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今は考えない
福岡の祖母の家に来てから一週間。
普段は出来ないだろう、換気扇やエアコンの掃除、傷んだ網戸や障子を張り替えると、とても助かったと喜んでくれる。
「ずっとこっちに居ても良いのよ」
「え?」
「そんな顔してるんだもの、分かるわよ」
お茶を飲んでお菓子を食べてただけなのに、テーブルに置いた手をギュッと握られると、たくさんシワを刻んだその手の重みに涙が出る。
「泣いたら美人が台無しになるわよ、香澄」
祖母の柔らかい手が私の涙をそっと拭う。
それから誰にも言えなかった樹貴さんの話を、ポツポツと話し始める。
祖母はただ黙って話を聞くだけで、変に相槌を打つことも、アドバイスのような言葉を掛けてくることもない。
「話すほどのことじゃないって、それを決めるのは彼じゃなくて、私だと思うのは間違ってるのかな」
もう諦めようと思ったのに、口を吐いて出るのは樹貴さんのことばっかり。
向き合おうとしなかった自分のことは棚に上げで、隠し事をしてる樹貴さんを責めてしまう。
終わりがない愚痴をこぼしていると、お茶を入れ直すために立ち上がった祖母が、気晴らしに行こうかと麦茶を注ぎながら私の顔を見る。
「せっかく来たのに、家にこもってても仕方ないでしょう。おばあちゃんも香澄と出掛けたいから」
「分かった、そうする」
今日はもう夕方だから、明日の天気を調べると、バスツアーで糸島や能古島なんかに行っても良いねと話題が盛り上がる。
それならレンタカーを借りて、少し足を伸ばして大分に温泉に入りに行っても良いし、長崎まで出て観光しても良い。
スマホで色々調べながら、祖母にどこに行きたいか聞きながら、一週間も無駄に過ごしてしまったことを後悔する。
「やっと笑ってくれたわね」
「ごめんね、おばあちゃん」
「ねえ香澄」
「ん?」
「信じてあげなさい。そしてケンカもしなさい。しなかった後悔が、一番悔いが残るんだから」
「うん。分かった」
私にお金を使わせたがらない祖母をなんとか説得して、湯布院温泉に行くことを決めると、滅多にないことだから早速良さげな宿で一泊する手配を済ませる。
「おじいちゃんも連れて行ってあげたかったな」
「香澄がそう思うだけで喜んでるわよ」
認知症が進み、脳梗塞も患った祖父は、祖母が自宅で介護するのが困難になったために、今はケア施設で暮らしている。
きっと長年連れ添った夫婦でも、色んな行き違いや問題は抱えてるのだろう。
ましてや祖父は、もう自認すらあやふやになっているので、祖母が何を話してもほとんど反応もないそうだ。
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