ピュグマリオンの裔

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 その水死体の身元が判明したのは、遺体発見から丸一日が過ぎた頃のことだ。  身元の特定は、当初は困難を極めるかと思われた。仏さんは身分証の類を一切身に着けておらず、しかも、かなり長いこと海中に漂っていたのかひどく腐乱し、その腐った肉すら半分ほど魚に食いちぎられているときた。検死に慣れた歴戦の検視官さえ、その惨状に顔を顰めたほどで、こうした状態では面取りによる身元照会など望むべくもない。  ところが、身元は意外にもすんなりと判明する。手掛かりとなったのは抜歯の跡で、それが、管内の歯医者に保管されたカルテの内容と一致したのだ。  そのカルテの患者、こと遺体の主の名は美坂篤郎といった。  一報が入ったとき、署内は一時騒然となった。というのも、今から半月ほど前、夫の行方がわからなくなったと彼の妻から捜索願が出されていたからだ。……いいや、違うな。本当の意味で俺達の耳目を引いたのはそこじゃない。単純に、この美坂家というのが地元では知らぬ者のいない名家だったからだ。戦前から戦後にかけて地元の鉱山で炭鉱業を営み、閉鉱した今なお莫大な富によって地元経済を廻し潤す美坂家の、その現当主の変死。俺たち八ツ坂署の刑事課に属する面々は、当然のように事件の匂いを嗅ぎ取った。まだ殺人と断定されたわけではないため、正式に捜査本部を立ち上げるわけにはいかなかったが、事実上、殺人事件として捜査を進めることが内々で決定された。  ところが。  その数日後、現場海域で美坂家の所有するクラウンが発見されたことで、殺人のセンは途端に雲行きが怪しくなる。近くの崖からは、このクラウンのものと思しきタイヤ跡が発見され、しかも、この跡は崖の先まで一直線に伸びていた。さらに、車のハンドルに残った指紋および遺体の頸骨に見られた損傷から、美坂が自ら車を運転し、崖上から現場の海に落下したのはほぼ確実とされた。検死によれば、遺体は死後二週間以上が経過しており、もし、この事故なり自殺なりが捜索願が出された前後に起きたものなら、こちらも一応、辻褄は合うわけである。  とはいえ、他殺のセンも完全に捨てられたわけではなかった。我々は一帯に大規模な地取り捜査を行ない、美坂および彼の車両の目撃証言を募った。が、付近にある展望台近くの駐車場でそれらしい車を見かけた、という地元高校生の証言が得られた以外は、はかばかしい成果は何ひとつ得られなかった。ちなみに、遺体から薬物の類は一切検出されていない。薬物の過剰投与によって一時的に自我を奪われ、自死を強いられた可能性もゼロである。そうして次々と新たな事実が紐解かれるたび、我々は、これが自殺であるとの結論に至らざるを得なくなっていった。  そんな状況にあって、なお唯一残る不可解な異物。  助手席には、なぜか一体の人形が積まれていた。
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