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「真中さん」
英語の授業を終えてキャンパスの2号館から3号館への渡り廊下を歩いている時に、僕は後ろから声をかけられた。立ち止まってふり返ると同じクラスの女子だった。黒のボブヘアに切れ長の一重まぶたの目元。その大人っぽい表情の中にまだ少女のようなあどけなさを残している。
「次は政治学?」
「ああ」
「私も同じ」
僕は彼女と並んで歩いた。
「真中さんはすごいですよね。まるで外人みたい」
「英語のこと? 英文科の学生として普通だと思うけど」
「聞いたの。真中さん、アメリカに留学したことがあるって」
「それで?」
「だからすごいなって」
「すごくはない」
「留学なんてなかなかできません・・・」
「晴香、待ってよ!」
僕たちの後ろから一人の女子が駆け寄ってきた。
前髪からかき上げた栗色のポニーテールの彼女が晴香の横に並んだ。大学生活は始まったばかりで、僕はまだクラスメイトの名前をほとんど憶えていなかった。でもこの二人のことは思い出した。水野晴香と外間希伊子だ。
「真中さんも政治学ですか?」
「そう。他に選びようがない」
僕たちは政治学の講義が行われる3号館の大講堂に入った。講堂内は講義を受ける学生たちでいっぱいだった。僕たちは空いていた後ろの席に座った。講堂には勾配が付いていて後ろの席の方が高くなっている。僕たちの席からは演台がはるか前方の眼下に見えた。授業開始のチャイムが鳴ると、遅れて講堂に入って来た数十名の学生があわてて空いている席を探して講堂の中を彷徨った。
ほどなくして講師が講堂に入ってきた。濃い顎や口ひげを生やしながら頭が剥げている60歳位の講師は演台に着くとマイクを握り、簡単な自己紹介のあと今後の講義の展開や試験の評価基準などを説明した。それから出席カードの束を最前列の学生たちに渡し、全学生に行き渡るように指示した。全員に出席カードが行き渡ると講師は言った。
「今日はガイダンスということで、ここまでにしましょう。出席カードに名前と学籍番号を忘れずに記入してこのトレイに入れていって下さい」
政治学の講義はたったの20分で終わった。
「なんかあっけない」
講堂から出て、晴香が言った。
「晴香、今のうちに昼にしない? 真中さんもどうですか?」
希伊子が言うと晴香が頷いた。僕も頷いた。
新校舎の増改築が進む中、学食は仮設のプレハブで、キャンパスの中では一番粗末な建物だった。この間に合わせの建物は学生の数に対して規模が小さく慢性的に混雑していた。僕たちは食券を買って学食の奥の方で空いていた4人掛けのテーブル席に座った。僕たちが食券を調理カウンターに出す時には学食は満席となった。僕たちが食事をもって席に着くと晴香が僕に訊いた。
「真中さんて、出身はどこですか?」
「隣の町だよ。そこから原付で通ってる。バスや電車だと乗り継ぎが多くてここは不便な場所だ」
「私は近くにアパートを借りてる」
「出身は」
「長野県」
「どうして、この大学を?」
「それは、こっちのセリフ。真中さんみたいに優秀な人なら、もっと都会の有名な大学に行けたはずです」
「僕は優秀じゃない」
「そういうの謙遜て言います」
「僕はアメリカの語学スクールに留学した。けどアメリカの大学には入れなかった」
「私、真中さんみたいに英語がペラペラになりたいんです。どうすればいいですか?」
「僕はペラペラじゃないし。それに、話せるようになってどうするの?」
「英語を使う仕事がしたい」
「それなら言っておく。どんな仕事をするかを先に決めた方がいい。英語だけ勉強しても何にもならない」
「どういうことですか? 私は真中さんの言っていることの意味、わかりません」
「私は英語の先生になりたいの。ちゃんと英語が話せる英語の先生にね」
希伊子が言った。
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