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5
「三十年も生きているから、色んなことがあるよな。良いことも、悪いことも」
8杯目のグラスを干して、香取くんがポツリと言う。
「戻りたい、って思わないの? 彼氏と」
香取くんの問いに考える。
私はどうしたいのだろう。
笑顔の彼を思い浮かべる。
美味しいごはんを一緒に食べたこと。
一緒に映画を観て号泣したこと。
飽きもせずに語り明かして笑いあったこと。
大好きー、と子どものように抱きついたこと。
後から後から、彼の優しい笑顔が思い浮かんでくる。
彼の心が離れて、もう戻らないんだから。
こんなこと思い出して何になるんだ。
冷静な時なら、封じ込めてきた想いは酒の力でタガが外れた。
想いが溢れ出しそうで、私は香取くんに尋ねた。
「香取くんは? 後悔してないの?」
ふっと苦笑いを浮かべた香取くんは、眉毛をハの字にした。
「そんなの分かってる。後悔しっぱなしだよ」
苦しそうな香取くんの姿が自分と重なって見え、思わず言った。
「じゃあ気持ち、素直に話せばいいのに。今なら伝わるんじゃない?」
香取くんは黙って首を振る。
「茅野こそ、言えばいいんじゃない? 今、オレに言った言葉って、茅野の本心だよね」
気づけば茅野くんが優しく微笑んで私を見つめている。
「あと一回、チャンスがあればやり直したい。でも、やり直したところで私は変われない。きっと同じ事を繰り返す」
グラスを手にして飲もうとし、中身が無いことに気づいて元に戻した。
「飲む?」
そう聞いて来た香取くんにむかって首を横に振る。
今日はもう、飲みすぎている。
これ以上心のタガが外れないように、もう止めておいたほうが良い。
「お一人もんはね、強がらないと生きていけない。あと一回、とか甘い夢も見ない。だって、頼りになるのは自分しかいないから。見るべきは、現実のみ」
勢いよく言って私は笑った。
突然笑った私に香取くんが一瞬ビクッとする。
どうやら私が怖かったらしい。
でも、心に何かが湧き上がってきたらしく、居住まいを正した。
「家族と暮らすのもお一人もんも、いずれにしても覚悟がいるんだよな。茅野と話していたら見えてきた物がある!」
そう言って香取くんはスマホを手にした。
「あと一回。あと一回だけ、オレにチャンスを下さいっ!」
土下座せんばかりに頭を下げて、スマホを通して奥さんに想いを伝えている。
素直でいいね。
これがお一人もんと家族持ちの違いかね。
そう思いながら見つめていると、やがて香取くんはガックリ項垂れた。
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