方でガサッという音がして心臓が跳ねる。物が落ちたというより、誰かが身動きしたような響きだ。
咄嗟にライトを向けるが、人の姿はない。隣の空き地との境を示すブロック塀が立っているだけだ。
気のせいかとスマホを下ろした矢先、視界の端で何かが動いた。息を飲むのとどちらが早いか、すぐにそちらへライトを向け直す。肘に提げたエコバッグの中でペットボトルと弁当のパックがぶつかる嫌な音がしたが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
ーーー何か、いる。
見間違いじゃない。今、階段の方へ何かが動いた。
トタン屋根の付いた階段は、板を並べたような簡素な作りで、板同士の隙間から向こう側を見通せる。そこに身を隠すようなスペースはない。
いつ何を照らし出すか知れない右手の明かりを、左から右へ慎重に滑らせていくと、大きく速くなる心音が運ぶ緊迫感が頭の先まで満たした時、暗闇の中で一瞬、丸い光がふたつ怪しく瞬いた。
反射的に振り向くのと同時に手元がブレて、スマホのライトが下を向く。すると、その光の中に丸みのあるシルエットが浮かび上がった。
「なんだ、猫か…」
階段の下には、黒い猫が佇んでいた。雨宿りをしに来たのか、ぶるぶると体を揺らして飛沫を散らした後、何食わぬ顔でこちらを見る。
その目がキラリと光ったのを見るに、さっきの小さな光の正体もこの猫だったらしい。首輪をつけていないが、野良だろうか。
緊張からの緩和で一気に体の力が抜けると、自然に深い溜息が漏れた。流石にビビりすぎだな・と自嘲しつつライトを切った機器をポケットへ戻し、その手をポストへ伸ばす。
暗がりに動いた影が猫だったことにも拍子抜けしたが、肩透かしはもうひとつ待ち受けていた。覗いたポストの中身が空っぽだったのだ。
朝、確かに入っていた二つ折りの紙が消えている。ヤツが来て持ち去ったのか他の誰かの仕業か分からないが、ヤツが現れたなら現れたで、てっきり返信を記した紙のひとつでも入っているものと思っていたから、期待外れもいいところだ。
二度目の溜息を吐いて傘を閉じ、階段に足をかけると、不意に足元からシャーッという鳴き声がした。さっきまで悠然と雨宿りをしていた黒猫が、いつの間にか毛を逆立てている。頭を低くして背を丸め、今にも飛び掛かってきそうな勢いだ。
「何もしないよ、すぐ行くから…」
まさに眼光鋭く睨み付けてくる猫へ、お手上げのごとく手をひらひらと揺らして見せながら、砂利の上以来の忍び足で1段2段と上り、3段目からはノンストップで駆け上がった。道すがら近所迷惑という四字熟語が頭を過ったが、背に腹は代えられない。
命からがら3階まで到達し、猫が追ってくる気配がないのを確かめてからドアを開け、真っ暗な部屋へ逃げ込む。昔からあまり動物馴染みはないが、可もなく不可もなくという反応をされこそすれ、あそこまで毛嫌いされたのは初めてだ。
猫が嫌がる匂いでもついていただろうか・と、ドアを閉めてからシャツの襟首を摘まみ上げて鼻先に寄せてみるが、人間の嗅覚では分からなかった。
首を傾げながら襟を持つ腕を下ろした時、肘がドアにぶつかって何かが足元に落ちた。ほとんど音がしなかったから軽い物のようだ。レシートは弁当と一緒にバッグに入れたはずだが……。
左手に傘を持ったまま右手を壁に沿わせ、探り当てたスイッチを押して頭上の明かりを点ける。しばらく暗がりで目を凝らしていたせいか、いつもより眩しく感じる照明に思わず顔を俯けると、細めた視野が先程落下した物を捉えた。
落下物は、バスマットそこそこのスペースしかない土間に出しっ放しにしたサンダルの上に着地している、レシートより一回り大きな…いや、スマホほどのサイズの紙のようだ。
身を屈めて拾い上げ裏返してみると、その正体は写真だった。黒い髪を胸の下まで伸ばしたセーラー服の女の子が、こちらを見て微笑んでいる。どこかで見たことがある子の気もするが、どうしてこんなところに写真が……?
ますます傾く首を一先ず元に戻し、水の滴る傘をドアに立てかけようと振り向いた瞬間、視界の片側に強烈な違和感を覚えた。
人は強い驚きや恐怖を感じた時、なぜ目に映るもの全てがスローモーションに見えるのだろう。ドアを振り向く俺の目もひどく動きが遅く、両目が大きく見開かれるまでにも、数分も要したのではないかと感じるほどだった。
「なんだよ、これ…!」
玄関のドアには、その無機質な暗い色が見えないほどに隅から隅までびっしりと、写真が貼り付けられていた。今しがた拾い上げ、右手に持っているのと同じ写真がドアを覆い尽くしている。
不安定に揺れる視線が下がった先に、数センチだけ隙間が開いてドアの塗装が顔を出している箇所があった。ドアの左側、肩より低い位置は、腕を下ろした際に肘が当たった場所だろう。手中にある1枚は、その時に剥がれ落ちたものと思われた。
いったい誰が?
何のために?
どうやって?
止め処なく沸き上がる疑問が脳内を駆け巡り、眩暈さえ覚える畏怖に変わっていく。
俺は確かに今、この手で鍵を開けて入ってきた。すなわち、この奇行の犯人は何らかの手段で室内に侵入し、ドアを写真で埋め尽くした後、施錠して立ち去ったという事だ。
この部屋の鍵は、俺と大家の爺さん、それに不動産会社が1本ずつ持っているだけで他にスペアは無い。入居者が替わる度に鍵も交換しているという説明が本当なら、前の住人ですら勝手には入れないはずだ。
ドア一面の写真と睨み合いをしているうちに、隣室から聞こえるテレビの音がお堅いニュースから、アイドルの曲が流れるCMに変わり、ガタリと椅子を引く音がした。
もし仮に、アパート裏の砂利の上に3階まで届く脚立を運良く立てられたとしても、外側から窓を開けて忍び込むなんて真似をすれば、その不審な物音も隣室に届いたはずだ。
それに、いくら多少の距離があるとはいえ、裏手のマンションにはこちら向きにも窓が付いている。犯行が日暮れ以降だとしても、さっきアパートの輪郭を浮かび上がらせていた駐車場の明かりが注いでいたのなら、窓からの侵入を試みる怪しい人影が誰の目にもつかないなんて考えにくい。
だが、部屋の鍵は……。
苛立ちと焦燥感が綯交ぜになって、僅かに声の混じった溜息が漏れる。
これもヤツのーーー〝NO NAME〟の仕業なのか?だとしたら、何の目的で?
ヤツが知っているという秘密も、返せと要求してきたものも分からない。どうして俺に付き纏うのか、何がしたいのか、何ひとつ分からない相手にどうしろっていうんだ。質問にすら答えずに、こんな仕打ちがあるか。
「くそ…、なんなんだよ…」
乱雑に髪を掻いた流れで頭を下げると、昨夜、脅迫状の裏に書いた一文が脳裏に浮かんだ。
〝ココロって何?〟
そう書いた紙は確かに今朝、8時頃にもう一度見た時にもポストに残されていたのに、帰宅した時には消えていた。他人のポストの中身を強奪し収集するマニアでも出没しない限り、あの紙を持ち去ったのは〝NO NAME〟ということになる。
そこまで考えて、ゆっくりと瞼が持ち上がる。ドアの下の方まで貼られた何十枚という写真の人物と目が合った。
この大量の写真が、質問へ反応だとしたら。 〝ココロ〟とは何かと訊ねた返事だとしたら、紙と入れ違いに写真が現れたのも一応辻褄は合う。
それから俺は買ってきた弁当やらを手当たり次第に冷蔵庫へ押し込んで片付け、ドアを覆い隠す写真を掻き集めた。写真は裏面の上部に両面テープのようなものが付けてあるだけだったが、一分の隙間も作らないよう折り重なるようにして貼られていたせいもあり、すべて剥がすのに数十分かかった。
全部で99枚にもなる写真は、全く同じものを焼き増しした代物のようで、裏面にも何の書き込みも印刷もなく、光に透かしたり遠巻きに見たりもしてみたが、特に細工もないようだった。
この町に越してきて最初の被害、ポストに詰め込まれていた大量の紙も100枚近くあった気がする。連投していたアプリのメッセージを想起させるつもりで、あんな量を用意したんだろうか。
ともかく、写真に細工がないとなると、手がかりは被写体だ。コンクリートの壁か塀の前でセーラー服を着て微笑む少女は、見たところ中学生らしい。袖の付け根が肩から少し落ちているのを見るに、成長を見越し大きめのサイズを買って間もなくか。
フローリングに並べた夥しい量の同じ顔を検索するには、俺の記憶の容量はあまりに足りていない。高校時代のクラスメイトだって異性はほとんど覚えていないのだ、この少女本人と面識があったとしても到底思い出せそうにない。
「…となると、頼みの綱は…」
画像検索を諦めた頭には、新たに友人の顔がふたつ浮かんでいた。
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