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なんであんなだめ男と? なんて傍から見たら誰もが思うような人でも、付き合っている当人はその人じゃないとだめなのはわりとよくある話で、私もその中の一人だった。
出会った頃の彼は優しくて、私のことを好きだと言ってくれた。
この人となら結婚してもいいと思えるくらい、あの頃の私は彼に陶酔していたのだ。
だから結婚した。子供が出来た。彼も一緒になって喜んでくれた。それなのに。
「ど、どうしたの綾……」
「遊とちょっと、喧嘩して」
平日の朝。まだ人の少ないファミレスの席で、私は音瑠と待ち合わせをしていた。
佐倉音瑠。彼女は私の高校時代からの友人で、彼のことも知っている。
音瑠は私の左頬にそっと触れると、「まだ痛い?」と呟いた。
「ん……ごめんね、急にびっくりしたよね」
「そりゃ驚いたけど、まさか遊さんが綾を殴るなんて……」
更科遊は、私の彼の名前だ。
実は、彼に殴られたのはこれが初めてではない。音瑠に打ち明けたのは初めてだけど。
困惑した様子で何かを考えている音瑠を見て、私は既に後悔しはじめていた。
「音瑠、あの」
「綾、遊さんに殴られたのはこれが初めて?」
「え? えっと」
「初めてじゃないんだ?」
「あ……うう……」
「瑠花ちゃんは? 瑠花ちゃんは殴られたりしてないよね?」
「う、うん。瑠花は大丈夫」
瑠花は殴られていない。だけど、育児は全て私の担当だった。
瑠花が産まれてすぐに女だとわかると、彼は「あっそう」と言って電話を切ったのだ。
仕事だから出産の立ち会いはなし。面会にだって一度もこないまま。タクシーを使って瑠花と帰宅した時も、金を無駄にするなと怒られたっけ。
「綾、もうさ、遊さんと別れたら?」
「え?」
「このままじゃだめだよ。瑠花ちゃんのためにも遊さんとは」
「どうしてそんなふうに言うの?」
「綾?」
「だって……だって、遊と離れたらもう、誰も私を愛してくれなくなる……そんなのは、いや」
私みたいな女を好きになってくれるのは遊だけ。遊が私を殴るのは、ちょっといらいらしてただけなんだ。本当は優しいの。
私は早口で音瑠に弁解をした。
「綾は、遊さんのこと、好き?」
「好きだよ。当たり前じゃん」
おかえりと言っても返事がないことも、テーブルの上に並べたご飯を見ただけで部屋に戻ってしまうことも、瑠花が泣くと舌打ちをすることも、私が話しかけるといつも不機嫌そうなのも、全部全部、気にしてないよ。
瑠花も居るんだから、私がしっかりしなきゃ。
そう、思っていたのに。
音瑠と別れて家に帰ると、仕事のはずの彼が居た。
「あ、あれ……おかえりなさい、今日は早いんだね」
「お前、どこ行ってたの?」
「あ、えと……音瑠とランチに……あ、音瑠は知ってるよね? 昔はよく三人で遊んでたよね」
「瑠花を保育園に預けてか?」
「あ……ご、ごめんなさ」
「お前が仕事探したいから瑠花を保育園に預けたいって言ったんだよな? なのになに遊んでんの?」
あ、やばい。遊が怒ってる。とにかく謝らないと。
「ご、ごめ」
頬をばちんと叩かれた瞬間、目眩がした。朝叩かれた衝撃よりもずっと強くて、痛いと感じた途端、何故かさっきの音瑠の言葉を思い出した。
『綾、もうさ、遊さんと別れたら?』
どうしていま、そんなことを。
私は遊が好きで、遊も私が好きで、お互いがお互いを好きなんだから、離れる理由なんてどこにもないはずなのに。
『あのね綾、遊さんが綾にしていることは、DVなんだよ。わかる? 暴力なの。綾に手をあげるのも、綾を無視するのも、綾に酷いこと言うのも全部、暴力なの』
わかんないよ、音瑠。だって生きてればいらいらすることなんていくらでもあるし、喧嘩だってするよ?
それに、好きだから一緒に居るんでしょう?
結婚って、これからも一緒に居たいと思うからするんでしょう?
『本当に綾のことが好きなら、そんなこと何年も続けないの。お金のことが心配なら大丈夫。シングルマザーにも優しい制度が沢山あるし、あたしだって力になるよ。遊さんじゃなくたって、綾を好きになってくれる人は絶対に居る』
「……遊……私のこと、……すき……?」
どうしてこんな質問をしてしまったのだろう。きっと遊に叩かれた頬が痛すぎて頭がぼうっとするからだ。
だけど私は許すよ。遊が私を好きだと言ってくれたなら、いくらだって許す。だって私は遊のことが好きだから。
「は? なに言ってんだお前」
そういえば、いつからお前って呼ばれるようになったんだっけ。
「……もう……別れてください……」
そうか、遊はもう、私のことを好きだとは言ってくれないんだね。
遊の姿が滲んでなにも見えないや。
「……別れる? お前が俺と? なんで?」
「だ、だって……遊が好きだって言ってくれなかったから……」
「なんでいちいちそんなこと言わなきゃいけないんだよ。そんなの言わなくたってわかるだろ。それとも言葉にしなきゃわかんないのか?」
私は首を横に振った。
そうだよね、好きだから夫婦で居るのに、言葉がほしいなんて欲張りだ。たった二文字の言葉が聞きたいだけで、別れるなんて大袈裟だ。
夜。お風呂から上がった私は、音瑠と電話をしていた。
「あ、音瑠。今日はごめんね」
『全然いいよー。それより頬はもう痛くない?』
「うん。それはもう痛くないんだけど……実はまた叩かれちゃって」
『え、なんで?』
「帰ったらもう遊が居てさ、瑠花預けて遊んでんなって怒られちゃった」
『なにそれ最低。綾、早く逃げた方がいいよ』
「それでね、私、遊に別れようって言ったよ」
『え?』
「でも、別れなかった。好きだから一緒に居るんだろ、それくらい分かれよって」
『綾はそれで納得したの?』
「うん。だって、その通りだなって思ったの。夫婦で居るのに、好きだって言ってほしいなんて我儘だった。反省してる」
『あのね、それは遊さんに従順な綾を手放したくないだけで、綾のことは好きじゃないんだよ』
「音瑠はどうしても私と遊に別れてほしいんだ?」
『当たり前でしょう。これ以上、綾に傷付いてほしくないよ。綾が言えないならあたしから言うから』
「そ、それは困る……」
『困らない!』
「……困るよ」
音瑠は昔からそうだった。優しくて、正義感のあるかわいい女の子。私はそんな音瑠が大好きだった。
私が遊を好きになって、音瑠が私と遊の仲を取り持ってくれて、いつの間にか三人で居るのが当たり前になったよね。
だから二人には仲良くしててほしかった。私の大好きな親友と、大好きな人。
ふと、もの凄い泣き声がしてドキッとする。
瑠花だ。
「ご、ごめん音瑠。瑠花が泣いてるみたいだから、ちょっと見てくるね」
『あ、うん。なんかあったらすぐに電話して』
「ありがとう。じゃあまた」
電話を切って、部屋を出る。瑠花はリビングでテレビを見ていたはずだ。この時間は毎週見ているアニメがあって、アニメを見ている間はとても集中しているのでこちらも安心して過ごせるのだが。
「瑠花……?」
瑠花、どうしてこんなところに居るの?
「おい、煩いから黙らせろ」
「あ……瑠花、どうしたの?」
「階段に居て邪魔だったから突き飛ばしたら落ちただけだよ」
「……え?」
瑠花、階段から落ちたの?
頭とか打ったんじゃ……え、どうしよう。救急車……。
「あ、携帯……救急車……」
「は? 階段から落ちただけだろ。救急車とか大袈裟すぎ」
瑠花が泣いている。血は出ていないみたいだけど、こんなに泣いて、どこか痛いんじゃ。素人目じゃわからないし、やっぱり救急車を呼ばないと。
私は二階に戻ると、携帯で音瑠に電話をした。
「あ……音瑠……」
『綾? どうしたの?』
「る、瑠花が……階段から落ちたみたい……ど、どうしよう、救急車……音瑠、どうしよう……」
『瑠花ちゃんが? わかった、あたしが救急車呼ぶから、綾は財布と医療証の準備して。瑠花ちゃんに怪我はない?』
「わ、わかんない……なんかずっと泣いてて……怪我はしてなさそうだけど、わかんない、わかんないの……」
音瑠は救急車を呼ぶと、すぐに私に連絡をくれた。私がパニックを起こさないように、ずっと声をかけてくれて。
瑠花が救急車で病院に運ばれると、待合室で待つよう看護婦に言われた。待っている間に音瑠がきて、私の隣に座り肩を抱く。
「大丈夫、大丈夫だから」
「うん……うん……」
遊はいま、家に居る。明日も仕事があるからお前が行け、だそうだ。
「ねえ、どうして階段から落ちちゃったの?」
「遊が……邪魔だから突き飛ばしたって言ってた……」
「……」
診断結果は異常なし。階段の低い場所から落ちたのだろう。泣いていたのは、突然のことで怖かったのと、びっくりしたことからだそうだ。
「瑠花、よかった……っ」
私は瑠花を抱き締めると、人目を気にせずにぼろぼろと泣いた。
「綾、もう、別れよう」
「え?」
「瑠花ちゃんまでこんなこと、もう無理だよ。これ以上一緒に居たら、今度こそ瑠花ちゃん、死んじゃうかも」
「し、死ぬなんて……大袈裟……」
「綾。あたし、真面目に話してるんだけど」
私が遊と、別れる?
確かに今回はヒヤッとしたけど、瑠花もなんともなかったよ?
私が目を離してたのがいけないの。私が瑠花をちゃんと見てたらこんなことにはなっていなかった。
だけど、私が言ってもきっと音瑠はわかってくれないよね。
「……わかった」
わかったとは言ったものの、言えばまた殴られるかもしれない。泣いて縋ったりはしないだろうな。それでも私は遊と別れるって言えるかな。怖くて取り消しちゃうかもしれない。
あれ、私、遊のこと怖いのかな。怖いから物分かりのいいふりしちゃうのかな。
家に帰ると、部屋の電気は付いていた。てっきりもう寝ているんだと思っていたので緊張する。
「た、ただいま」
「……ああ。ほらな、なんともなかったろ?」
「……うん」
もしかして瑠花のことが心配で起きていたのかな。ほら、やっぱり遊は優しいじゃん。
「あ、あのね、遊」
「ん?」
なんとなく、遊の機嫌が悪くない気がするし、いまなら怒らないのかも。
「や、やっぱり私、遊と別れたい」
遊は優しいから、きっとわかってくれるよね。
「……あ?」
遊の声色が、変わった。
「い、痛い! 痛いよ遊!」
「今度はなに? 瑠花が階段から落ちたから別れんの? 落ちたっつっても二段程度だろ。事ある毎に別れたい別れたいってばかじゃねえの?」
髪が痛い。そんなに引っ張ったら抜けちゃうよ。ほら、瑠花だって怖がって泣いてる。
「お前ほんとに別れたいのかよ」
「わ、……かれ……」
「即答できないくせに別れたいとか言ってんじゃねえよ。そんなに瑠花が心配ならお前が見てればいいだろ」
ほんとだね。自分でもわかってたくせに、音瑠に言われて別れを告げるなんてばかだ。私が遊と別れられるはずがないよ。だって遊はこんなに私を叱ってくれる。私のやろうとしていることは間違ってると、教えてくれる。私のために。
じゃあ、音瑠は?
音瑠はどうして遊と別れなさいなんて言うの?
音瑠のそれは誰のため?
ああそうか、私ばかだ。
音瑠は私のために言っている。私と瑠花がこれ以上傷付かないように、取り返しが付かなくなる前に。わかっていたくせに知らないふりをした。
「わ……別れてください……お願いします……」
ごめんね音瑠。私、絶対に遊と別れるから。だからまた、私と会ってほしい。
今度は瑠花と三人でランチしよう。瑠花と住む家も探して、仕事も探して、遊の居ない世界で静かに暮らすんだ。
「……後悔……するぞ」
「しない、です」
「なら、瑠花は俺が」
「私が瑠花を育てます」
私ね、本当に遊のことが好きだったんだ。遊と付き合うことになった時は本当に嬉しくて、音瑠と二人で喜んだんだから。
遊の優しいところが好きでした。
遊が私を呼ぶその声が好きでした。
遊のすべてが好きでした。
あれから数ヶ月後。私は瑠花と二人で小さなアパートで暮らしています。
仕事も決まり、覚えることが沢山あって大変だけど、毎日が充実していて楽しいです。
遊はいま、なにをしていますか?
好きな人は出来ましたか?
私と別れて後悔していますか?
私はね、遊。遊と一緒に居た日々はとても楽しかったし幸せだった。だけど、いつの間にかそう感じているのは私だけになっていたんだね。
それに気付かないまま瑠花を産んで、子育てして、一人で母親になって。
あの頃は本当に苦しかった。遊に依存して生きていた。
いまならわかるよ。私の世界は狭かった。
私達、もっと前に別れていればよかったよね。綺麗な思い出のまま別れていれば、誰も傷付かずに済んだよね。
「綾、瑠花ちゃん!」
「音瑠」
私は前を向いていく。瑠花と音瑠の三人で。
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