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「あの電話、聞いてたんだろうな」
相変わらず既読がつかず、電話をしても出る気配がない恋人との間に生まれた軋轢。
仕事帰りに、たまたま見つけてふらっと寄った中華屋で、隣に座る彼女を見つけた時は、正直言って目が釘付けになった。
スッと背筋が伸びていて、今時珍しくカラーも入れていない健康的な黒い髪。
洒落っ気のないポニーテールは、毛先が肩甲骨の辺りで揺れていて、一人で食べに来ているのになんだか堂々としてる姿が凛として映った。
ビールを豪快に呷るのに、しゃっくりが止まらない様子があまりにも可愛くて、思わず自分から声を掛けてしまった。
彼女はこんなオッサンの俺相手でも嫌な顔をすることなく、あんまり可愛く笑うから、離れがたくて飲みに誘った。
目の前の彼女のことが知りたくて名前すら聞いてないことに気付きもしないで、劣情に任せて彼女を抱いてしまった俺を待っていたのは、一人で目覚める朝だった。
確かに俺は、親父の不倫のこともあって、愛情なんてものを信用してなかったし、この歳になるまで相手に困ることもなかったから好き勝手に生きてきた。
なのに香澄ちゃんに置き去りにされたことが、棘みたいに心に刺さって、いよいよ仕事も手に付かなくなって、ようやく自分が恋をしたのだと気が付いた。
パーソナルジムでそれとなく探りを入れたけど、個人情報だからと濁されて彼女に行き着くとこが出来ず、最悪な気持ちで過ごしている時に、香澄ちゃんは目の前に現れた。
香澄ちゃんが実家の部屋を間借りすると聞いた時は、自分にもようやく幸運が巡って来たような気がして、大人気なくはしゃいでしまった。
「香澄ちゃん、君は今どうしてるの」
もう一ヶ月近く直接顔を合わせていない。
遥香のことを素直に話せば良いのかも知れないけど、我が家の汚点である公にしたくない話を、付き合い始めたばかりの恋人である香澄ちゃんには、どうしても話す気になれない。
香澄ちゃんを大切にしたいし、この先のことを考えているからこそ、家族付き合いだってしていくだろう、俺の親の不貞を知られたくなくて、話を切り出す勇気が出ない。
「何してんだろうな、俺」
一番信頼を裏切りたくない相手に隠し事をしてる。
ウジウジと悩みながら、読まれないことが分かっててもメッセージを打ち込んで送信すると、スマホを胸元で握り締めたまま溜め息を吐く。
明日は遥香の定期検診がある。
親を失い、婚約者すらも失った腹違いの妹を放って置けず、俺は明日の通院も兄として立ち会う予定だ。
診察で問題がなければ、遥香には悪いけど明日はなんとか時間が取れる。
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