キャッチコピー

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「というわけで、今を生きる人たちにウケるキャッチコピーを考えてほしいんだよ」  編集長は、そう言いながら雑誌の表紙をぽんと叩いた。その途端、純白のウエディングドレスが彼の大きな手によって隠される。それを少し残念に思いながら、私は「はあ」と曖昧に頷いた。 「しかし、『Engage』には既にキャッチコピーがありますよね……?」  私の所属する部署で作られている結婚情報誌『Engage』は、この出版社が設立された当初から存在している歴史ある雑誌だ。キャッチコピーは『特別なあなたと、特別な未来を』。刊行当時からずっと変わっていないのだというそのキャッチコピーは、耳に残るような何かがあるわけではないが、決して悪いものではないだろう。だというのに、編集長は「キャッチコピーは変えるべきだ」と言った。 「先ほども言ったが、『Engage』は変わらなすぎるんだよ」 「変わらずに一定数の売り上げを出しているのは凄いことですよ」  紙の本は売れない、なんて言われるこの時代に、規模を縮小させることなく雑誌を発行し続けることの凄さが分からない編集長ではないだろう。  ただ立ち止まっているだけでは待っているのは停滞どころか後退だ。だから、『Engage』に携わる者たちは皆前に進もうと足掻いてきた。その結果得たものが”変わらぬ売り上げ”なのであれば、それは十分すぎるほどに凄いことなのだが――。などと考えていると、編集長が「そうではなくて」と声を上げる。 「結婚情報誌こそ時代の流れを汲むべきなんじゃないかと。そういう話がしたいんだ」 「時代の流れ?」  私が首を傾げると、編集長は「ああ」と頷きながら今月号の『Engage』をパラパラと捲った。 「たとえばこの特集だが――」  そう言いながら彼が指さしたのは、神木マキナのインタビュー記事だ。売れっ子女優である彼女は、基本的にプライベートについて尋ねられる取材は引き受けない。「見てほしいのはアタシじゃなくて演技だから」と随所で宣言している彼女から取材のオーケーを貰うのは容易ではないのである。しかし、今月号の『Engage』にはそんなマキナの記事が載っている。見開き1ページのその誌面には、取材班の血の滲むような努力が隠されているのだ。それを見ながら、編集長はペラペラと喋り出した。 「神木マキナを出せば売れるのは確かだ。だが、女性芸能人のインタビューばかり載せているのはどうなんだろうか、と。そういうことを一度見直すべきではないかと思ってね」 「結婚情報誌に女性芸能人ばかり載せるのは時代遅れだと、そう言いたいんですか?」  自分の声に怒りが乗ったのが分かった。けれど、私はどうしても声音を取り繕うことができなかった。 「お言葉ですが、インタビューページの人選は男だ女だという理由で行っていません。読者が望むものを考えて選んでいます」 「そうは言ってもね、男女平等が謳われる時代に極端に偏った人選をするわけにはいかないから」 「ですからそれは……!」  すかさず言葉を返そうとすると、編集長のスマホが音を立てる。 「ちょっと失礼」  そう言って彼は席を立った。編集長の電話はいつも長い。これは「この話はここで終わりだ」と言われているのと同義だろう。そう判断して私も自分の席に戻る。声にできなかった言葉たちが、心のもやもやを加速させていくのを感じた。 「結婚って何なんだろうね」  樹の焼いてくれた鮭を咀嚼し、ごくりと飲み込んでからそう問いかける。すると、樹は「何なんだろうねぇ」とのんきに笑った。 「樹の思う結婚って何?」  聞き方を変えて再度そう問いかけると、今度は「俺と美月さんみたいな関係?」と疑問符が返ってくる。 「つまりは夫婦ってこと?」 「う~ん……。確かに俺と美月さんは夫婦だけど、それは俺たちがたまたま男と女で、なおかつ人間同士だったから成り立った関係性だよね。そう思うと、結婚は夫婦になることって言いきってしまうのは違う気がする」  樹のその言葉に、私は編集長の話を思い出した。多様性、男女平等。変わっていく世の中だからこそ結婚情報誌も変わらなければならないのだと、そう編集長は主張する。けれど、本当にそうなのだろうか?私はそう考えてしまうのだ。 「……私は、結婚の持つ意味は今も昔も変わらないと思う」  ぽつりとそう呟くと、樹は「なるほど」と言いながらも理解しきれないとでも言うように首を傾げた。 「それはどうして?」  樹の問いかけを受けて、私は一度箸を置く。そして、言葉を探すようにしながら口を開いた。 「だって、結婚ってつまり愛する人同士が永遠を誓うことでしょう?樹の言う通り、法的には皆んなが皆んな夫婦になれるわけじゃないけれど……。でも、夫婦を”愛する者同士”と定義するなら行きつく先は同じだと思うの」 「難しい話だね」  樹がぽつりとそう呟く。確かに難しい話だ。答えのある問題ではないし、食事の場に持ち込む話でもなかったかもしれない。けれど、樹は私に倣うように箸を置いて話を聞いてくれた。こういう仕草に触れる度、私は樹のことを愛おしく思う。この人と夫婦になれて良かったと、心からそう思う。 「なんていうか、つまり……時代が変わっても考え方が変わっても、結婚自体の持つ意味は変わらないと思う、ってこと。愛する人と人生を共にするのが結婚だって、私はそう思うから」 「一理あるね」  要領を得ない私の説明にも、樹は丁寧に相槌を打つ。そして、「でも」と言葉を続けた。 「美月さんのところの編集長さんの言うことも一理あると思う。最近は”変わらないこと”に対する世間の目が厳しいからね」 「編集長も言ってた。時代の流れを汲むべきだって」  私がそう溢すと、樹は「そうだろうねぇ」と笑う。 「この間もニュースで言ってたよ。最近は『女性を役職に就かせない会社には投資しない』って宣言する株主もいるんだとか」 「女性の社会進出と『Engage』のキャッチコピーを変えなきゃいけないのは同じような問題だってこと?」  思わず不満げな声が出る。しかし、樹は私のそんな態度を気にも留めずにこくりと頷いた。 「そう。実情がどうであれ、会社としては”ちゃんとしていますよ”というポーズを取らないといけない。編集長さんの決断は、雑誌を守るために必要なことなんだろうね」 「それは……そう、なのかな」  あの編集長がそんな大層なことを考えているとは私にはとても思えないのだが。あの人の頭にあるのは「雑誌を守りたい」ではなく「上から口うるさく言われたくない」ではないだろうか。そんなことを考えていると、樹が「どちらにせよ」と言葉を続ける。 「美月さんが『Engage』の新しいキャッチコピーを考えなきゃならないのは確かなわけだ。だったら、まずは美月さんの結婚観を突き詰めていったらいいんじゃないかな?」 「それは……確かにそうだね」  樹の言う通り、キャッチコピーを考える前に”結婚とは”、”夫婦とは”という考えを深めていかないと出せる案も出なくなる気がした。 「結婚……夫婦……」  再び箸を持って食事を再開した樹をぼんやりと眺めながら、私はぽつりとそう呟く。ぐるぐると渦巻く思考の中、私は初めて”結婚”を意識したときのことを思い出した。  私と樹は、大学のサークルで出会った。文芸サークルという文化系のサークルだ。しかし、そのサークルは”文芸”と謳っていながら活動は俳句を詠むことばかり。その上吟行という名目のもと山登りなんかもさせられる名前詐欺のサークルだった。 「……私ね、中学の学校行事で富士登山が一番嫌いだったの」  果ての見えない山道を登りながらそう溢すと、隣を歩いていた樹が不思議そうに呟いた。 「なぜ?美月さん、自然豊かな場所が好きでしょう?」  樹の言う通り、私は自然が好きだ。とりわけ田畑や畦道といった”田舎の風景”が好きで、休日にはよくそういった場所に足をのばして写真を撮りに行っていた。恋人である樹はそんな私の趣味に付き合ってくれることが多かったため、私の登山嫌いが不思議なのだろう。 「私だって山頂の風景は好きだよ。でも、そこにたどり着くまでに要する労力が大きすぎるの」  吐き出す言葉にぜえぜえという吐息が混じる。つまり、私は体力がないのだ。中学の頃の富士登山だって、翌日どころかその後五日は筋肉痛が治らなかった。 「それは確かにそうだね。その様子を見るに、美月さんはもうだいぶ体力が奪われているようだし」 「やっぱり分かる?今回は欠席しとけばよかったかな……」  思わず本音が溢れ落ちる。俳句を詠むのは好きだから、と覚悟を決めて参加したはいいが、私の貧弱な身体ではとても山頂まで登りきれそうになかった。 「私は途中で下山するかもしれないけど、樹は気にせず進んでいいからね」  私と違って樹は体力がある。小学校から剣道をやっていたのだという樹は、物静かな見た目に反してがっしりとした筋肉がついていた。おそらく樹なら容易に山頂まで登ることができるのだろう。それに羨ましさを感じつつも言葉を紡ぐと、樹は考え込むように顎に手を当てた。そして、暫くしてからぱっと顔を上げる。 「美月さん、少し身体に触れてもいいかな?」 「へ?いいけど……」  急にどうしたの?そう告げようとした途端、私の身体がふわりと宙に浮く。樹に抱き上げられたのだ、と理解するまでに数秒の時間を要した。 「い、樹……!?」  驚いて声を上げると、樹は「あんまり暴れないでね」と釘を刺す。 「ある程度の場所までは俺が美月さんを抱えて歩くよ。そうしたら美月さんの体力ももつんじゃないかな」 「それはそうかもしれないけど……そういう問題じゃなくない!?」  子どもでもあるまいに、童話のお姫様のように横抱きにされるのには抵抗がある。それに、小さいわけでも華奢なわけでもない私を抱えて歩くのは重労働だろう。 「こんなところ人に見られたら恥ずかしいし……それに、樹だって重いでしょう?」  慌ててそう告げると、樹は不思議そうに首を傾げる。そして、さも当たり前のようなトーンで「重いのは当たり前じゃない?」と言った。 「皮膚の内側には筋肉があって脂肪があって骨があって臓器があって、色んなものが詰まってるんだよ。生きている重みがあるのは当然だ」  その言葉を聞いたとき、私はふと結婚するならこの人がいいな、と思った。どうして、と聞かれても明確な理由は答えられない。ただ、この人と一緒なら生きていくことが楽しくなるのではないかと、直感的にそう思ったのだ。 「美月さん、赤ちゃんを抱いたことはある?赤ちゃんは小さいけど、それでも羽のように軽いってわけではなくてね」  私がそんなことを考えているとは露も知らないであろう樹は、口早に生命の神秘について語り続ける。  私たちはまだお互いに学生だ。漠然と結婚するならこの人がいいな、と思ったからといって、すぐに籍を入れられるわけではない。そもそも、樹の気持ちだってまだ分からない。――けれど。  私は、横抱きにされたまま夫婦になった自分たちに想いを馳せる。それは、私の想像し得る限り一番の”幸せな未来”だった。 「編集長」  席を離れようとしていた編集長に向かってそう声をかけると、彼はくるりとこちらを振り向いた。  編集長が言葉を発するよりも先に、私は「キャッチコピー、考えてきました」と声を上げる。 「昨日の今日で?随分仕事が早いね」 「ええ。私一人で頭をひねり続けるよりも、多くの人の意見を聞きたいと思ったので」  結婚とは何か。樹との夫婦関係や、結婚を意識したきっかけを見つめ直しながら、私なりに考えた。キャッチコピーの案も、いくつかは出してきた。けれど、そうしているうちに気が付いたのだ。今真に必要なのは編集者同士の話し合いなのではないか、と。 「編集長の言う通り、時代の流れを汲むことも大切なんだと思います。でも、私には私なりの結婚観があるように、読者一人ひとりにもそれぞれの結婚観がある。時代の流れを汲むことばかりに意識を向けてそこをおざなりにしたら、『Engage』の編集者失格でしょう?」  キャッチコピーも、インタビュー記事も、全ては読者のためにある。夫婦になりたいと思ってページを繰る人のために。或いは、法的には婚姻関係を結べなくとも愛する人を思って雑誌を手に取る人のために。 「時代の流れを汲むことと読者のための雑誌を作ることは両立できるはずです。だからまずは話し合って、その辺りを突き詰めていきますね」  これが私の出した答えだ。この問いに正解なんてないのだろうけれど、それでも変えるからには既存のキャッチコピーよりも良いものにしたい、と強く思う。  時代が変わっても変わらないものはある。変わるものだってある。その全てを拾い上げることは難しいけれど、せめて読者に楽しんでもらえるものを作りたい。結局のところ、編集者が一番に考えなければならないことはそれなのだ。そう気づいた今、私は昨日よりも遥かに自分の頭が冴えわたっていくのを感じていた。
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