すべてが嫌になった雪の日に

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 突然すべてが嫌になった。  その途端、見慣れたオフィスはただの背景となり下がり、窓から見える雪山の景色ものっぺりとした絵にしか見えなくなった。  壁掛けの時計から発せられる五時を告げる電子音。  古びたラジオのようにキンキン震える調子っぱぐれの音に背を向けて、私は無言でビルの階段を駆け下りた。  今日は朝から、いや、思い返せばもう数か月前から散々だった。愛車に乗り込みハンドルを握った私は、ぼんやりとフロントガラス越しに外を見た。  頭に浮かんだのは、モスグリーンのスエットに手を突っ込みボリボリと腹を掻く男。  そして私は、奴との事を回想する。  付き合って二年目の奴が、私のアパートに住みつくようになって二か月。そこそこ名の売れた塾で講師を務めるという奴と友達を介して出会い、三回目のデートで何となくそんな雰囲気になり、まあ、身体の相性がまずまずだったこともあり、そのまま付き合うことになった。  平凡な生い立ちも家族構成も好きなお菓子も、どこか似通っていたせいか、奴と過ごす時間は心地がよかった。というより楽だった。  しかし、同居人となると話は違ってくる。  他人と暮らすというのは思いの外大変だ。私はそれが予想出来たからこそ、同居を渋ったのである。しかし、アパートの改装工事が終わるまでの間だからと頼み込まれ、仕方なく承知したのだ。  そうやって始まった共同生活だったが、案の定というべきか、うまくはいかなかった。  言わないと生活費を出さないとか、使った食器を直ぐに洗わないとか、靴下をノブに引っ掛けるとか……何なんだあの癖は本当に意味がわからない。  怒るまでもない事だが、我慢するのも違う。  口に出して指摘すれば、奴はヘコヘコと謝って見せた。その度にせせこましい自分を思い知る。  ほんの些細な違和感と不快感が拭い去れないまま、ただ蓄積していく。  同居生活一ヶ月目にして、私は疲れきってしまった。 今朝目覚めれば、奴はもう出勤した後だった。昨晩、風呂上がりに押し倒され、止めてくれと懇願するも三ラウンド。気持ちは良かったが、流石にお互い力尽きて絡まったまま眠りに落ちた。  奴は諸々の後始末には一切手をつけず、平皿の上に半分齧ったままのトーストを残して出ていってしまった。  私は、脱ぎ捨てて散らかった衣服を集め、体液の染み込んだシーツを剥がした。抱えたシーツを洗濯機に突っ込み、ふと顔を上げれば、洗面所の鏡に味気の無い顔の女が映っていた。  ボサボサの髪に包まれた腫れぼったい顔。  恋人と濃厚な夜を過ごして満たされている筈なのに、とてもそうは見えなかった。  何となく鬱々としながら職場に着いた私を待ち構えていたのは、前日遅くに掛かってきたというクレームの電話メモだった。  受話器から延々と続く現場スタッフへのお小言をたっぷり三十分食らい、気力を削がれたまま午前中の勤務を終え、午後イチで件のスタッフを捕まえて事実確認を行えば、年配のスタッフは年甲斐もなく不貞腐れ、悪態をつきながら立ち去った。  そして、その様子を見ていたと思われる先輩女子社員がすす、と近寄ってきたのだ。 「佐藤さん、上野さんはプライドが高いんだから上手く持ち上げてあげないと。ああなると数日機嫌が悪くなって部下に当たるのよ。それで、若い子達がいつも私に泣きついて来るの。もう担当から外れているのに困るわぁ」  盛大に眉尻を下げた表情からは、優越感が見え隠れする。私は無表情にすみません、と謝った。  その時点ではもう、愛想笑いをする余裕もなかった。  極めつけは終業時間ギリギリにもたらされた、部品遅延の連絡である。これにより、来週の工程調整を余儀なくされ、イライラした上司から理不尽な言葉を投げられた。 「納期と在庫はキチンと確認しないと駄目じゃないか。何年この業務をしてるんだ」 ちゃんとやりました。やらないわけないだろ。 いくらなんでも機械の故障までは予測できないよ。 「確認はしました」 「工期に間に合わなかったら、先方からお叱りを受けるのは俺なんだぞ」 仕方ないだろ。説明しろよ。それもあんたの仕事でしょうが。 「課長の代理で私が電話しましょうか(そんなに叱られるのが嫌なら)」 「そんな失礼な真似が出来るか!」 上司はチッと舌打ちすると、デスクに荒々しく腰掛け受話器を掴んだ。懸命に工期延長の交渉をする上司の声を聞きながら、黙々と退社の準備をする。 PCの電源を落とす直前に、画面の隅に雪マークを見つけた。夜半過ぎから平野部で15cmの積雪があるとの予報だった。 スタッドレスタイヤ……実家だ。タイヤ交換を今からスタンドに予約して果たして明日まで間に合うのだろうか。 更に気分が重くなる。 寒がりの奴は、雪には滅法弱い。昨年同様職場まで送迎してくれと言い出すに違いない。 そして、全てが嫌になったのだ。 誰かの為に我慢して尽くしても、感謝されることも無ければ褒められることもない。都合よく扱われるだけ。 誰かの為にすり減るだけのそんな人生、もう嫌だ。 だったら、全て捨ててしまおうか。 姉夫婦が同居している実家には、最早私の居場所などない。 唯一の城だった部屋は男に侵食され、出て行く気配もない。 職場とて、私一人いなくなった所でたいした影響もないだろう。誰にでも出来る仕事しか任せられていないのだから。 私はハンドルを握る手に力を込めた。 全部捨ててどこかへ逃げる。 それは、とても素敵な計画に思えた。 一時間の道のりを経て実家に辿り着いた私は、義兄の手を借りてスタッドレスタイヤをトランクに積み込んだ。途中道の駅で買ったお土産の大根と蕪を手渡し、サッサと実家を後にする。 このまま雪雲から逃げて国道を南下しよう。途中追いつかれたらどこかでタイヤを交換すれば良い。簡易的なジャッキは積んでいるから、自分で取り替えたって良い。 普段は絶対やらないような面倒な思いつきにさえワクワクし、心が沸き立った。今なら何でも出来るような気がしていた。 しかし、雪は予想以上に足が早かった。 白いものがフロントガラスをチラチラと過ぎったかと思えば、瞬く間にティッシュペーパーを指先でちぎったほどの大きさになり、道路はたちまち白く覆われていく。タイヤに踏まれた雪が立てる水っぽい音を聞きながら、私は決断を迫られていた。 免許取得の際にタイヤ交換の講習を受けたが、実際に自分でやった事は無い。スマホで調べればやり方は解るが、問題は交換場所だ。屋根があるところで、舗装されていることが望ましい。 考えを巡らしながらハンドルを握っていると、鞄の中から着信音が聞こえた。 車中の時刻表示に目を向け、私はメッセージの送り主に見当をつける。 おそらく奴だ。 ちょうど勤務が終了した時間だから、迎えに来いと言うのだろう。 空から落ちてくる白い塊を震えながら見上げているに違いない。 私はその光景を想像し、フハッと笑う。 でも、行かない。行ってやらない。 コートの襟をかき寄せながら片道三十分足らずの道のりを歩けば良い。ケチらずにタクシーにでも乗れば良い。 鼻を赤くして、カチンコチンに固まるいつかの奴を思い出す。 「あーちゃん、何これ馬鹿みたいに寒い。冷たい」 ファンヒーターの前に座らせて、冷えきった手を握る。 「こっちの冬はマフラーと手袋は必需だよ」 「生徒が素足だったから、俺も負けてらんないと思って」 「十代と張り合ってどうする」 ガチガチと歯を鳴らす男の身体をさすった。 「お風呂沸かしてあるから、温まりなよ」 「マジで?ありがたい。あーちゃんがいて良かった。自分ちだったら、俺凍えて死んでた」 にへっと笑う顔は十代と見間違うほどの幼い。 そう、あの笑顔に弱い、あの無邪気な一面に惚れたのだ。 胸がザワザワと波打ち、視界が滲む。 激しく左右に振るワイパーが、感情を加速させる。 凍えながら辿り着いた部屋に誰も居ないと知ったら、奴は落胆するだろう。エアコンを付けファンヒーターのボタンを押してその前に座り込み、点火されるまで震えながら待つのだろう。かじかんだ手に息を吹きかけて、私の名前を呼ぶのだろうか。 私はコンビニを見つけ、駐車場に車を停めた。 カバンからスマホを取りだして、先程から鳴り止まない通知を確かめる。 〝あーちゃんどこ?遅い〟 〝雪が降ってるよ〟 〝寒いよ〟 〝早く帰っておいで〟 〝お風呂沸かしたよ〟 並ぶ文字を見て、スマホを握る手に力が篭もった。 鼻の奥がツンとして、落ちてきた鼻水を啜る。 ググッと涙を堪えていると、手の中のスマホから着信音が鳴る。既読が付いた事を確かめて、電話をかけてきたのだろう。私は呼吸を整えて、通話ボタンをスワイプさせた。 『あーちゃん!今どこにいるの?残業?』 「ううん。実家に冬タイヤを取りに行ってた」 『そっかあ!えーっと、もう取り替えた?』 「まだ。この程度ならなんとか走れるし」 『本当に?じゃあ気を付けて帰っておいで。タイヤは俺が取り替えてあげるから』 私は静止した。 ……今なんて言った? 『あーちゃん?聞こえてる?』 「え?タイヤ交換って、サトルが?出来んの?」 『一階下の内山さんが道具を貸してくれるって。この間の休みに手順も教えて貰ったんだ。任せてよ』 フロントガラスに落ちて溶けていく雪を見つめながら、私は返す言葉を見つけられずにいた。温かさが伝わってくるような同居人の声に、凝り固まっていた心が解れていく。 『タイヤの空気圧はスタンドで確認してもらった方が良いらしいけどさ、俺もついてくからね。雪道の運転も練習したいし。いつも助手席ばっかじゃカッコつかないもんな』 流れ落ちる涙をティッシュで拭い、シートに凭れ掛かる。 「今日さ、仕事で色々あって凹んじゃってさ」 『そうなの?話聞くよ。だから、帰っておいで。だけど、くれぐれも急がなくて良いからね、気を付けて』 「うん。帰る」 素直に口から滑りでた声に、肩から力が抜けた。 『待ってるよ』 待ってくれている存在がいる、その心強さを噛み締める。 通話を切り、スマホをカバンに仕舞うと再びハンドルを握った。 「あー……だめ。やっぱり大好きだわ」 ちょっとダラしない方が、気を張らなくて良い。 何度言っても堪えない図々しさも裏を返せば包容力と言えなくもない。 ついつい世話を焼きたくなる抜けたところも、結局、必要とされているようで嬉しいんでしょう? 「チョロいなぁ、私って」 でも、チョロくて何が悪い。 すぐ絆されてしまうからこそ、幸せにありつける。 お手軽に気持ちよくなってしまう私って、もしかしてずっと幸せでいられるんじゃないか? 少し小降りになった雪の中、私は意気揚々とハンドルを切り返す。こんな雪道なんて軽いものだ。アイスバーンや圧雪よりずっとマシ。 そうだ、それもサトルに教えこまないと…… 新たなミッションを得た私は、颯爽と国道へ出る。 向かう先は愛しい恋人が待つアパート。 帰ったら、温かい身体に抱きつこう。 きっと奴は抱きしめてくれるだろう。 頭の上から降ってくる言葉は、そうきっと…… 「おかえり」 全て嫌になった雪の日に ~終~
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