鯖の絵

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鯖の絵

 舟橋と軽井はコートのポケットに両手を入れて、寒々しい晩秋の夜に、山の方から吹く向かい風に身を震わせながら、野木の家の方へと歩いていた。  ふたりは、ある同級生の葬式へと参列するために、5年ぶりに郷里に帰ってきた。そして、葬式の帰りに知人の野木の家で酒を飲むことになったため、彼の家の方へと街灯だけを頼りに歩いているのである。  駅から国道へと延びる道も決して賑やかではなかった。のみならず、駅さえもこの時間には無人だった。国道を渡りきってしばらく経ったころには、光源は、等間隔に並んでいる街灯か、人の気配のしない家々の窓から漏れ出た明かりくらいになった。 「野木の家はもっと先だったかな」 「さあ……とにかくこの道を真っ直ぐ行けば見えてくるはずだけど」  青白く光る狐火(きつねび)のようなものが見えたかと思うと、それは、なかなか家にたどり着かぬ焦燥と苛立ちからくるただの幻覚だった。寂しく響く川の流れに気を紛らわすために、舟橋は口笛を吹き、軽井は十二月に控えている締切りの数を、指を折りながらかぞえた。  半月は薄曇りのなかに顔を埋めるばかりで、月光が地上へと差しこんでくる目処(めど)は立たないようだった。凍えるほど冷たい風は、山の方から何度も吹き下りてくる。  どちらかが引き返すことを提案すれば、もうひとりは逡巡せずに(うなず)くに違いなかった。しかし野木との親交のことを考えると、そのことを切り出す勇気をどちらも持ち合わせていなかった。  ひとひとりいない往来を、街灯を頼りに歩いている。ひとひとりいない?――ふたりは、自分たちの影を踏む何者かを感じ取っていた。狐火(きつねび)と同じく、それも幻覚に違いなかった。しかし、葬式の記憶が新しい以上、なにか不気味なものを感じてしまうことは、仕方のないことでもあった。  ふたりは後ろを振り返ることなく、ただ前だけを見て、寂しい静謐(せいひつ)に包まれながら歩みを進めている。のみならず、ほとんど会話らしいこともしなかった。先ほどまで「死」というものを体感していただけに、いまにふさわしい話題らしい話題を失していたのだった。 「鯖の絵」と、舟橋がポツリと呟いた。 「鯖の絵?」と、軽井が聞き返すと、舟橋はある一件の家の窓を(ゆび)さした。  そこは廃校となった母校の向かいにある家だった。物置の代わりに使われているのであろうコンクリートの床の部屋が、閉め切られていないカーテンの間から見えている。街灯のあかりが少なからず差し込んでいる分、寝そべっているものや立てかけてあるもののいくつかが、ぼんやりと見えていた。  そして、ふたりの影が延びた先に、梯子(はしご)に立てかけられた(さば)の絵があった。  鯖であることは、彼らの過去の食欲が知るところだった。瑞々(みずみず)しい筆致が、それが新鮮な鯖であることを強調させており、かつ虚ろになった目から、打ち上げられたあとであることも表現されていた。 「まな板かな」 「いや、机かもしれない」  鯖の背景は、刷毛(はけ)で塗りたくったように赤茶色の油絵具(あぶらえのぐ)で隙間なく埋め尽くされており、そのため、カンバスの表面にはいくつかのムラができているようだった。  後ろから差す光線に頼っても、サインも画題も(さが)すことはできなかった。だからふたりには、これが「鯖の絵」であるということ以外の可能性は、まったく考えられなかった。 「縦向きで合っているのかな」 「横にしたら、ヘンな感じがするだろうけどね」  カンバスは縦の辺の方が長く、鯖の頭は上にあり尾は下にあった。もしこの絵を横向きにしたならば、なんの感興も起こらないかもしれない。それくらい、滝に逆らう魚のような恰好が似合う鯖なのである。 「この家には、だれが住んでいたんだっけ」 「あのときからだれも……という感じがする。覚えてないよ」 「この家がずっとあるのは間違いない。だけど、あんな絵はあったかなあ」  ふたりは寒さも()も忘れて、この鯖の絵に見入っていた。決して、傑作だと思っているわけではない。しかしふたりのいまの心境に、ぴったりと(はま)るような一作だった。  彼らの背後にある廃校は、沈黙を守りながら、いつか顔を出した月の光を窓に青白くうつしていた。
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