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5. 喫茶『道草』
その日の予定をすべて終えると、朋彦は「少し一人で町を見てくる」と柴田に告げて別れた。
そして、昔と変わらない小さな商店街を訪れた。
蔦が絡まる古い木造の喫茶店『道草』は変わらずそこにあった。
マスターも歳だろうし店はもうないかと思っていたが、予想に反して店名もそのまま営業していた。
マスターは元気だろうか? 千春はどうしているだろうか?
千春は朋彦より少し若く、可愛い女の子だった。優しくて、笑顔が美しく、ころころと笑う声も愛らしかった。
朋彦は東京で就職が決まると、彼女には別れも告げずに町を離れた。ひどいことをしたと思う。
今さら、謝っても許してもらえないだろう。それでも、一目会いたい気持ちが募った。
勇気を出し、思い切って朋彦は店のドアを押した。ドアチャイムが優しくチリリンと鳴る。
朋彦が一歩中に入ると、「いらっしゃいませ」と優しい声がした。
「あっ」
カウンターの中の女が朋彦を見て驚いた。
三十代半ばになっていたが、優しい雰囲気は昔のままの千春だった。
「朋彦さん……」
千春は絶句していた。
「久しぶり」
そう言うと、朋彦はカウンターの席に座った。
「仕事でこちらに来て、懐かしくなって来てみたんだ」
ぼそっと話すと、店を見回す。
落ち着いた色のカウンターやテーブルに、赤い椅子がアクセントになったインテリアは昔と変わらない。それぞれのテーブルの上のペンダントライトも昔のままで、オレンジ色の灯りが優しく照らしている。
「変わってないね。あの、お父さんは?」
「父は、一昨年亡くなりました」
「そうだったのか」
気のいいマスターだった。そして、義理の父になるかもしれない人でもあった。
「あの時は……」
二人の間では、いつか結婚したいねと話したこともあった。それなのに一方的に千春を捨て、町を出た自分が悪かった。謝りたかった。
「もう、昔のことです。忘れましたから」
千春は寂しげに微笑んだ。
もしかしたら……。ずっと待っていてくれたのではないかと、期待する気持ちがあった。
「ブラックでいいんでしたね」
千春はコーヒーを明彦の前に置いた。
コーヒーの好みを覚えていてくれたのが嬉しかった。
「新聞やテレビで拝見していました。ご活躍ですね」
新規出店担当ということで、朋彦はマスコミに出る機会が多い。それを千春が見ていてくれた嬉しさと、敬語で話される距離感に複雑な気持ちが混ざり合う。
するとドアチャイムが鳴り、また誰かが入って来た。
「ただいまーー!」
元気な子供の声がした。
「あ、おかえり!」
千春の明るい声に振り向くと、ランドセルを背負った可愛い顔の男の子と、そして……。
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