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 雨が降っている。嫌気が差すほどの大雨だ。  橋の入口から僅か十数メートル先の出口も霞んで、そこへ向けて伸びる青い欄干は所々錆びて黒ずんでいる。  怒り狂ったように地面を打つ大量の水と、眼下に止め処なく押し寄せては過ぎ去っていく濁流が生み出す轟音に耳を塞がれて、声を出す気も起こらない。多量に水分を含んだ空気が肺を重くして、アスファルトの上に立っているのに溺れそうな気分だ。  強い雨に引っ切り無しに傘を叩かれ、柄を握る左手が微かに震える。それが煩わしくて、俺は下部の湾曲したプラスチックの黒い持ち手をなるべく強く握り締めた。  ゆっくりと目を開くと、古ぼけた天井が広がっていた。点在する薄茶色のシミが興味も無さそうにこちらを見下ろしている。  次いで、ぼやけた視界を補完するように耳の捉える音が徐々に大きくなっていく。車の走行音、犬の吠える声、隣室のテレビの音……。 「また、あの夢か……」  音漏れにしてはハッキリと聞こえてくる女性キャスターの声が天気予報を読み始めた頃、ようやく呟きと溜息が漏れた。  薄暗く陰湿な雰囲気の漂う、豪雨の夢。これまでも何度か見た事があったが、この町ーーー高校時代の3年間を過ごした縞木町(シマキちょう)に戻ってきてからは格段に頻度が上がり、東京から越してきて1ヶ月足らずで既に5回目になる。  決まって雨の降った夜に見るのだと、その法則性に気が付いたのは前回それを見た先週末のことだった。生活音から会話まで隣室に筒抜けのボロアパートは、当然外壁も頼りない薄さで、雨の日は部屋中が雨音と湿気で満たされるからかもしれない。北海道の田舎町にしては珍しく、エアコンが備え付けてあるだけマシだが。  枕元のスマホを引き寄せて時刻を見ると、壁越しの声で見当が付いていた通り、午前8時を過ぎた頃だった。猛暑に辟易する人間たちを尻目に、朝っぱらからフル稼働で蝉の鳴く8月16日、木曜日。無意味に覚えやすいと揶揄される9月9日生まれの俺を含め、天秤座諸君の今日の運勢は最下位らしい。節約のために温度を高めに設定しているとはいえ、エアコンを付けっぱなしにしていても汗が滲む目覚めの悪さは雨の夢を見た朝の恒例で、今日に限った話でもないけれど。  北海道が避暑地と謳われたのはいつの頃までだったか。都心ほどとは言わないが、北海道のおよそ中心部に位置するこの辺りでも、35度に達する日も増えてきた。  7年ぶりに郷里の地に降り立ち、空港を出た瞬間の絶望感といったら、スマホを水没させたのと同じか、或いはそれ以上と言っても過言ではない。元々関東で生まれ育ったせいもあり、16歳になる年の春にこの町に引っ越してきた時は夏のカラッとした陽気に驚いたが、俺が都会で打ちひしがれているうちに温暖化は進み、軽やかな夏は天然記念物と化したようだ。どちらにせよ都会よりは幾らか涼しいのだけど、補整のかかった思い出と同等の気候を期待していた人間を落胆させるには、隣から聞こえる〝33度〟という予想最高気温でも充分な数値なのだ。  漏れ聞こえる声が各地の天気を案内し始めたタイミングで重い腰を上げ、のそのそと目と鼻の先のキッチンに向かい、冷たい水を飲んで寝惚けた脳を叩き起こす。ここまでの一連が、この部屋に越してきてから固まった、つまらない朝のルーティーンだ。今日は出勤日でないだけ、少し気は楽だが。  シンクにコップを置くのと同時に、ベッドに残したスマホが震えた。休みを代われなんて連絡じゃないだろうな・と恐る恐る画面を覗くと、メールでも電話でもなく、スケジュールに付属したアラームだった。  隣室のテレビがグルメコーナーを垂れ流すのを聞きながら画面をタップすると、自分で入力した……であろう今日の予定が表示された。  〈 20時~ 居酒屋つゆり 〉 「今日だっけ、飲み会」  忘れっぽい性分を踏まえアラームまで設定したそのスケジュールを、入れたことすら綺麗サッパリ忘れていた。高校卒業以来に旧友と会うっていうのに、その約束さえマトモに覚えられないのは我ながらどうなんだろうか。あまりの記憶力の悪さに心配になって、20歳過ぎに一度診てもらった時には脳に異常はないって話だったが、何も問題がなくてコレというのが問題な気もする。まあ、今日の飲み会に関しては、そもそも気が進まないというのもあるけれど。  約束まではまだ時間があるが、一先ず顔でも洗って眠気を覚まそう。もう何度かアラームが鳴る設定になっているのを確認して洗面所へ踏み出すと、キッチンを横目に短い廊下へ出たところで右足が何かを踏んだ。感触はあるが固さのないーーー 「…水?」  足を避けると、細かな傷の多い黄ばんだような色のフローリングに、500円玉ほどの大きさの歪な水溜まりがあった。形が歪んでいるのは今しがた踏ん付けたせいだろう。  さっき水を飲んだシンクからは少し離れているが、飛沫が落ちたんだろうか。それか、寝惚けて何か零したか。 「……まあ、いっか」  寝起きの鈍い頭を働かせるのが煩わしくなって、欠伸と一緒に疑問を噛み殺す。顔を洗って、それでも眠気が覚めなかったら昼過ぎまでもう一眠りしよう。そんな怠惰な計画に思考を切り替えて、手狭な脱衣所を兼ねた洗面所へと足を踏み入れた。  数年前に新しくオープンしたという路面店の居酒屋は、その昔、和食屋だった名残なのか手前のテーブル席の他に畳敷きの小上がり席があり、奥まっていることと通路との間に低いながらに衝立が付いているのもあって、やや隠れ家のような雰囲気を醸している。店内で一番奥まったこの席を予約してくれた当人にそのつもりがあったかは知らないが、他人の視線が気になる俺には素直に有難い環境だ。 つまみや酒が一通りテーブルに揃い、再会を祝してとか何とか、それっぽい音頭を添えて乾杯を済ませると、テーブルを挟んだ向かいで唐揚げを頬張りながら、よく日に焼けた顔がもごもごと喋り出した。 「でもさー、カッチンも冷てぇべやな。こっち戻ってきたんなら、一言連絡くれればイイべ」  懐かしい語尾で拗ねたように話す、派手なアロハシャツから伸びる手にやたらとブレスレットを着けた、この男。父親の転勤に伴って中学卒業と同時にこの町へ越してきて、親の親の代以前から形成され凝り固まったコミュニティーに入り損ねていた俺に、最初に声を掛けてくれたのが、この瀧尾 俊樹(タキオ トシキ)、通称〝タキ〟だった。  人見知りというほどではないものの人付き合いが得意ではない俺とは反対に、たまたま道を聞いてきた外国人とも数分で意気投合して連絡先を交換してしまうほどの驚異的なコミュ力の持ち主で、高校時代には同学年の生徒のほとんどの連絡先をアプリの中に所有していたほどだ。  タキはその並外れたコミュ力と、母方の実家が自動車整備工をやっていたことに由来する車好きを活かして、今はタクシードライバーの職に就いている。数日前、役所で転入の手続き諸々をした帰りに、駐車場で客待ちをしていた彼とうっかり遭遇し、俺の秘密の帰郷はあっさりと露呈。その場でこの店と日時を指定され、同級生3人での飲み会に強制参加する羽目になったのだ。  タキの不満げな視線が肩に刺さるのを感じつつ、俺はくし切りのレモンと四角い氷の浮いたレモンサワーのジョッキに手を伸ばす。 「…悪い。実は、アプリ消しちゃってさ。それに…あんな風に見送られて出て行った手前、何の成果も無く帰ってくるとは言い出しづらくて…」  炭酸で潤した離した口で語尾を濁すと、タキの横で手際良くポテトサラダを取り分けていた眼鏡姿が小皿をひとつ俺に差し出した。 「この片田舎じゃ、噂なんかすぐに広まるから。そう思うのも無理ないしょ」  タキの幼馴染みで、高校生当時から本当は幾つか歳を誤魔化してるんじゃないかと疑いたくなる冷静さとスマートさを兼ね備えていたこの男、小糠 嵐( コヌカ アラシ)ーーー通称〝アラシ〟は、よそ者の俺にこの町の事を色々と教えてくれた兄貴分のような存在だ。  幼い頃から行動力の割に詰めが甘いタキの世話を焼いてきたお陰か、頭が切れて要領も良く、いつもクラス委員や班長の類いを任されていたアラシは、母校の小学校で教師になり、今年から3年生のクラスを受け持っているのだと、役所の駐車場でさも自分の手柄かのように鼻高々なタクシードライバーから聞かされてはいたが、実際に再会した彼には25歳になった今もなお、同い年とは思えない達観した雰囲気があり、サラダの盛られた小皿を受け取るにも恭しく両手を添えてしまう始末だ。  そんな俺を見て、何を畏まっているのかと笑いながら、同じく小皿を受け取ったタキが声を弾ませる。 「そういやカッチン、有名人だったもんなぁ。〝縞木から初めてプロ野球選手が出るんでないか!〟って、町中なっまら大騒ぎでさ」  割り箸をバットに見立てて控えめにスイングして見せる隣席に、新任教師はやれやれと言いたげに短く息を吐いてハイボールを呷る。アラシが直接触れないよう大きく迂回したルートに、タキが最短距離で突っ込んでくるのは、カラスが黒いというのと同じくらいに昔から決まっている事だ。  アラシの思慮深い言葉選びと同様に、思った事がそのまま声に出るタキの癖も健在らしい。表裏がないのが彼の長所だが、同時に場の空気というものを読む気も更々ないのだ。俺がグラスに口をつけて苦笑いを誤魔化すのも、きっとタキにはただの水分補給に見えているのだろう。  レモンサワーを一口含むと、柑橘の香りと一緒にほろ苦い記憶が小さく弾けた。  高校の3年間、俺は野球部に所属していた。小学生から地元のクラブチームでやっていた甲斐もあってか、1年生から4番ピッチャーを任せてもらい、3年生の春には県大会の準々決勝、夏には決勝にまで進めた。縞木第一高校の野球部が支部予選を突破し、北北海道大会に進出したのは創部以来初めての事で、部の立ち上げメンバーでもあり、当時古希を迎えようとしていた監督をはじめ、学校内外にわたるこの町の沸騰ぶりといったら、この国際大会の誘致にでも成功したかのような凄さだった。  東京の大学から誘いが来て推薦入学が決まる頃には、周囲の盛り上がりは想像以上になっていて、地方紙やローカルテレビの取材を受けたり、町中でもよく話し掛けられるようになった。プロ野球選手という俺個人の目標が、町を挙げての夢かのように膨れ上がっていく事に恐怖にも似たものを感じていた俺は、18の春に半ば逃げるように上京した。  大学に入ってたった2年で怪我をして、それを機にすっかり熱意も失せ野球を辞めてしまった時も、卒業後に商社へ就職が決まった時も、家族以外には誰にも連絡をしなかったし、この町へ戻ってくるつもりも毛頭なかった。  タキやアラシには悪いと思ったし、上京したっきり北海道までの旅費が無いとそれらしい言い訳を免罪符に里帰りすらしない不孝ぶりは両親にも申し訳なかったけれど、町に残った友達や家族会いたいという気持ちより、期待してくれていたこの町の人たちのガッカリした様を見たくないという、甘えや恐怖心が勝ってしまったのだった。ーーーそんなことも言ってられなくなって、結局こうして戻ってきてしまったのだけど。  脳裏を過った回想に余程苦々しい顔でもしていたのか、しばらく思い出話をしていたタキがまたこちらに話を振る。 「あっ、そーだ!新しい連絡先教えてくれや。でないと、次誘う時困るべ」 「あー…」  煮え切らない反応に今すぐ言えとばかりに、アロハシャツの胸ポケットからネックストラップに繋がれたスマホを取り出すタキに、横に置いた鞄へ渋々手を伸ばす。飾り気のないカーキ色をしたケースを掴むと店内の冷房のせいかヒヤリと冷たく感じて、咄嗟に指を引っ込めた。 「…連絡、ショートメールで貰えないか?電話番号なら昔と変わってないから」  提示された連絡手段がやはり予想外だったらしく、小麦色の顔は豆鉄砲を食らった鳩も驚きのどんぐり眼で、口も開けっ放しになっている。 「ショートメールぅ?久々に聞いたわ。消しちまったんならアプリ入れ直したらイイべな!」 「まあ、そう…なんだけど……」  鞄に突っ込んだまま抜くことも出来ずにいる左手へ目を落とすと、対面からいかにも助け舟という柔らかい口調が寄越された。 「何か、使えない…いや、アプリを使いたくない事情があるんでないの?」  子どもを優しく諭すような、優しく語尾の上がったアラシの声に、沈むようにゆっくりと首を俯かせたら、鞄に入れた手をようやく抜き取ることができた。  小さな山を築いてサワーに浮かんでいた氷が、店内の雑音や会話で掻き消える微かな音と共に崩れて、炭酸に溺れる。辛うじて水面から顔を出して浮いている様は、都会の隅で波に飲み込まれないよう必死に足掻いていた当時の俺にも似ていた。  胡座をかいた膝に両手を置き、改めてテーブルを挟んだ2人に向き直ると、2人も少し姿勢を正す。俺が本気で悩んでいる時や相談事を持ち掛けたい時、それを察して真剣に聞くぞと意思表示をしてくれるところも、2人とも変わっていなかった。 「実は…戻ってきたのも、それが原因なんだ」  大学に進んでから、もう来ることもないだろうと思っていた小さな町の小さな居酒屋の片隅で、俺は東京で起きた奇妙な出来事について話し始めた。  最初に違和感を覚えたのがいつだったかは、正直記憶にない。スマホや鞄すら置き忘れて帰ったり、自分と違ってゾロ目になっていない家族の誕生日もロクに覚えられないから、ちょっと可笑しいと思った程度の事は、自動的に脳内のゴミ箱に放ってしまうのだろう。  はじめのうちは誰かに見られている気がするとか、後をつけられている気がするとか、その程度の事だったと思う。高校時代、特に3年生の春以降は人に囲まれたり、町を歩いていても人目を引く機会も多かったから、視線や気配を感じながら生活するのにも他の人よりは慣れていて、そこまで気に病む事でもないだろうと高を括っていたのだと思う。  だから、それらの違和感が目に見える形となって現れるまで、呑気に〝平穏な日常らしきもの〟を謳歌していたのだろう。  自分の日常が平穏ではないのではと疑問を持ったのは、確か去年の春先。大学卒業後、中規模商社の営業部に就職し、社会人2年目に突入したばかりのある朝のことだ。  目が覚めると、俺のスマホに1通のメッセージが届いていた。アプリを開いたら、そこには見覚えのない名前と、たった一言、〈オマエノ ヒミツヲ シッテイル〉と、そう綴られていた。  初期設定のアイコンに〝NO NAME〟という名前。連絡先を交換した覚えもなければ、秘密と言われる事柄に心当たりもない。誰かの悪戯か、新手の詐欺か何かだろうか。その時の俺もそんな風に思ったのだろう。特に返信をする事もなく会社へと向かった。  よくある迷惑メールだと忘れ去ってしまう事なく、その出来事が俺の記憶に残っているのは、それがただの1通ではなく最初の1通だったからだ。  会社に着くと、エレベーターでも廊下でも厭に周りの視線が気になった。スーツにクリーニングのタグでも付いているのかと身なりを確認していたら、営業部の先輩に呼び止められ、彼女のスマホを見せられた。表示されたアプリのトーク画面には、俺に届いたのとよく似た、けれど違うメッセージがあった。  〈シノツグ アキラノ ヒミツヲ シッテイル〉  この妙なメッセージが会社中の人間に送り付けられているのだと、先輩は怪訝そうに話した。上司にも呼び出され心当たりを訊かれたが、俺は首を横に振り、頭を下げるしかなかった。  〝NO NAME〟からの不審なメッセージは、それ以降も何度となく届いた。俺や会社の人たち、大学時代の野球部の仲間や同じゼミの生徒、アルバイトをしていたコンビニの同僚たちまで、上京してから知り合った人ばかりに送られているようだった。 そこまで聞いて、アラシが「ああ」と納得した風に漏らす。 「前に突然〝変なメールが来てないか〟って連絡してきたのは、そういうことか」 「あっ、それオレにも来たわ!」  手のひらを打ち鳴らして同意するタキにも一瞥くれて頷き、俺は説明を続ける。 「はじめのうちは月に数回だったそのメールが、週に何度も…最初に送られてから3ヶ月も経つ頃には、毎日何通も来るようになって…。他の人たちの迷惑にもなるし、会社を辞める事にしたんだ」  商社に辞表を出した後、熱心に引き留めてくれていた先輩がせめて次の職場をと、知人が経営している会社を紹介してくれたが、そこへ移ってからも同じ事が起きた。関係者へ送られる〝NO NAME〟からの謎のメッセージまで、俺と一緒に移ってきたように。  俺の秘密とは何かと返信してみた事もあったが、回答は得られず既読にもならなかった。既読を付けずに目を通していた可能性はあるが、どちらにせよ〝NO NAME〟は俺からの返事を望んでいる訳ではないらしかった。  去年の春先から今年の梅雨時期まで、数回職を変え、アプリを入れ直してスマホも替えたが、メッセージが止む事はなかった。それどころか梅雨が明け夏が始まる頃には、同じマンションの住人や不動産会社にまでメッセージが届くようになり、職場も住まいも安寧の地ではなくなった俺は、やむなく実家のあるこの縞木町に出戻ってくる事になったのだ。 「うえ~…何だべ、ソレ。気持ちワリィ」  とびきり苦いお茶でも飲まされたような顔で口を横に開き、口直しとばかりに景気よくビールを飲み干すタキの横で、右手の指で色白の顎を撫でながら伏し目がちに聞いていたアラシは、怪訝そうに眉を寄せる。 「この話、警察には?」  冷静沈着な彼らしい真っ当な質問に、俺は首を縦に動かす。 「最初の会社にいた頃に、一応相談はしてみたけど…〝秘密を知ってる〟って内容じゃ誹謗中傷とは言えないし、会社を辞めろとか脅迫された訳でもないから、警察ではどうにも…って」  相談窓口で応対してくれた女性の警察官の、苦笑いと愛想笑いを混ぜたような顔が脳裏に蘇る。無関係な会社の同僚にまで送り付ける例はあまり聞かないものの、こういった嫌がらせ自体は結構多いのだと愚痴混じりに話して、〝また何かあったら来てください〟と手土産がてらに投げ掛けられた言葉を、素直に飲み込む気にはとてもなれなかった。  実際、その後も〝何か〟はあった訳だが、メッセージの送信先が変わっただけで内容は同じだったし、それがあの警察官の言う〝また何かあったら〟に該当するのか判断に困ったのと、もう一度行っても結局同じ言葉だけ持たされて帰されるんじゃないかという、一種の諦めみたいなものが湧いてしまって、あれっきり窓口には出向いていない。  俺の返答にか警察の対応にか、アラシはどこか残念そうに「そう…」と呟いて、次の質問を寄越した。 「アプリを消してから、メッセージは?それこそショートメールとか」  今度は首を振って答えると、神妙な面持ちの新任教師はシルバーフレームの眼鏡の位置を指先で整えて、「あくまで憶測だけどさ」と前置きをする。 「その〝NO NAME〟って人は、カッチンの直接的な連絡先は知らないんでないかな」 「直接的…って、電話番号とか?」  隣の席からまさに横槍を入れるタキに頷いて、アラシは半袖の襟付きシャツから伸びた両腕を胸の前で組み、机上に落としていた目を俺に向け直す。 「アプリの連絡先…それも、そんな大勢の分をどうして知ったのかは分かんないけども、カッチンに対して尋常でない執着があるのは確かだと思うわ」「執着…」  思わずポツリと復唱する俺の斜向かいで、やや冷めた卵焼きを一切れ摘まんでいたタキが、突然ニヤリとして箸を握る右手の人差し指をこちらへ向けた。 「まーたストーカーとかなんでねぇの?カッチン、昔っから変わった女にモテてたべ?」  言い終えるや否や、ニヤついた顔はブレスレットやら時計やらをジャラジャラと着けた片手を挙げて、背後を通りがかったエプロン姿の店員を呼び止める。衝立の間から身を乗り出して2杯目のビールを頼む派手な花柄が身を翻すのを待って、俺は引っ掛かった言葉を意図して復唱した。 「〝また〟って…前に何かあったっけ?」 「えっ。」  右斜め向かいに座るアロハシャツに問い掛けたつもりだったが、対面からも同時に声が上がった。見ると、ハイボールのグラスの表面の水滴を紙ナプキンで丁寧に拭き取っていたアラシが、その手を止めたまま僅かに目を丸くしている。 「えっ…なに?俺が忘れてるだけ?」  俄に不安になり前のめりに訊ねると、2人は一瞬ちらと横目に視線を交えてから、それぞれに口を開いた。 「べっつにー?モテすぎてイチイチ覚えてねぇ!なーんて言ってみてぇなって話だわ」 「よく頼まれ事をしてたから、かえって僕たちの方が覚えてるのかもしんないね。あれを訊いてこいとか、これを渡してほしいとか、日常茶飯事だったんだわ」  目配せのような2人の仕草は少し気になったが、そこから当時俺に関するどんな用事を頼まれたかのエピソード合戦が始まってしまって、俺は卓球かテニスの観客みたいに左右に首を動かして順に語られる回想を聞く役に努める他なかった。  初めて聞く苦労話に申し訳なさと気恥ずかしさが込み上げて、厭に渇く喉をチェイサーのお冷やで潤しながら、時々すまんすまんと頭を下げる厄介者を、2人はけらけらと笑って、こっちの方がもっと大変だったと次なる手札を出し合った。  そんな話を聞いていて、気が付いたこともある。俺は自分で思うよりもずっと、高校時代の事を覚えていないらしいのだ。  卒業からまだ7年とはいえ、学生時代の記憶なんて曖昧で当たり前かもしれないが、高校3年の夏休み明けから10月上旬の文化祭の頃までの記憶が、すっぽりと抜け落ちているようだった。 「燃え尽き症候群ってヤツだべ。最後の大会に命懸けてたし。夏休み終わってから、しばらく学校も休んでたべ?カッチンに渡せって誕生日プレゼントやら何やら押し付けられて、オレもアラシもエラい目に遭ったわ!」  追加で注文した焼き鳥を自分の皿に確保したタキが、丁重に串から外して鶏肉とネギとに分けるのを眺めつつ、当事者であるはずの俺はまるで他人事のように「そうだったっけ」などと呟く。  確かに野球には心血を注いでいたし、本気でプロ野球選手を目指していた当時の俺にとって、最後の夏の大会で結果を残す事は夢へ続く道に直結していた。東京の大学からスカウトの担当者が試合を観に来ることも知り、高校最後のチャンスであると共に、夢への扉が開くかの勝負でもあった。高校3年の夏は今思い返しても、人生で最も濃厚で充実した季節だったと思う。ただーーー  ……ただ? 「本当にひどいしょ、これ。作る側の意欲を削ぐ食べ方だと思うわ、僕は」  不意に声を掛けられて顔を上げると、眼鏡の奥の瞳と目線がかち合った。同意を求めるようなその眼差しに彼の横を見たら、2本のねぎまを一旦バラバラにしてから鶏肉串とネギ串に再構築し、ご満悦なタキの姿があった。 「あ……あー、うん。わざわざ刺し直さなくても…」 「えーっ、コレが美味いんだべ!鳥とネギは別々に味わうのが一番だって!」  よく分からない持論を展開してホクホク顔の当人は、長ネギのみで満たされた串から一切れ齧って堪能し始めた。  食事のマナー指導は今まさに懇切丁寧に語って聞かせている新任教師に任せ、俺は氷とカットレモンだけになったジョッキを見つめて、少し前の思考を遡る。  〝ただ〟、何だ?  あの夏は最も濃厚で充実した季節だった。そう思った矢先、脳裏に浮かんだ〝ただ〟というフレーズ。その先が浮かぶ前に頭が止まってしまって続きは思い出せないけれど、感想を打ち消すような言葉の後に、俺は何を続けようとしていたのだろう。
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