【4】

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 タキとアラシに会う約束を取り付けようと思い立った時点で、時刻は既に午後11時を回っていたものの、明日まで待っている余裕は無かった。何かしていないと、またいつヤツが現れるか、次はどんなことをしてくるのかという懸念に襲われる。  チラシで塞いだ窓が視界に入らないようにはしたいが、背を向ければ向けたで、そこからヤツが入ってくるんじゃないかと恐ろしくなる。その上、鍵を閉めた玄関も安全ではないかもしれないとなると、ただ部屋にいるという状況自体が危険なものに思え、暗闇の中で足の幅もないパイプの上を歩かされているような心細さが湧いて、熱帯夜に似つかわしくない寒気が皮膚のすぐ下をそろりと這い上がって纏わり付いた。  どうにか2人ともにアポを取り、明日の夜に・と残して電話を切る頃には日付が変わっていた。日が明けた今日は非番だが、普段なら嬉しい休みも今ばかりは喜べない。1日この部屋で過ごすくらいなら、無給でも残業したい気分だ。  大量の写真は1枚だけ残して袋に詰め込み、一旦、風呂場の片隅に置くことにした。ワンルームには死角が少なく、扉を開けない限り視界に入らない場所といったら風呂場とトイレの2択だったのだ。  深夜になっても30度近くを保ったまま下がらない気温の下とは思えないほど、指先が冷えている。肌に張り付くような暑さも、窒息を誘発しそうな水分を含んだ重い空気も、今夜ばかりは感じない。  それよりも、ほんの僅かな物音が気にかかって仕方がないのだ。  窓枠を僅かに揺らす風や硝子を打つ雨の音が鼓膜を突く度に、心臓が止まりそうになる。0時前に隣室の生活音が止んで以降、静まり返った部屋に溜まっていく焦りと緊張感が肺にまで入り込んで、今にも窒息してしまいそうだった。  家にいる時は、ヤツが来ることはない。何度そう言い聞かせても、今夜こそは来るかもしれないと不安が邪魔をする。自分の鼓動の音さえ、ヤツの足音に聞こえて目が冴える。  アプリのメッセージがポストへの投函に変わり、室内に侵入されたことも明白な今、どんな気休めも安堵を連れて来てはくれなかった。  キツく両目を瞑り、壁に向かって寝返りを打つ。瞼の裏に浮かぶ何かの微かな残像が、あの写真の少女に見え始めた。  誰だ。あの子は誰なんだ。〝NO NAME〟に、俺に、いったい何の関係がある?  思考回路が働くのを妨げるように、窓の外を包囲する雨音が徐々に激しくなって、自分の心音も呼吸音も聞こえなくなる。まるで雨の中に放り出されたみたいだ。  うるさい。うるさい。うるさい。 「もう、やめてくれ…」  怒号にも似た雨の轟音に耐えかねて泣き言と共に目を開くと、そこに古びた壁紙はなく、代わりに見覚えのある景色が広がっていた。あの河川敷だ。このところの夢にいつも出てくる、濁流の暴れる川が眼下を占拠している。  遊歩道も芝も関係なしに地面へ打ち付ける土砂降りと、暴徒化した群衆のように押し寄せる泥水の喚きが一帯を包み込み、他の音は一切聞こえない。  夢を見ているという事は、いつの間にか眠ってしまったのだろうけれど、よりにもよって、この豪雨の夢をこんな風に実感を持って眺めることになるとは。こういう、夢と分かって見るものは明晰夢とかいうんだったか。  ここ何度か見た時と同様に、俺は河川敷の上の遊歩道に立っていて、混濁し急流と化した川を眺めている。今まで見た夢との違いといえば、怒濤の勢いで降り注ぐ雨の中に手ぶらでいるのにその感触はなく、体も全く濡れていないということだ。前に見た歩く足元や、傘を持っていない腕などは水が滴っていたから、今回は自覚がある分、少し角度みたいなものが異なるらしい。  とはいえ数え切れないほど、しかも最近は毎日のように見ている光景だ。夢という自覚があるだけで代わり映えもしない。他に何か相違点でもないか・と何気なく周囲を見回す動きは、ちょっと左へ顔を振り向かせただけで、すぐに止まった。  俺の左側、遊歩道の数メートル先に人が立っていたのだ。カーキの布に黒い持ち手の傘を差し、既視感のあるシャツとボトムを纏って濁流を見下ろす男ーーーその男は、高校時代の〝俺〟そのものだった。  もうひとり〝俺〟がいる。それは初めて見る、明らかな相違点だった。  傘を差す〝俺〟は膝から下が雨や泥で随分濡れていて、大雨の中を長く歩き回った様子が窺える。この〝俺〟は、いつもの夢での視点役を務める〝俺〟なのだと、見慣れた足元で分かった。  今日は厭に客観的な視点だな・と納得した矢先、しばらく川を眺めていた〝俺〟が突然顔色を変えて足を踏み出し、傾斜のある芝との境ギリギリまで川へ近付く。  〝川に落ちるぞ〟。そう話し掛けようとして、声が出ないことに気付いた。あちらの〝俺〟には干渉できない仕様らしい。  あと一歩で濁流の押し寄せる河川敷に転げ落ちる場所に立つ〝俺〟は、よく見ると口を動かしている。川へ向かって何か喋っているようだが、俺が声を出せないように向こうの声もこちらには聞こえないようだ。  横からでは、どうも口の動きが分かりづらい。読唇術の心得もないが、何を言っているのかさっぱりだ。一先ず〝俺〟の視線を辿ってみるが、どう見てもそれが注がれているのは河川敷の対岸ではなく、大木をもほとんど飲み込んで猛烈に流れる濁った川だった。  ひとりで何してるんだ、〝俺〟は。  己の脳の産物であるが故に、高校時代の自分の意味不明な行動をやや心配しながら見ていると、次第に〝俺〟の真剣な態度に感付いていく。  話すというより叫んでいるような大袈裟な口の動き。一点を見つめたままブレない目線。手元も見ずに手探りでボトムのポケットから出したスマホを耳に当てるまでの、慌てた仕草。〝俺〟の全てが、只事ではない何かに直面しているのだと知らせてくる。  なんだ?川の中に何が……。  向き直って濁流に目を凝らし始めたところで、視界の左で人影が動く。顔を向けると〝俺〟がこちらに向かって走り出すのが見えた。  まずい、正面からぶつかる!  そう身構えた1秒後には〝俺〟が俺の体を擦り抜けていた。  咄嗟に振り返る先では、スマホを耳に宛がって走る背中が傘を放り投げるところだった。  追い掛けようと思いはしたが、声が出ないばかりか足も動かない。豪雨の下で濡れていない事からしても、俺はこの夢に後から合成された傍観者なのだと理解した。  一方、駆け出した〝俺〟は10メートルも離れていない青い欄干の橋の手前でゆっくりと減速したかと思えば、余韻のように数歩とぼとぼと進んだ後で立ち止まり、スマホを握る右手も今はだらりと体の横に垂らしている。背中しか見えないけれど、やはりその視線はまだ川へと向いている風だった。  黒い柄のゴツい傘は遊歩道のアスファルトに転がったまま、滝行に耐える修行僧のごとく多量の水に打たれている。  今見ているこの夢が、これまでの夢とその幕間を繋げて客観視している状態だとするなら、大木の近くに立っている時には差していた傘が、少し離れた場所に立つ時には手中になかったのは、今し方の〝俺〟の行動が原因らしいが、今度はそれに至る理由が分からない。  突っ立って川下を見つめたまま動かない〝俺〟を諦め、もう一度大木の方を振り向いた時、ほとんど飲み込まれながら濁流の間に覗かせている青々と葉の茂った枝に、一瞬、キラリと光るものがあった。  濁った飛沫に揺られる枝に焦点を合わせた直後、ふっと景色が変わった。躍動する川は消え、ぼやけた天井が静かにのさばっている。  けたたましいまでの豪雨や濁流の音もすっかり止んで、入れ替わりに蝉の合唱が辺りに充満していた。ベッドに横たわる体は降り頻る雨の代わりに汗でじっとりと湿り、暑く湿度の高い空気と相俟って心地が悪い。  チラシを貼ったままにしているせいで、窓から差し込む日光が仄かに色付き、天井や壁までうっすらと赤く染めている。特売の赤い字が目立つチラシなんか使わなければ良かったと、改めて後悔した。  今まで見たのとは違う不可思議な夢ーーーその余韻が、気怠い体に残っている。  何度となく見てきた光景を第三者の視点から眺める映像は、これまでの断片的な場面を繋ぐような納得感もあったせいか、実際に経験した出来事のようにハッキリと記憶に刻まれていた。最後にちらりと見えた大木の枝の微かな光も、前にどこかで目にした気さえする。 「そうだ、メモ…」  眠気が纏わり付く喉から絞り出した呟きは、湿度の高い部屋に似つかわしくなく渇いていた。  起きぬけに夢の内容を書き留めたメモになら、あの枝のことも書いてあるかもしれない。寝ぼけた脳でようやく考え至って、枕元に手を伸ばす。ついでに、さっきまで見ていたことも覚えているうちに詳細に記しておきたい。  就寝時の定位置にしている枕の横を探るが、スマホに指が当たらない。頭だけ振り向かせて見ると、そこにあるはずの黒い長方形の姿がなかった。  いつも寝る前にここに置くのに・とは思ったものの、昨夜は神出鬼没のヤツのことで頭がキャパオーバーを起こしていたし、そこへ鮮烈な夢も重なって細かいところは覚えていない。タキとアラシに電話をした後、どこに置いたっけ…。  瞼を下ろせばそのまま夢の世界へUターンしてしまいそうな意識の揺蕩う心地好さに寄り掛かりながら、ごろりと壁に背を向けると、窓の下、壁沿いに並べた背の低い棚の上でスマホが仰向けに寝転んでいるのが見えた。充電ケーブルに繋がれて、さっきまでの主と同様に安眠を貪っている。  普段はベッドに寝転んだまま行なう記録作業だが、仕方ない。ごろ寝を諦め、大欠伸を漏らしてから緩慢な動作で上体を起こし、ベッドから足を下ろすと、強烈な違和感に動きが止まる。  足の裏……床が、妙に冷たい。素足に感じるフローリングの肌触りも、いつもと違う。 棚の上へ投げていた視線を、ゆっくりと足元へ下ろす。すると、目に飛び込んできた景色に、穏やかな眠気が背筋を震わす寒気に変わった。  床が、濡れている。ベッドのすぐ横のフローリングに、ハンカチを1枚広げたほどの大きな水溜まりができていて、その端に俺の右足が着地しているのだ。  慌てて足を引っ込めた折に滴った雫が落ちて、水面がほんの僅かに揺らぐ。コップ1杯は優に超える量の水だ。  窓の外から聞こえる蝉の鳴き声と遥かな町の喧騒に、間隔の狭い心音が加わる。恐る恐る顔を上向けるが、古びた木製の天井は何食わぬ様子で見返してくるだけで、大量の水が通ったであろう形跡は見当たらない。これだけの雨水が滴ったなら相当大きなシミができているはずなのに、濡れている箇所すらなかった。  雨漏りじゃない?だとしたら、こんな量の水がどこから湧いて出たっていうんだ。  ーーーいや、もし俺が出ている間に誰かが……〝NO NAME〟が部屋に忍び込んでいたとしたら。水を撒いた理由は分からないが、これも脅迫のひとつだとしたら。  頭の中で点と点が結び付いてしまえば途端に恐ろしくなって、込み上げる恐怖に押し出されるようにしてベッドを飛び降りる。最低限、外を出歩ける格好をと着替える間も、どこかから視線を送られている気がして、身なりを整えるのもそこそこに、スマホと例の写真だけを手に家を出た。
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